第70話 気づいてはいけないお嬢様
天王寺さんが、汗で透けた運動着から代えの運動着に着替えた後。
俺たちはダンスの練習を再開し、更に一時間近くワルツを踊り続けた。
「……中々、様になってきましたわね」
「ありがとうございます」
右回りのナチュラルターン、左回りのリバースターンを、流れるような動作で行う。
足を開くタイミングと、足を閉じるタイミング。この二つのタイミングがパートナーと合っていないと、ダンスは簡単に破綻してしまう。
俺が思ったよりも気楽に踊れているのは、天王寺さんが俺の動きに合わせてくれているからだ。足を開く角度が広くなってしまった時も、天王寺さんは臨機応変に対応してみせる。相当、身体が柔らかいのだろう。嫋やかな天王寺さんの動きについていくうちに、こちらの硬さまで解れていくようだった。
「本日はこの辺りで終わりにしましょう。初回の練習ということもあって、少々、張り切りすぎたみたいですわ」
「そうですね……体力がもう、ギリギリです」
互いに息を整える。
普段、使わない筋肉を使ったからか、こちらも大分疲労していた。
「と、ところで、ですね……」
荷物を纏めていると、天王寺さんが何か言いにくそうに声を掛けてくる。
「……今後、また服が透けているようなことがあれば、できるだけ早く教えてください。……その、後で気づくと恥ずかしいですわ」
もじもじと、恥ずかしそうに天王寺さんは言った。
「いや、でもそれは……なるべく、自分で気づいていただいた方が……。俺が伝えるということは、俺が見ることになるわけですし……」
「も、問題ありませんわ。西成さんは、そういう人ではないと信じていますので……」
そんな簡単に信じられても困る。
日頃から雛子と接しているおかげで、多少は耐性ができているが、俺にだって我慢の限界があるのだ。
とは言え、これは天王寺さんが俺のことを信頼してくれている証拠だろう。
その信頼に応えるためにも、俺は頷いた。
ダンスに使用した道具を片付けて体育館の外に出ると、橙色の陽光が顔を照らした。
外はすっかり夕焼けに染まっている。
「社交ダンスには慣れていますが、こんなに長時間踊ったのは初めてかもしれませんわ」
天王寺さんが汗のついた髪を軽く撫でながら呟いた。
「やっぱり、天王寺さんほどの家柄になれば、社交ダンスをする機会も多いんでしょうか?」
「人によりますわね」
歩きながら、天王寺さんは説明する。
「単なる会食と違って、舞踏会は念入りに準備しなくては開催できないイベントですから。殆どの場合、事前に参加の可否を記入する招待状が届きますわ。社交ダンスを苦手とする人は、大抵そこで不参加を選びますの」
「なるほど。……会食と違って断りやすい分、ダンスを嗜む人と、そうでない人で二分されるということですね」
天王寺さんが首肯した。
「とは言え、もし舞踏会に参加することになれば……粗末な踊りを披露することは勿論、壁の花になるのも不名誉なことですわ。学ぶに越したことはない、教養の一種と考えてよいでしょう」
その言葉に、俺は頷いて同意を示した。
「俺は舞踏会なんて滅多に呼ばれませんから、いつになるか分かりませんけど……次の機会までには、人前で踊れるようになりたいですね」
無事に技術を習得した以上は、きっと披露したくなるだろう。
雛子が参加する舞踏会があれば、そこが俺の社交ダンスデビューになるかもしれない。
「……あまり、悠長なことは言っていられませんわよ」
その時、天王寺さんは視線を落として言う。
「わたくしの縁談が成立すれば、今までのように放課後を一緒に過ごすことはできなくなりますわ」
「……そう、なんですか?」
「当然ですわ。将来を誓った殿方がいらっしゃるのですから、空いた時間はできるだけその方のために費やすべきでしょう」
言われてみれば、そうかもしれない。
婚約者がいるのだから、それ以外の異性とプライベートで何度も会うのは憚られるだろう。
「それは……寂しくなりますね」
思わず、そんなことを呟く
すると天王寺さんは、目を丸くしてこちらを見た。
「寂しい、ですか?」
「はい。……改めて思いましたが、天王寺さんと一緒に何かをするのは楽しいので。こういう時間がなくなるのは素直に寂しいです」
本音を告げると、天王寺さんは頬を赤らめながら、顔を逸らした。
「そ、そう、ですか……」
よく分からない反応をされ、首を傾げる。
流石に馴れ馴れしすぎる発言だっただろうか。
「……ふふっ」
こちらに背を向ける天王寺さんが、小さな笑い声を発した。
「えっと、天王寺さん?」
「な、なんでもありませんわ」
慌てた様子で、天王寺さんは首を横に振った。
「それでは西成さん、また明日」
「はい、また明日」
学院の校門前で、天王寺さんと別れる。
その後ろ姿は、いつもより嬉しそうに見えた。
◇
「ふふっ」
伊月と別れ、屋敷に帰ってきた美麗は、自室に向かいながら自然と笑みを零した。
「……ふふふっ」
足が軽い。少し前まで汗水垂らしてダンスの練習をしていたのに、その疲労がどこかに吹き飛んだような、不思議な気分だった。
『天王寺さんに色んなものを教わるのは、楽しいので。……こういう時間が過ごせなくなるのは寂しいです』
伊月と別れてから、ずっと頭の中で彼の言葉が反芻されていた。
その度に、温かい気持ちになる。
(寂しいと思っていたのは……)
胸に軽く手を当てて、美麗は思う。
(
この晴れやかな気持ちは自分だけのものではなかった。
無意識の中にあった感情が、正しいものだと証明されたような気がした。誤解でも錯覚でもなく、自分は伊月と同じ感情を抱いていた。
(こんな日々を、ずっと続けるにはどうすれば……)
ふと、そんなことを思う。
縁談が成立すれば、伊月と会う機会が減ってしまう。
(そうですわ。いっそ、天王寺家の食客としてお招きすれば……)
そうすれば縁談が成立しても伊月と会うことができる。
今までのように、お茶会をして、一緒に勉強して、ダンスの練習ができる。
まるで名案が浮かんだかのように、美麗は目を輝かせたが――。
「……何を、馬鹿なことを」
我に返る。そんなこと、実現できる筈もない。
自分にとってならともかく、天王寺家にとって西成伊月という人物はただの学生だ。食客にするための正当な理由がどこにも存在しない。
「美麗?」
その時、背後から誰かに声を掛けられる。
振り返ると、そこには自身の母親――天王寺花美がいた。
「あら、お母様。どうかなさいましたか?」
「それはこっちの台詞よ~。廊下でうんうんと唸っていたから、何かあったのかと思ったのだけれど……」
「何でもありませんわ、ちょっと考え事をしていただけですの」
誤魔化すように美麗は言った。
「美麗、ここ最近……楽しそうね」
「え?」
「気づいてないの? 貴女、西成さんと放課後を過ごすようになってから、毎日楽しそうにしているわ」
楽しいと自覚したのは、つい先程だ。
しかし、それが以前から態度として表われていたとは思いもしなかった。
「よければ教えてくれないかしら。美麗にとって、西成さんがどんな人なのかを」
「そう言われましても……どうしてお母様が、西成さんのことを気にするのですか?」
「あら、娘に影響を与えた人なんだもの。気になるのは当然でしょ~?」
どこか嬉しそうに花実が言う。
美麗は母の親心を感じ、溜息を吐いて語り出した。
「そうですわね……西成さんは、とても熱心な方ですわ」
今までの日々を思い出しながら、美麗は告げる。
「最初はどこか弱々しいというか……自信のない印象でしたが、あの方には向上心がありました。自分を変えたいという気持ちが強く、学院での日々をとても大切にしていることが見て取れます」
初めて会った時は、姿勢も悪かったし、態度もおどおどとしていた。
だが、そんな印象を覆したのは、一ヶ月前のお茶会や勉強会、そしてここ最近の放課後に見せた直向きな精神だろう。
「初めは付け焼き刃のようだったテーブルマナーも、今ではすっかり馴染んできましたの。無論、わたくしの指導が良かったのは間違いありませんが、それ以上に西成さんが真剣な姿勢で学んでいますから、習得が早かったのでしょう」
正直、こんな早く習得するとは思ってもいなかった。
きっと放課後の授業だけでなく、家に帰ってからも自習しているのだろう。その姿勢は尊敬に値する。
「今日のダンスの練習でも、西成さんは一生懸命で……どこまで成長するのか、今から楽しみですわ」
今頃は、家に帰って復習でもしているのだろうか。
そう思うと何故か、嬉しい気持ちになる。
「いいお友達と巡り会えたようね」
「ええ。西成さんを見ていると、とても良い刺激が手に入ります。できれば、これからも彼と一緒に――」
そこまで口にしたところで、美麗の頭は急速に冷めた。
自分が、想像以上に今までの日々を大切にしていたことを自覚する。思わず口からそんな願望が吐露されそうになった。
だが、その日々はもう終わるのだ。
これからは父と母が用意した、別の相手と共に過ごさねばならない。
「……縁談の相手も、そういう方であれば幸いですわね」
絞り出したような声で美麗は言った。
悟られてはならない。自分がこの縁談に対して、少しでも残念に思っているだなんて、母親に知られるわけにはいかない。
「美麗。いつも言っているけれど、無理に気負う必要はないのよ? 貴女はもっと自由に育って……」
「……心配ご無用ですわ、お母様」
母の言葉を遮るように、美麗は言う。
「わたくしは、自由に生きています」
「……そう」
いつも通り堂々と、惚れ惚れするほどの美しい笑みを浮かべて美麗は言った。
しかし母は、どこか悲しそうな顔で頷いた。
「縁談の件なのだけれど、そろそろ一度、顔合わせをしようという話になっているの。だから美麗……近々、時間を作ってもらえるかしら?」
「勿論ですわ」
競り上がる感情を強引に押し殺して、美麗は頷いた。
天王寺家の娘として、この気持ちを自覚することは許されない。
――それでも。
ひとつだけ、恨み言を口にしても許されるなら。
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