第82話 あなたが貴重
気づけば空は薄闇に包まれていた。
夕陽も沈み、時刻は午後七時前。
のんびりと駅に向かいながら、俺は軽く伸びをして身体を解す。
「久々に、結構遊んだな……」
殆ど無意識に呟いて、俺は天王寺さんの方を見た。
「天王寺さん。今日はどうだった?」
「最っっっっっ低の気分ですわ!!」
天王寺さんは派手に怒鳴り散らす。
「結局、ゲームでは一度も勝てませんでしたし、ボウリングもボロ負けでしたわ!」
「でもカラオケはいい勝負だったじゃないか」
「童謡で高得点を取っても満足できませんわ!」
ゲームやボウリングでは俺が圧勝したため、カラオケも余裕かと思ったが、実はそうでもなかった。天王寺さんはボイストレーニングを受けていたらしく、その歌唱力は目を見張るものがあったのだ。
ただし、歌のレパートリーは少なかった。クラシックには詳しいようだが、俺たちが普段聞いているような流行のバンドはてんで知らないらしい。だから最終的に、天王寺さんは誰もが知っている童謡を歌うしかなかった。その時の天王寺さんの屈辱的な表情は、はっきりと目に焼き付いている。
「天王寺さんは勝負事が好きそうだから、今日はそういう方向性で予定を立ててみたんだが……楽しんでくれたようで何よりだ」
「ええ……お陰様で、久しぶりにここまで血が滾りましたの」
天王寺さんは悔しさのあまり、拳を握り締めて言った。
「どうする? まだ何処か行くか?」
「そうしたいのは山々ですが……流石に今日はもう遅い時間ですわね」
「……そうだな」
暗くなった空を仰ぎ見て言う天王寺さんに、俺も同意する。
「それじゃあ、今日はこの辺りにしておくか」
何気ないその一言を聞いて、天王寺さんはピクリと反応を示した。
「……意地悪な言い方をしますわね」
足を止めた天王寺さんは、じっと足元を見つめる。
やはり天王寺さんは今日のことを、学院を去る前の最後の思い出作りのように考えていたらしい。
でも、今日が最後かどうかは、天王寺さんの意思次第でいくらでも変わることだ。
「縁談を断れば、またいつでも今日の続きができるぞ」
「……そんなことを言われても、わたくしの意思は変わりません」
天王寺さんは震えた声で言った。
「確かに、本日はとても楽しい一時を過ごすことができましたわ。ですがそれが、天王寺家のためになるかと言うと――」
「楽しいだけじゃ駄目なのか?」
天王寺さんの言葉を遮って、俺は告げる。
「それだけで、縁談を断る理由にはならないのか?」
そんなことを言われると思わなかったのか、天王寺さんは困惑気味に目を丸くする。
「な……なるわけ、ありませんわ。今日の出来事は私個人のこと。それに対して、縁談は天王寺家の事情です。話のスケールが、あまりにも違いますわ」
急に立ち止まった俺たちを、通行人たちが不思議そうに見ていた。
唇を噛む天王寺さんに、俺ははっきりと告げる。
「じゃあ、天王寺さんは――天王寺家のためなら、なんでも捨てるのか?」
天王寺さんが口を噤む。
「俺には、天王寺さんがどれほどの重圧を背負っているのか想像もつかない。でも、実際に天王寺さんの両親と会って一つだけ確信したことがある。……あの人たちは、天王寺さんの幸せを願っている筈だ。天王寺家ではなく、天王寺美麗のことを大事にしている」
天王寺さんの家を訪れた時、俺は彼女の母である花美さんから「美麗は学院で楽しそうに過ごせているかしら?」と訊かれた。
あの人は最初から、天王寺さんの世間体などには興味がなかった。ただ、娘が学院で楽しそうに過ごせているならそれでいいと……そう考えていたのだ。
「それは……気のせいですわ」
天王寺さんは顔を伏せたまま言った。
「お父様もお母様も優しいですから、わたくしに無理強いしないだけです。きっと本心ではわたくしに、家のために生きて欲しい筈――」
「――そんなわけないだろ!」
どうしてもその言葉だけは聞き流すことができない。
俺は今、少しだけ腹が立っていた。
どうしてこの人は――気づかないんだ。
「髪を金色に染めて! いつも変な口調で喋って! それが天王寺家のためになると、本気で思っているのか!」
「なっ!? な、な、な……っ!?」
ここでそれを口にするか、とでも言わんばかりに天王寺さんは顔を赤く染めた。
幼い頃の天王寺さんは、そうすることで家のためになると本気で信じていたのだ。成長した今は、自分の意思でその拘りを貫いている。
「それでも、雅継さんと花美さんは、何一つ文句を言ってないんだろ!?」
「――っ」
天王寺さんが息を呑む。感情のままにまくし立ててしまったかもしれない。それでも俺は、前言を撤回するつもりはなかった。
雛子の時とは事情が違うのだ。
雛子は此花家の重圧と、華厳さんの決定によって、理不尽に苦しんでいた。しかし天王寺さんの場合は理不尽ではない。天王寺さんは自縄自縛に陥っているだけだ。
俺にはそれが、どうしても我慢できない。
「あの人たちは……家のことよりも、天王寺さんのことを優先している」
傍から見れば分かりきった事実を改めて伝える。
「天王寺さんは、ちゃんとその想いと向き合っているのか?」
俺と違って天王寺さんは、まだちゃんと親と話せるのだから。
そんな思いを胸の内に隠して、俺は告げた。
◇
目の前に立つ少年の、真剣な眼差しが強く心に突き刺さる。
天王寺美麗は、伊月の言葉を受けて幼少期の出来事を思い出していた。
「美麗には、幸せになってもらわないとね」
養子として引き取られた美麗に、今の両親は何度かそう言った。自分たちは親として美麗と向き合っていくのだという宣言。けれど、決して美麗を縛りたいわけではないという優しさ。そういうものが、幼い頃から伝わってきた。
だから美麗は、そんな心優しい父と母に、恩返しをしたいとずっと思っていた。
自分を引き取った家――天王寺家の名声を知ってから、美麗は恩返しの方法を悟る。
「お母様。私が勉強を頑張れば、天王寺家のためになりますか?」
幼い頃。美麗は母にそう尋ねた。
母は嬉しそうに「ええ」と答えた。
「お父様。私が有名になれば、天王寺家のためになりますか?」
幼い頃。美麗は父にそう尋ねた。
父は豪快に笑いながら「そうだな」と答えた。
それから美麗は勉学に勤しみ、髪を染め、口調を改め、天王寺家の令嬢としての人生を歩み始めた。最初は失敗することもたくさんあった。元々、テストの点数はクラスの中でも真ん中くらいだったし、それに人望だって特別あるわけではない。それでも死に物狂いで努力した結果、美麗は一際優秀な生徒として有名になった。過去の自分が霞んで消えるくらい、美麗は血反吐を吐く思いで努力した。
「美麗。いつも夜遅くまで勉強を頑張っているみたいだけど……貴女はもっと、自由に生きてもいいのよ?」
ある日。母がそんなことを言ってきた。
「心配無用ですわ。これは、わたくし自身が選んだ道ですもの」
美麗は笑顔でそう答えた。すると母は「そう」と納得したが、その顔は不安気だった。
確かに少し頑張り過ぎているかもしれない。しかし、いずれ分かってくれる筈だ。自分はただ拾ってくれた両親のために恩返しがしたいだけなのだ。
「美麗。マナーを守るのはいいことだが、偶には気を抜いてもいいのだぞ?」
「問題ありません。天王寺家の娘として、この程度はやってみせますわ」
いつからだろう。
気づけば両親の問いに、美麗は一瞬も迷うことなく、首を横に振っていた。
(ああ……そうか)
目の前の少年、伊月の言葉が脳内で反芻される。
ちゃんと親の想いと向き合っているのか――その言葉が、美麗の価値観を激しく揺さぶった。
(わたくしは……逃げていたのですね)
娘になる自信がなかったから。
天王寺家の令嬢になる道を選んだのだ。
何故ならその方が分かりやすい。テストでいい点数を取り、気品のある立ち振る舞いをする方が、親の想いに応えることよりよっぽど簡単だ。
そんな気持ちで自分が逃げていたことを――目の前の少年は、気づかせてくれた。
「どうして……」
思わず、そんな言葉が唇から零れる。
「どうして……伊月さんは、わたくしにそこまで言ってくれるのですか……?」
家族でもないのに、どうしてこの人はここまで自分と真摯に向き合ってくれたのか。
美麗の問いに、伊月は真剣な表情で答えた。
「俺も……天王寺さんには、できるだけ幸せに生きて欲しいからだ」
恥ずかしげもなく、伊月は堂々と告げる。
「もし、今日の経験が貴重だと思うなら……どうかそれを、捨てないでくれ」
今日、自分が経験したことを思い出す。
ゲームセンターにボウリングにカラオケ……どれも、天王寺家の令嬢には不要な経験かもしれない。しかし、天王寺美麗にとってはそうではなかった。
今日は、本心から楽しめた。
「……詐欺師」
震えた声で美麗は呟く。
両親だけではなかった。
天王寺家の令嬢ではなく、天王寺美麗という一人の人間のことを、ここまで真剣に考えてくれる人が――ここにも一人いたのだ。
だから、気づかせてくれた。
「詐欺師、詐欺師、詐欺師…………貴方は本当に、口が上手い男ですわね……」
目尻に溜まった涙を、流さないように我慢することに必死だった。
感情がぐちゃぐちゃになる。きっと今、自分は、天王寺家の令嬢として相応しくない振る舞いをしているのだろう。
けれど、いいのだ。
この人は、そういう目で自分のことを見ていないのだから。
「……貴方に、騙されてあげます」
目尻の涙を指で拭い、美麗は笑った。
「縁談は、断りますわ。……これだけ貴重なものを、手放すわけにはいきませんから」
「……そうか」
伊月が目に見えて安堵する。
その姿を見ることができただけで、縁談を断った甲斐があったかもしれない。
「まあ正直、今日の経験が貴重だったのかと言われると、自信はないが――」
「そうじゃありません」
今日のことだけを貴重だと言ったわけではない。
まったく……鋭いのか鈍いのか、よく分からない人だ。
「貴方が、貴重なのですわ」
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