第66話 キレたお嬢様
「お戻りになられましたか」
此花家の屋敷に着くと、静音さんに出迎えられた。
「ただ今戻りました。……すみません、昨日は急に外泊してしまって」
「それはもう構いません。過去の問題よりも、今の問題です」
今の問題?
まるで現在、何かの問題に直面しているかのような言い方をする静音さんに、俺は首を傾げた。
「すぐにお嬢様の機嫌を直してください。……お嬢様が、キレてらっしゃいます」
「……え? キレて?」
非常に困った様子で告げる静音さんに、俺は首を傾げた。
機嫌を悪くしているかもしれないとは思ったが、まさかキレるほどだったとは。しかしキレた雛子というのも、いまいちイメージしにくい。雛子のことだから、癇癪を起こすような真似はしないと思うが……。
雛子の部屋に向かい、扉の前で深呼吸する。
そしてドアをノックした。
「雛子、入っていいか?」
「……ん」
ドアの向こうから、不機嫌そうな声が聞こえた。
確かに機嫌は悪いようだ。恐る恐る、ドアを開ける。
雛子はベッドの上で、寝転びながら毛布にくるまっていた。
俺が部屋に入ると、もそりとその身体が動く。
「……おかえり、伊月」
「あ、ああ。ただい――」
「嘘つきの伊月」
こちらの言葉を遮るように、雛子は言った。
初めて見る雛子の怒った姿に、俺は口を開けたまま硬直した。
「日帰りって、言ったのに……」
「いや、それはその……緊急事態だったというか……」
「……朝帰り」
雛子がこちらを睨む。
「……朝帰り」
「まあ、その、朝帰りと言われたら朝帰りだけど……」
その言い方は変な誤解をされそうなので、できればやめてほしい。
誠意を見せるためにも、今一度、事情を説明した方がいいだろうか。
「ええっと、だな。最初は本当に日帰りのつもりだったんだ。ただ昨日の夜、急に天気が崩れて……雷が降っていたのは雛子も知っているだろ? だから天王寺さんの家に泊まったのは、やむを得なかったというか……」
冷や汗を垂らしながら説明すると、雛子は無言でこちらを睨み続けていた。
いつにも増して表情が読み取りにくい。
「わ、分かってくれたか……?」
「……ん」
雛子は小さく首を縦に振る。
「長々と、言い訳して……ご苦労さま」
駄目だ。
本格的に怒っていらっしゃる。
「……来て」
「え?」
「……こっち、来て」
不機嫌そうな顔で、雛子はベッドをぺしぺしと叩いた。隣に座れということらしい。
ベッドの傍まで近づくと、雛子は突然、俺の胸元に顔を埋める。
「お、おい? 雛子?」
「……匂い」
ポツリと、雛子が呟く。
「伊月の匂いじゃない。……落ち着かない」
俺の匂いってなんだ……。
そう言えば雛子と初めて会った時も、「いい匂いがする」と言われたような気がする。もしかして雛子は嗅覚が鋭いのだろうか。
「天王寺さんと一緒に、食事したんだ……?」
「……まあ、したけど」
「天王寺さんの家で、お風呂に入ったんだ……?」
「……まあ、入ったけど」
食事も風呂も、泊まったのだから当然そうなる。
「天王寺さんと一緒に、お風呂に入ったんだ……?」
「いや、流石に一緒には――」
即座に否定しようと思った次の瞬間。
脳裏に、バスタオル一枚の天王寺さんの姿が過ぎった。
「――ぁ」
思わず、声を漏らす。
「…………あ?」
「いや、その……」
「今の
駄目だ、もう言い逃れはできそうにない。
そもそもあれは一緒に入ったことになるのだろうか。それすら疑問だが、下手に誤魔化しても追及を逃れられそうにないため、俺は正直に風呂場での一悶着について白状した。
「むぅ……! むぅぅ……!!」
案の定、雛子は顔を真っ赤にして怒った。
「しないって、言ったのに……!」
「事故! 事故なんだって! 一緒に入ったというか、偶々同じ場所にいたようなものだし!」
ちゃんと説明したつもりだが、雛子はまだ納得していなかった。
「天王寺さんと一緒にご飯を食べて、天王寺さんと一緒にお風呂に入って…………私と、同じことをしてる……! 伊月は……天王寺さんの、お世話係なの……っ!?」
「違う、そんなことはない! 俺は雛子のお世話係だ!」
大体、雛子と同じことを天王寺さんにしているわけがない。
一緒に食事こそしたが、雛子のように直接食べさせたわけではない。一緒に風呂に入ってしまったが、雛子のように髪を洗ったわけではない。
「だったら……!」
雛子が俺の袖を掴み、引き寄せる。
「だったら……伊月は、誰よりも私の傍にいるべき……」
途端にしおらしい態度を取る雛子に、俺は少しだけ動揺した。
不安にさせてしまったのかもしれない。俺が雛子のもとを離れて、天王寺さんのもとで働くとでも考えたのだろうか。――そんなこと、ある筈がないのに。
「大丈夫だ。そのくらい、分かってる」
「む…………分かってないから、言ってる」
「いや、分かってる」
はっきりと伝えた直後、部屋のドアが開いた。
「失礼します。お嬢様、昼食のご用意ができました」
「……ん」
静音さんが一礼して告げた。
機嫌が悪い雛子も空腹には勝てないのか、のそのそとした動きでベッドから下り、食堂へ向かう。
雛子が食堂に着くと、すぐに使用人が椅子を引いた。雛子は慣れた様子でその椅子に座り、ナプキンを膝の上に置く。
そんな光景を眺めながら――俺は、雛子の隣の席を引いた。
「隣、座ってもいいか?」
「……伊月?」
食堂まで着いてきた俺を見て、雛子が目を丸くした。
今まで雛子は一人で食事をとっていた。だから、昼食の時間にも拘らず、俺が傍にいることに驚愕しているのだろう。
「本日から、伊月さんもご一緒に食事をとります」
静音さんの言葉に、雛子は更に目を見開いた。
静音さんが俺の方を見る。ここから先は俺が説明した方がいいらしい。
「最低限のテーブルマナーを習得するまでは、雛子と一緒に食事をしてはいけない。そういう約束だったからな。……だからまずは、天王寺さんにテーブルマナーを教わったんだ。それで、なんとか成果を出すことができたから、今日から一緒に食事ができるようになった」
未だに驚いたまま硬直する雛子へ、俺は続けて言う。
「雛子さえよければ、これからはできる限り一緒に食事をとろうと思っているんだが……それでいいか?」
今更、少し恥ずかしいことを言っているような気がして、妙な気分になる。
これで拒絶されたら、人生最大の黒歴史になること間違いなしだが……どうやら、その心配は杞憂だったらしい。
「……ん!」
満面の笑みを、雛子は浮かべる。
どうやら無事に機嫌は直ったらしい。
この笑顔を見ることができたのも、天王寺さんのおかげだ。
月曜日になったら、必ず礼をしよう。
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