第79話 黙秘


「そこ、動きが遅れていますわよ!!」


 レッスンが始まって一時間が経過した。

 俺が誤った動きをすると、天王寺さんは素早く指摘する。


「な、なんか今日、いつもよりキツいような……っ」


「詐欺師に手加減なんてしませんわ!」


「ぐっ……何も言い返せない」


 気づけば俺の足腰はへろへろだった。体力だけなら天王寺さんにも負けない筈だが、恐らく俺は動きに無駄が多いため、余計な体力を使っているのだろう。


 そのまま、更に一時間ほど時が経ったところで、俺たちは足を止めた。


「本日は、これで終わりにしましょう」


「あ、ありがとう、ございます……」


 頭を下げた俺は、頬から垂れる汗を手の甲で拭った。

 天王寺さんも襟元を伸ばして顔の汗を拭く。運動着が持ち上がり、天王寺さんの細くて白い腰が見えたので、俺は少し目を逸らした。


「相変わらず、飲み込みが早いですわね」


「……あまり実感はないけどな」


「お世辞で言っているわけではありませんよ。本来なら二日かけて教える筈のものを、貴方はたったの半日で覚えています。……やはり、向上心が高いからこその成長なのでしょうね」


 そう言った後、天王寺さんはふと何かを考え込む素振りを見せた。


「どうかしたのか?」


「いえ、今更ながら自分の趣味趣向を自覚しただけです。……どうやらわたくしは、努力する人が好きみたいですわ」


 唐突に天王寺さんは言う。

 殆ど無意識に発言したのだろう。だが今の台詞は、俺にとっては少々無視しづらい。


「ええと、その……好きというのは、つまり……」


「か――勘違いしないでくださいまし!! あくまで人として尊敬するという意味ですわ!!」


「あ、ああ、そういう意味か……」


「当然ですの! そうでなければ――」


 天王寺さんはそこで、我に返ったような顔をする。


「……そうでなければ、いけませんの」


 神妙な面持ちで天王寺さんは言った。

 最近、天王寺さんはよくこの顔をする。反応に困った俺は、取り敢えず話題を変えてみることにした。


「そう言えば、天王寺さんも養子と言っていたけど、あんまりそういう感じはしないよな。俺と違って、庶民っぽくないというか……」


「物心つく頃から天王寺家で育てられましたからね。そういう意味では、わたくしは伊月さんと違って日頃の振る舞いを切り替える・・・・・必要がなかった分、努力も少なくて済みましたわ」


 庶民らしい動作が染みついている俺は、貴皇学院に馴染むために、まずは上流階級らしい動作に切り替える努力が必要だった。天王寺さんは養子とはいえ、赤子の頃から天王寺家で育てられたため、俺と違ってその切り替えを経験していない。


 しかし、だからといって天王寺さんが俺よりも努力していないことにはならないだろう。天王寺家の令嬢として生きる……その重責は、俺にはない大きなプレッシャーだ。


「ということは、天王寺さんはあまり庶民っぽい暮らしは知らないだな」


「そうですね。気にならないと言えば嘘になります」


 貴皇学院の生徒の中でも、庶民の暮らしを知る者はいる。たとえば成香は駄菓子屋によく足を運んでいるようだ。


「ですが……今は、此花雛子に勝つために、勉強に集中しなくてはいけませんわね」


 そう告げる天王寺さんは、真剣な表情をしていた。


「……前から思ってはいたけど、天王寺さんって勝負事が好きだよな」


「ええ。元々は天王寺家のために、何でも一番を狙うようにしていただけですが……いつの間にか性分になっていましたの」


 それは天王寺さんらしい。


「特に今回は……縁談次第では、わたくしの今後がどうなるか分かりませんから。今のうちに、此花雛子とは決着をつけねばなりません」


 小さく拳を握り締めて、天王寺さんは言った。

 覚悟を決めた様子を見せる彼女に、俺はふと疑問を抱く。


「今後って……縁談によって、何か変わることがあるのか?」


「最悪、学院を去るかもしれませんわ」


「……は?」


 唐突に告げられたその言葉に、俺は目を見開いた。


「縁談の相手は、ここから少し遠い場所で暮らしていますの。……先方は、できるだけ早めにわたくしと一緒に暮らしたいみたいなので、恐らく縁談が成立すると、わたくしはすぐに学院を去ることになりますわ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんでそんな急に……」


「仕方ありません。わたくしも昨晩、聞いた話ですから」


 天王寺さんは冷静に言う。


「縁談を受け入れるとは、こういうことですわ。……家の意向に従い、両家の関係のために粉骨砕身する。わたくしはもう、自由を許されない立場ですの」


 そう言って天王寺さんは唇を引き結んだ。

 今の天王寺さんに、いつもの自信は存在しない。その様子を見て、俺は意を決して問いを繰り出すことにした


「……あのさ。天王寺さんは、本当にその縁談を、良く思っているのか?」


 その問いに、天王寺さんは一瞬、悲しそうな顔をした。

 だがすぐに目を閉じ、次の瞬間には上品な微笑を浮かべ……答える。


「黙秘しますわ」


 それはもう――答えを言っているようなものだった。




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