第61話 父と違って手厳しいお嬢様


 雅継さんの提案によって、俺はそのまま天王寺家の食卓に招かれた。

 勉強会のつもりが、いきなりの実践である。しかし困惑する俺を他所に、天王寺さんは乗り気だった。「練習より実践の方が身になるに決まっていますわ」……などと言われると、こちらも頷くしかない。


 午後七時。

 目の前に並べられたイギリス式の料理を平らげた俺は、ナプキンの内側で口元を拭い、カラトリーを皿の上に置いた。


「ご馳走様でした」


 その言葉を口にすると同時に、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩くなった。

 正直、あまり味を楽しむ余裕がなかった。きっとハイレベルな料理を出されていたのだろうが、俺はマナーの実践と、緊張を顔に出さないことで頭が一杯だった。


「……ふむ」


 向かいに座る雅継さんが、こちらを真っ直ぐ見据える。


「なんだ、しっかりしているではないか。少なくとも今回、私は君と食事をして不快感を覚えることはなかったぞ」


「あ、ありがとうございます」


 賞賛を受けて、頭を下げる。


「お父様、少々判定が甘いのではなくて? まだスープを飲む際の動きがぎこちないですわ」


 そう言って天王寺さんは紅茶入りのカップを口元で傾ける。

 その優雅な動きは、中々真似できるものではなかった。


「確かに、多少緊張している点は気になったが……まあそれは、この私が相手なのだから仕方ないな! わはははっ!」


 雅継さんが豪快に笑う。

 張り詰めていた緊張が、おかげで和らいだ。


 冷静に考えれば……これはいい機会かもしれない。

 今回のように、上流階級の中でも特に高い立場である人から色々と話を聞くことができるのは貴重な体験だ。此花家の当主である華厳さんは、いつも本邸の方で仕事をしているため滅多に会うことができない。


「あの……こういう場面で、緊張しないコツとかってあるんでしょうか?」


 折角の機会なので、何かアドバイスが欲しい。

 そう思い、俺は雅継さんに質問した。


「ふむ。……逆に訊くが、こういう場面で緊張しない人間がいると思うかね?」


 雅継さんに訊き返される。

 その問いに俺は即答できなかった。少なくとも今回の食事中、雅継さんに緊張している様子はなかったが……。


「恐らく君が、その質問を私にした理由は、私が緊張とは無縁な人間に見えたからだろう?」


「えっ!? い、いえ、そういうわけでは……」


「本当のところは?」


「………………その、少し」


「わはははは! 正直でよろしい!」


 雅継さんが楽しそうに笑う。

 しかし、俺は別に雅継さんを馬鹿にしているわけではない。寧ろ反対で、その堂々とした振る舞いに憧れて先程の質問をしたのだ。


「確かに私は、殆ど緊張とは無縁の人間だ。誰に対してもこの態度を貫くことができる」


「誰に対しても、ですか……?」


「うむ。私は総理大臣の前でもこの態度を崩さんよ」


 総理大臣という単語が飛び出たことで、内心、驚愕する。しかし天王寺グループのトップがその単語を口にしても、何ら不思議ではない。その気になったら気軽に会食できるような立場なのだろう。


 しかし、総理大臣が相手でもこの態度を貫くというのは流石に驚いた。

 冗談で言っているのではないのだろう。雅継さんは当然のように告げていた。


「但しそれは、現時点での話だ」


 雅継さんが補足する。


「誰しも最初からこのような態度は取れんよ。私とて若い頃は苦労したものだ。長い時間をかけて、色んな成果を積み上げてきたからこそ、今の私がある」


 そう言って雅継さんは、強い意志を秘めた目で俺を見た。


「実績を作りなさい。とにかく行動しなさい。……たとえ失敗しても構わない。いざという時に自分を支えてくれるのは、過去の自分の行いだ」


 貫禄の込められた言葉が、告げられる。


「君も、何かひとつくらいあるだろう? 強い信念を持って、成し遂げた何かが」


 その問いに、俺は半月ほど前のことを思い出した。

 お世話係を解任されて、雛子と離ればなれになりそうだった、あの時。俺はもう一度、雛子の隣に立ちたいと思って此花家に侵入した。あの感情は信念に他ならない。


「――はい」


 自分でも不思議なくらい、堂々と断言できた。

 そんな俺を見て、雅継さんは満足気に頷く。


「うむ、良い目だ。その経験はきっと君の芯になるだろう。そういうものを増やしていくといい」


 雅継さんが話を締め括ると同時に、傍にいた使用人たちが食卓の皿を片付け始める。


 なんとなく、雅継さんの凄さが分かったような気がした。

 この人は華厳さんと違って、あまり厳かな空気を醸し出さない。しかしそれは厳かな態度が苦手だからではなく、単に必要としていないからだ。


 雅継さんは、わざわざ畏まった態度を取らなくても、相手に裏切られることはないと信じているのだ。


 相手の誠意を信頼しているわけではない。相手が誠意しか持てないくらい、雅継さんは今まで奮闘してきた。そんな過去の自分を信頼している。


 その時――。


「む」


 近くで雷の落ちる音がした。

 雅継さんが僅かに声を漏らし、窓を見る。俺も釣られて窓の外を見た。


「雨? いつの間に……」


「食事を始めた辺りから降っていましたわ。西成さんは緊張のあまり、気づいていないようでしたが」


 天王寺さんが呆れた様子で言う。

 仰る通り、全く気づいていなかった。


「大雨警報が出ているな。今朝のニュースでは小降りと聞いていたが……」


 雅継さんが手元のタブレットを見ながら言う。


「お父様……」


「うむ。それがいいだろうな」


 天王寺さんと雅継さんが、何やらアイコンタクトしていた。

 雅継さんはタブレットをテーブルに置いて、こちらを見る。


「西成君、今日はうちに泊まっていきなさい」


「……はい?」

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