第57話 おねむお嬢様


 雛子を風呂に入れた後、俺は部屋に戻って明日の予習をしていた。


「流石に、頭が疲れてきたな」


 ノートの上にペンを置いて、軽く伸びをする。

 現在の時刻は午後十一時。今日は殆ど勉強漬けの一日となった。


「……いや、こういう時だからこそ、頑張らないと」


 再びペンを握り、教科書のページを捲る。天王寺さんにも、習慣的に勉強していることを褒められたばかりだ。気を抜かずに頑張ろう。


 我ながら随分と努力家になったものだと偶に思う。

 貴皇学院で出会った人たちは皆、レベルが高い。彼らに引っ張られる形で、俺も毎日の勉強が習慣になっていた。最初は静音さんに指示された通りに勉強していただけだが、今は俺の意思で行っている。静音さんもそれを察したのか、最近はいちいち俺に「予習しなさい」「復習しなさい」と言わなくなった。


 以前はここまで真剣に努力したことなんてなかった。誰かのためでもなく、自分のためですらなく、ただ無意味に高校へ通っていたような気がする。


「あいつら……今頃、何してるだろうな」


 お世話係になる前の人間関係を思い出す。

 落ち着いたら、また会って話をしたいような気もした。


 その時、ドアがノックされる。


「どうぞ」


 ドアが開き、部屋に入ってきたのは雛子だった。


「え……雛子?」


「ん」


 小さく声を発する雛子に、俺は驚愕する。


「一人で来られたのか? よく迷わなかったな」


「む……失礼な。ここは私の家」


 いやいや、よくそんなことが言える。

 忘れてはならない。この少女、一人にすると学院ですら迷うのだ。


「伊月の部屋、思ったより遠いね。……私の部屋から三十分くらいかかった」


「そんなかかんねーよ」


 ダンジョンでも攻略しているのか?

 マップを全部埋めてから、ここまで来たのだろうか。


「……何してるの?」


「明日の予習だ。天王寺さんにも色々教わってはいるけれど、あれは試験対策だからな。ちゃんと授業の方もついていけるよう頑張らないと」


 切りのいいところまで勉強を終えた俺は、振り返って雛子の方を見る。


「何か用事か?」


「……別に」


「? じゃあなんで来たんだ?」


 そう訊くと、雛子は少し膨れっ面をした。


「……用事がないと、来ちゃ駄目?」


「いや、別にそういうわけじゃないが……」


 駄目というわけではないが、対応に困る。

 何かを求められているわけではないようなので、雛子のことを気にしつつも勉強を再開した。


「むー……」


 無言でカリカリとペンを走らせていると、雛子が唸り声を漏らす。

 そして、コテンと俺のベッドに転がった。


「今日は……ここで寝る」


「え」


「寝る」


 少しだけ強い口調で雛子は言った。


「俺の部屋からだと食堂が遠いから、明日の朝が面倒だぞ。寝るなら自分の部屋に戻った方が……」


「やー……」


 もう既に眠りかけていた。

 目をしぱしぱとする雛子に、思わず苦笑する。


「伊月ぃー……」


「ん?」


「……こっち来て」


「……はいはい」


 勉強を切り上げて雛子の方へ向かう。


「……撫でて」


 眠たそうに目を細めながら、雛子は言った。


「社交界の時、頭を撫でたら嫌がっていたよな。今はいいのか?」


「……別に、嫌がったわけじゃない」


 雛子はごろんと転がり、こちらに背を向けた。


「私……最近、変だから」


「変って……体調が悪いのか?」


「むー……」


 心配して声を掛けると、雛子は頬を膨らませた。

 体調が悪いわけではないらしい。


 ゆっくりと頭を撫でると、雛子は一瞬だけビクリと身体を動かしたが、すぐにじっとして受け入れた。その反応は最近まで見なかったものだ。嫌がっているわけではないとのことだが、やはり気になる。


「……俺も、眠くなってきたな」


 雛子の頭を撫でながら、俺は床に腰を下ろして呟いた。


「……寝れば?」


「いや、その前に雛子を部屋まで運ばないといけないし……」


 とか何とか言っているうちに、本当に眠たくなってきた。

 今日はずっと頭を使っていたから、脳味噌も疲れているのだろう。

 いつの間にか俺は、睡魔に飲まれ――――。




 ◇




「……伊月?」


 頭を撫でる手が止まり、雛子は静かに身体を起こす。

 伊月はベッドの脇で、静かに寝息を立てていた。


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