第45話 待っていろ、お嬢様
「成香……どうしたんだ? こんなところで」
「散歩中だ。言っただろう、私は父に勝ったことで自由を手に入れたのだ。今では多少の外出が許されて――――」
得意気に告げる成香は、そこでふと俺の顔を見て、言葉を止めた。
成香は、その表情を不安気なものに変え、
「……伊月、どうした? 何があった?」
心配そうに成香が尋ねる。
平静を装うつもりだったが……胸中に蟠る感情は隠し通せるものではなかった。
この状況で、信頼できる相手と出会ってしまったのが運の尽きだ。
傍まで近づいてきた成香に、俺はゆっくりと事情を語った。
「実は――」
此花家へ迷惑を掛けたくないので、秘密にするべき内容は秘密にしたまま説明する。
俺のせいで、雛子が人前で粗相をしでかしてしまったこと。その責任を負って、俺は此花家を追い出されたこと。そして――雛子に対する監視が、強化されること。この三つを、成香に伝えた。
「……そうか」
全てを聞いた成香は、神妙な面持ちで言った。
「あの此花さんが、人前で粗相か……。信じがたいが、その様子だと確かなようだな」
よほど暗い態度をしているのか、成香は一層心配そうに俺を見つめた。
いつもなら、成香に心配をかけないために空元気のひとつやふたつ出してみせるが……今だけは、無理だ。どうしても活力が湧いてこない。
「此花家ほどではないが、都島家も大きな家柄だ。だから、なんとなく事情は分かる。きっと此花さんも、私の知らないところで苦労していたんだな」
「……ああ」
全貌を語らなくても成香は状況を察してくれた。
「此花さんは、どうなったんだ?」
「詳しいことは分からない。ただ、あの様子だと、今まで以上に束縛されることになると思う。もう、お茶会や勉強会みたいなことも、できないかもしれない」
「そうか……此花家は本当に厳しいな。たった一度の失敗で実の娘を縛りつけ、伊月も追い出してしまうとは」
華厳さんは、雛子を実の娘と思っていないのかもしれない。少なくとも今までの華厳さんの言動に、雛子を娘として大切に思う気持ちは込められていなかった。
「全部……俺のせいだ」
思わず、本音を吐露する。
「俺が余計なことを教えなければ、こんなことにはならなかった」
今となっては後悔しかない。
雛子の寂しさを埋めるために、俺は精一杯努力すると決意した。その結果がこれだ。俺は雛子を、今まで以上に苦しめることになってしまった。
「所詮、俺は礼儀も知らない庶民だ。こんなことになるくらいなら、最初から雛子と関わるべきでは――」
「――それは違う!」
成香が大きな声で言う。
いつもの、おどおどした成香からは考えられないほどの剣幕に、俺は目を見開いて驚いた。
「伊月、それは違う。伊月は決して間違っていない!」
「成香……?」
「昔の私を思い出せ!」
真っ直ぐこちらの目を見据えながら、成香は言った。
「私は、かつて自由に外へ出ることを禁止されていた! だが伊月は、そんな私の世界を変えてくれたんだ! 私はあの日のことを今でも鮮明に覚えている! 自分がどれだけ狭い世界で生きてきたのか、思い知らされたんだ!」
感極まった様子で、成香は続ける。
「伊月がいなかったら、きっと私は今でも外の世界を怖がっていただろう。駄菓子の美味しさも、買い物の仕方も……街のざわめきも、公園の長閑な雰囲気も、全部知らなかった筈だ。……だから私は伊月に感謝している。とても、言葉では表せないくらい、私はお前に感謝しているんだ」
そう言って、成香は視線を下げた。
「きっと、此花さんも同じだ」
悲しげに、成香は呟く。
「必要なもの以外、何一つ教わることなく育てられる。それはとても寂しいことだ。……伊月はきっと、私だけでなく此花さんも、その孤独から救ってみせたのだろう」
そこまで言って成香は、再び俺の目を見つめた。
「自信を持ってくれ。私は伊月の、そういうところが…………すっ、すすっ」
途端に頬を赤く染めた成香は、視線を逸らしながら、続きを告げる。
「……凄いと、思う」
何故か最後の締め括りだけ、成香は落ち込みながら口にした。
まるで本当に伝えたい言葉を妥協して、他の言葉で代用したかのようだったが――それでも成香の言葉は、十分、俺の胸に響いた。
――そうか。
俺にとっては、くだらないことでも。
俺にとっては、当たり前で面白味のないことでも。
雛子や成香にとっては、大切なものになるかもしれないんだ――。
「成香……ありがとう」
礼を言いながら、俺は此花家での日々を思い出した。
これは決して自惚れではない。
客観的に考えても、これだけは絶対に間違っていないと断言できる。
――雛子は俺が傍にいて、迷惑とは感じていなかった。
雛子は俺に一定の信頼を注いでいる。
なら俺は、その信頼に応えてみせたい。
まだ俺は、雛子の気持ちに応えられていない。
「……よし」
いつの日か、心に決めたことを思い出す。
雛子は、あんな小さな身体で、とてつもなく大きなものを背負っているのだ。
誰かが優しくしなくちゃいけない。
親も、従者も、その役割を果たさないなら――
「行ってくる」
「……何処に?」
「此花家の屋敷」
励ましてくれた成香に、俺は告げる。
「ちょっと――直談判してくる」
暗い気分はもう消えた。
成香のおかげで復活した自信を胸に、俺は此花家の屋敷を目指した。
◆
元の様子に戻った伊月は、走って成香の前から去って行った。
一度も振り返ることなく遠退く伊月の背中を、成香は微かな笑みを浮かべて見届ける。
「……
よほど余裕がなかったのだろう。
結局、伊月は最後まで、自分が口を滑らせたことに気づかなかった。
「あぁぁ…………て、敵に塩を、送ってしまった……っ!!」
恩人が困っていたのだから、それを助けるのは当然だ。
後悔はない。が、それとこれでは話が別。
成香は頭を抱えた。
あの二人……本当は、どういう関係なんだ。
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