第58話 最近変なお嬢様


 ベッドの脇に背中を預け、伊月は静かに眠っていた。

 雛子はできるだけ音を立てずに起き上がり、その様子を観察する。


「……寝顔、見るの初めてかも」


 日頃の演技による疲労から、雛子は隙あらば眠っている。だから自分の寝顔を人に見られることはあっても、人の寝顔を見る機会は滅多にない。


「疲れてたの、かな……?」


 思えば今日の伊月は、いつもより眠たそうに机に向かっていた。

 疲れると眠りたくなる気持ちはよく分かる。雛子は伊月をこのまま眠らせたままにしておくと決めた。


 机の上に広げられている勉強道具を見る。

 ノートにびっしりと書き込まれた数式を一瞥した雛子は、ふと、ある物を目にした。


「これ……お世話係の、マニュアル?」


 分厚い書物を手に取り、パラパラとページを捲った。

 元々はお世話係にマニュアルなんてものは存在しなかった。しかし人員の交代があまりにも激しかったため、仕事を口頭で説明するには手間がかかってしまい、こうしてマニュアルを作成するに至ったのだ。


 マニュアルには付箋や蛍光ペンで、注意するべき箇所が強調されている。

 自由に記述できるメモのページを見ると、そこには雛子の好きなアイスの銘柄が幾つも記されていた。すぐ傍には「買える時に買って、部屋の冷蔵庫で保存!」と強い筆跡で走り書きもされている。


 チクリ、と胸が痛んだ。

 その痛みが治るよりも早く、部屋に誰かが入ってくる。


「お嬢様?」


 静音が不思議そうな顔でこちらに歩み寄った。


「ドアが開いていましたので、気になって来てみましたが……」


「……しー」


 雛子は唇の前で人差し指を立て、眠る伊月に視線を向けた。

 その目配せに、静音は状況を察する。


「まったく。お嬢様より先に眠るなんて、お世話係失格ですね」


 そう告げる静音だが、その表情は別に怒っていなかった。

 静音もまた、ここ最近の伊月の頑張りを認めているのかもしれない。

 基本的に伊月は真面目だ。静音が何も言わなくても、起きたら自ずと反省するだろう。


「お嬢様。よろしければお部屋まで案内しますが」


「……ん」


 頷いた雛子は、静音と共に部屋を出る。


「静音」


「はい」


「私……変」


 呟くように、雛子は言った。


「伊月がお世話係になってくれて、嬉しいのに……伊月にお世話されてるって思うと、偶に嫌な気持ちになる」


「……嫌な気持ち、ですか」


 少し前までの静音なら、伊月に何か原因があるのではないかと疑っていたが、今は違う。一ヶ月以上、同じ屋根の下で働いているのだ。伊月が誠実な人間であることを、静音はよく理解していた。


「伊月さんが、お世話係であることに不満がありますか?」


「……それはない」


 雛子は首を横に振る。しかし、その表情は不安気だった。

 部屋の前に辿り着き、静音がドアを開いた。雛子はゆっくり中へ入る。


「ない、けど……それだけじゃ、いや」


 そう言って雛子はベッドに身体を沈めた。

 瞼の上に腕を置いて、雛子は不安を吐露する。


「伊月が、私の言うことを聞いてくれるのは……仕事だから?」


 その言葉を聞いて、静音は漸く雛子が抱える不安の正体を察した。

 思わず微笑ましい気持ちになるが、表情の変化をぐっと堪える。


「ご安心ください」


 優しい声音で、静音は言った。


「伊月さんがお嬢様の傍にいるのは、単に仕事のためだけではありませんから」


「……ほんと?」


「はい。まあ、それが分かるのはもう少し先になりそうですが」


 元々、伊月がお世話係の仕事を引き受けたのは、単に金がなかったからだ。

 しかし単に金だけが目的なら、華厳に抗議してまで再びお世話係になろうとは思わなかっただろう。昔はともかく今の伊月は違う。今の伊月は、仕事以上の何かを感じてお世話係に臨んでいる。


 雛子は肝心なところで鈍感だ。

 そんなこと、考えればすぐに分かることなのに。


「しかし、初めてですね。お嬢様がこうして私に個人的な相談をするなんて」


「……そう、だっけ?」


「はい」


 んー? と首を傾げながら、雛子は過去を思い出す。

 その様子を見て静音は微笑を浮かべた。静音の胸中に、娘の成長を見届けるような気分が去来する。


「……いけませんね。私はまだ大学生だというのに」


 まだ母親になるつもりはない。

 いつの間にか眠っている雛子に布団を掛けた後、静音は部屋を出た。




※ ※ ※

すみません、先週分の更新を忘れていることに今気づきました……。

明日、次の話も投稿させていただきます!!

お盆が悪いんです、お盆が………………。


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