第77話 先手


「伊月さん、本日も天王寺様とのレッスンお疲れ様です」


 屋敷に帰ると、静音さんが出迎えてくれた。

 俺はこれから今日起きたことについて、静音さんに報告する義務がある。緊張のあまり拳を握り締めた俺は、深呼吸して口を開いた。


「あの……静音さん。少しお話したいことがあります」


「奇遇ですね。私もです」


「え?」


 どうやら静音さんの方も、何か俺に用事があるらしい。

 心当たりはない。しかし……きっと今回ばかりは俺の用件の方が重大だろう。


「では、まずは伊月さんの用件を窺いましょう」


「……はい」


 俺は今日あったことを全て正直に伝えた。

 天王寺さんに正体がバレたこと。しかもそれは――俺の意思であること。俺は緊張しつつも、まるで罪滅ぼしでもするかのように詳細な説明をする。


「雛子の、素の性格に関しては伝えていません。ただそれ以外は……殆ど説明しました」


「……そうですか」


 静音さんは神妙な面持ちで頷いた。

 天王寺さんは、嘘を拒むだけで黙秘することは容認してくれた。雛子の性格まで暴露すると、雛子や此花家が不利になるかもしれないので、それだけは今後も黙秘させてもらうつもりである。


「正直で何よりです」


「……え?」


 どのような処遇となるのか、恐れていた俺に、静音さんはまるで感心したような素振りを見せた。その意味が分からず、俺は目を丸くする。


「先程、天王寺美麗様から電話がありました。用件は、貴方を退学させないで欲しいとのことです」


 その言葉に、俺は驚愕する。


「大体の事情は聞いています。……美麗様は、自分が冷静でいられなかったせいで、伊月さんのことを必要以上に勘ぐってしまったと反省していました。今回の件の責任は、自分にあると美麗様は主張しています」


「そんなことは……」


 多分、天王寺さんは……俺と別れてすぐに連絡を入れたのだろう。

 天王寺さんは、そういう人だ。動揺する一方で、どこか納得している自分がいる。


「流石は天王寺家のご令嬢です。私が伊月さんの身分について知っていること承知の上で、わざわざ私を名指しして連絡されました。……いきなり華厳様へ報告すると、伊月さんの立場が危うくなると見抜いたのでしょう。……華厳様には私の方から伝えておきます。本来なら、即刻クビにされるような失態ですが……天王寺家のご令嬢にあそこまで懇願されると、華厳様も無下にはできません。こうなってしまった以上、貴方をクビにすることで逆に天王寺家との確執を生みそうです」


 天王寺さんが電話してこなければ、俺は今まで天王寺さんを騙していたけじめとしてクビにされていたかもしれない。しかし天王寺さんが必死に俺のことを庇ってくれたおかげで、此花家としては、俺をクビにすると逆に天王寺家と仲違いしてしまうかもしれないという結論に至ったわけだ。


「救われましたね」


「……はい」


「私も今回の件は責任を感じています。……やはり、天王寺家ほどの相手になると、情報操作も限界がありますね。もっと対策をする必要があるかもしれません」


 静音さんは真面目な面持ちで言った。

 すると、廊下の向こうから雛子がこちらを見ていることに気づく。


「雛子?」


 声を掛けると、雛子は小さな歩幅でこちらに歩み寄った。


「二人とも……どうしたの?」


「実は、伊月さんの正体が天王寺様にバレたようでして」


「……え」


 眠たそうな雛子の目が、ゆっくりと見開かれる。


「伊月は、どうなるの……? まさか……クビに、なったり……」


「恐らくその心配はないかと」


 静音さんは淡々と告げる。

 すると雛子は、俺の隣まで歩いて来て、


「いてっ」


 脛の辺りを軽く蹴られた。


「……心配、させないで」


「……悪い」


 唇を尖らせる雛子に、俺は謝罪する。


「でも……どうして、バレたの……?」


「……俺がこれ以上、天王寺さんに嘘をつきたくないと思ったんだ。天王寺さんは、他人が不利になるようなことをする人じゃないし……信頼できると判断した」


「……む」


 不意に、雛子は不機嫌そうな声を零した。


「随分と……信頼してる」


「ああ。でも、天王寺さんがそういう人なのは雛子も分かるだろ?」


「……それはそうだけど」


 むむむ、と雛子は複雑そうな顔をする。

 やがて小さな唇が開き、


「……伊月の馬鹿」


「えっ!?」


 雛子は踵を返して、何処かへ去って行った。

 その後ろ姿を、俺は呆然としたまま見届ける。


「し、静音さん。俺……雛子に、嫌われてしまったんでしょうか……?」


「いえ、別にそういうわけではありませんが……」


 静音さんは額に手をやって、溜息を吐いた。


「……私はどうするべきなんでしょうか」




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