第63話 バスタオル一枚お嬢様
部屋にあったバスローブを持った俺は、客室から少し歩いたところで待機していた使用人に、大浴場まで案内してもらった。脱衣所で服を脱ぎ、少しワクワクした気分で風呂の扉を開く。
「おぉ……これは確かに、自慢したくなる風呂だ」
天王寺家の大浴場は、別邸とは思えないほどゴージャスな造りをしていた。
学校のプールと同じくらい広い浴場が二つあり、更に露天風呂まで用意されている。蛇口が金色のライオンであることは薄々予想していたが、随分と大きくて目立つ像だった。
「天井……高っ」
湯気が雲のように、天井付近で固まっている。
普段は見られない光景を楽しみつつ、軽く身体を洗った俺は湯船に浸かった。
「はぁ…………生き返る」
別に死んではいないが。
一人になると、つい定番の呟きを口にしてしまう。
そういえば一人で風呂に入るのは久しぶりだ。お世話係になって以来、ずっと雛子と一緒に入っていたので、今日はいつもより落ち着いていた。
一人でのんびりと入る風呂も悪くない。
悪くはないが、やはりどこか寂しいとも感じる。なんだかんだ、俺は雛子と一緒にいることで居心地の良さを感じていたのかもしれない。
「……あら?」
その時、背後から
あまりにも予想外なので、思わず硬直する。声がした方をよく見れば、湯気の中に人影が佇んでいることに気づいた。
「ま、まさか……天王寺さん?」
「はい、天王寺ですが」
随分と落ち着いた声音で返事がされる。
だが、それは俺が知る天王寺さんの声ではなかった。似ているが、微妙に違う。口調もいつもとは異なっているように思える。
湯気の向こうから、誰かが近づいてきた。
その人物は――栗色の髪を後ろでまとめた、若い女性だった。上気して赤く染まった頬や、瑞々しい肌に滴る水を見て、思わず視線を逸らす。
しかしその女性は、悲鳴を上げることもなく、この場から立ち去ることもなく、それどころか更にこちらへ近づいてきた。
「あらまあ、こんなところで会うなんて。うふふ、面白い初対面になりましたね」
おっとりとした雰囲気を醸し出すその女性は、口元を手で隠しながら微笑んだ。
「貴方が、西成さんね。……はじめまして。私は
「あ……その、西成伊月です。こちらこそ、天王寺……美麗さんにはいつもお世話になっています」
「あら、礼儀正しくていい子ね~」
硬直する俺を他所に、花美さんは感心した様子で笑みを浮かべる。
同級生の母親にしては随分と若い。二十代の前半にしか見えない容姿だ。風呂に入っているのだから、恐らく化粧も落としているだろう。それでこの見た目なのだから、正直、天王寺さんの母親であると言われても信じがたい。
「西成さんはとても勉強熱心な方だと、いつも美麗から聞いているわ。客室だけじゃなく、この屋敷にあるものは好きに使ってちょうだいね」
「あ、ありがとうございます……」
褒められたので、思わずこちらも頭を下げる。
そこで漸く俺は正気を取り戻した。
「――いや! そんなことより! ここ、男風呂だと思うんですが!!」
「あら? それは本当?」
花美さんは暢気に首を傾げた。
どうしてこの人は、裸の男を前にしてこんなに落ち着いているのだろうか。
「本当だと、思いますけど」
「あらあら~、それは困りましたねぇ」
俺の方がもっと困っている。
客である俺ならともかく、この家のことをよく知るであろう目の前の女性が、男風呂と女風呂を間違えることなんてあるだろうか。いっそ俺の方がおかしいのではないかと錯覚すら抱く。
「折角だから、一緒に入っちゃいましょうか~」
「はい!?」
頭がクラクラしてきた。
距離感がよく分からない。まさかこの人は、俺のことを小学生かそのくらいの子供とでも見ているのだろうか。
「西成さん?」
困惑していると、壁の向こうから少女の声がした。
「その声……天王寺さん?」
「ええ、わたくしですわ」
天王寺さん(本物)だ!
よかった、彼女ならこの状況をなんとかしてくれるかもしれない。
「それより、どうかしまして? 随分と騒がしくしていましたが……」
壁を挟んだ向こう側には女風呂があるらしい。
天王寺さんの心配するような声に、俺はできるだけ花美さんから目を逸らしながら説明しようとした。
「ああ、実は――」
「――あら、美麗。そっちにいるのね?」
こちらが説明するよりも早く、花美さんが言う。
一瞬、時が凍ったかのように思えた。壁の向こうにいる天王寺さんは声を発さない。ぴちょん、ぴちょんと水滴の垂れる音だけが、やたら大きく聞こえた。
「お、お母様っ!? どうしてそちらへ――っ!?」
再起動したらしい天王寺さんが、大きな声で言う。
「ごめんね~、美麗。私、また間違えちゃったみたい」
「こここ、今回ばかりは洒落になっていませんわよ! すぐにそこから立ち去ってくださいまし! は、母親の裸を同級生の男子に見られるなんて、黒歴史は避けられませんわ!!」
それはそうだろうな……。
「え~。でも折角だし、私、西成さんと色々お話したいわ~」
「お母様!!」
「いっそ、美麗もこっちに来たらいいんじゃない?」
「お母様!?」
「西成さん、結構いい身体つきよ?」
天王寺さんからの返事がなくなった。
暫く待っていると、脱衣所の方からドタドタと慌ただしい足音が聞こえ――。
「――お母様ッ!!」
大きな音を立てて、天王寺さんが男風呂のドアを開いた。
そちらに振り向いた俺は――すぐに目を逸らす。
天王寺さんは裸にバスタオルを一枚だけ巻いたような姿だった。雛子と違って発育がいい天王寺さんは、バスタオルを巻いていても色々と危なっかしくて直視できない。更に、風呂に入っていたからか、今の天王寺さんはいつもと違って髪を下ろしており、それが妙に大人らしくて思わず見惚れてしまいそうになった。
「さ、さあ! すぐにそこから出ますわよ! お、お母様も女性なのですから、もう少し慎みを持ってくださいまし!!」
「はいはい、まったく仕方ないわね」
そう言って花美さんは立ち上がる。
すぐに目を閉じようとした俺は、その直前、視界の端に映る花美さんの姿が裸でないことに気づいた。
「み、水着…………?」
「お母さん、さっきまでプールで泳いでいたから、そのままお風呂に来たのよ~。流石に裸だと恥ずかしいでしょ?」
呆然とする天王寺さんに、花美さんは遅すぎた説明をする。
いや、貴女が水着でも、俺は裸なんですけど……。
「それより美麗。……貴女こそ、慎みを持った方がいいんじゃない?」
花美さんが天王寺さんの方を見て言う。
慌てていたせいで、自分が今どんな姿をしているのか自覚がなかったのだろう。天王寺さんは視線を下ろし、自分がバスタオル一枚しか纏っていないことに気づくと、顔を真っ赤に染めて――。
「ひぃあぁあぁあぁあぁぁぁああぁぁぁ――――っ!!?!?!?」
広々とした浴場に、天王寺さんの悲鳴が響いた。
ここに来た時以上に大きな足音を立てて、天王寺さんは去っていく。
「あらあら、騒がしいわね」
「……半分以上は、貴女のせいだと思いますけど」
どこか楽しそうに微笑む花美さんに対し、俺は深く溜息を吐いた。
「ところで、西成君」
急に、花美さんは真面目な面持ちでこちらを見た。
水着を着ているとはいえ、花美さんの姿は健全な男子にとって刺激的である。俺は身体の正面を花美さんの方に向けつつ、少しだけ視線を逸しながら話を聞いた。
「美麗は学院で、楽しそうに過ごせているかしら?」
真面目なトーンで繰り出された質問は、天王寺さんに関することだった。
母親として娘のことが気になったのだろうか。もしかすれば花美さんは、最初から俺にこの質問がしたかっただけなのかもしれない。
俺は、学院にいる時の天王寺さんを思い出して……はっきりと、首を縦に振った。
「はい。天王寺さんは、いつも堂々としていて、どんなことにも真っ直ぐで……きっと、毎日楽しく過ごしているかと思います」
「……そう。ならよかったわ」
花美さんは柔和な笑みを浮かべた。
その表情は、本当に心の底から安堵しているように見えた。
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