第44話 さらばお嬢様


 その瞬間、俺は雛子がやらかした・・・・・ことを察した。


 ――あっ。


 恐らく、雛子と同時に声を漏らす。

 雛子自身も己の過ちに気づいたのだろう。だが遅かった。そしてその誤りは致命的だ。今更、取り繕えるものではない。


 会食は滞りなく再開された。

 一見すれば、何も問題なかったように見えるが……華厳さんの表情が一瞬だけ険しくなったことには気づいた。


「マズいですね」


 隣で静音さんが呟く。


「どう、なるんでしょうか……」


「分かりません。ですが、これは……華厳様の性格を考慮すると、限りなく最悪に近い事態です」


 普段、冷静に物事を語る静音さんが緊張していた。

 固唾を呑みながら会食の終わりを待つ。凡そ十分後、帰り支度を済ませた会食の参加者たちが、別荘から出てきた。


「本日はお越しいただき、ありがとうございました」


「いやぁ、今日はとても楽しかったですよ。偶にはこういう息抜きも必要ですな」


 畏まって礼をする華厳さんに、客人である社長と役員たちは上機嫌な様子で挨拶をする。

 特に蟠りはないように見えたが……近本造船の社長が、思い出したかのように華厳さんへ告げた。


「ああ、それと此花さん。例の縁談についてですが、あれについては無かったことにしてください。一応、私も紹介するとなると、面子が関わりますんでね」


「……はい」


「ははは、そこまで気にしないでくださいよ。こう言ってはなんですが、所詮はこの場にいない第三者の話です。私としては、今後も此花さんとは公私ともに仲良くしたいと思っていますので」


「ええ、私もそう思っています」


 客人たちが車に乗り、別荘を離れる。

 やがて、全ての客人を見送った後、華厳さんはこちらに振り向いた。


「静音」


「はい」


「雛子に、あのような醜い仕草を教えたのは誰だ」


「それは……」


 言い淀む静音さん。

 その空気に耐えきれず、俺は名乗り出ることにした。


「……すみません。俺です」


 正直に白状すると、華厳さんは溜息を吐いた。

 まるで、薄々そうだろうとは思っていたかのように。


「常々思っていた。お世話係は、本当に必要なのかと」


 華厳さんは言う。


「知っての通り、雛子は素の性格と演技中の性格で大きなギャップがある。それ故、演技による負担は大きく、時折ボロを出しかける。お世話係の役割は、そのボロを隠して最大限のフォローをすることだが……やはりこれは、回りくどいやり方だ」


 雛子を一瞥して、華厳さんは続ける。

 その目は、とても親が娘を見る目とは思えないくらい冷たかった。


「最初から、ボロを出すこと自体を許容してはならなかった」


 後悔を滲ませた声音で華厳さんは語る。


「素の性格なんてものを持っているから、こういう事態になる。……お世話係は、雛子の甘えを助長させる存在だ」


 独り言のように呟いた華厳さんは、静音さんに視線を注いだ。


「静音。今後は雛子に、公私ともに演技を徹底させろ」


「公私ともに、ですか?」


「そうだ。学院にいる間だけではなく、屋敷にいる時も常に演技させておけ」


「……そんなことをすれば、お嬢様はすぐに倒れてしまうかと思いますが」


「なおせ」


 短く、厳しく、華厳さんは言う。


「倒れるからといって甘やかした結果がこれだ。持病というわけでもあるまいし……これ以上は我慢ならん。どうにかして克服しろ。そのためなら時間も指導者も用意してやる」


 冷えた眼差しを雛子に送りながら、華厳は言う。

 その言葉を聞いて、俺の脳裏に最悪の未来が過ぎった。


 ――倒れるとか倒れないとか、そういう問題ではない。


 公私ともに演技をするということは。

 雛子の、素の性格を……完全に封じ込めるということである。


「ま、待ってください!」


 思わず、俺は華厳さんを呼び止めた。

 こちらへ振り向く華厳さんの表情は酷く冷たい。一瞬、鼻白むが、俺は震えた声で言葉を発した。


「その……俺のせいで、会食が台無しになってしまったのは謝ります。でも、いくらなんでもそれは――」


「君のせいではない」


「……え?」


「元々、お世話係は短い期間で辞めていく者が多かった。だから君も、きっとそうなるだろうと思っていた。……君が雛子に与える影響は、些細なものだと勝手に予想していた。悪いのは君ではなく、そう判断してしまった私と、易々と影響を受けてしまった雛子だ」


 深々と、後悔を顔に刻みながら華厳さんは言った。

 華厳さんは黙り込む俺から視線を逸らして、静音さんの方を見る。


「静音。屋敷に戻ったら、伊月君に給料を」


「……畏まりました」


 短い会話の応酬に、俺は首を傾げた。


「給、料……?」


 確かに、そろそろ給料日ではある。

 しかし今日、急に払われる理由は……。


「今後、雛子にお世話係はいらない」


 華厳さんは、眦鋭く俺を睨んで言った。


「伊月君。君の仕事は、本日をもって終了とする」




 ◆




 二時間後。

 俺は、閉じられた大きな門を見つめながら、唖然としていた。


「……嘘だろ」


 天下の此花グループを纏めるだけあって、華厳さんの手際の良さは尋常ではなかった。


 別邸に戻った後、俺はすぐに華厳さんから荷物を纏めるようにと命令された。唐突な解雇になったため、給料とは別の金も手渡されている。高級ホテルに十日は宿泊できる金額だ。「行き先がないなら、暫くはこの金で凌ぐといい」と告げた華厳さんの冷徹な表情は、有無を言わせぬ迫力があった。


 破格の手切れ金を渡された俺は、あっさりと屋敷から追い出された。


 たった一日で。

 たったの数時間で、今までの日々が瓦解した。


 貴皇学院にも、もう通えないだろう。編入時と同じように、きっと退学の手続きも迅速に行われる。此花家の力は強大だ。後始末なんていくらでもできるだろう。


「ははっ」


 乾いた笑みが口から零れる。


「……まあ、元々、夢みたいな生活だったしな」


 諦念が頭を支配する。


 いっそ全部、夢なら良かった。

 それなら――雛子が苦しむこともないのに。


「……雛子」


 このままでは雛子が、今まで以上に辛い日々を強いられる。

 しかし今の俺は、堂々と華厳さんに文句を言えない。


 ――元はと言えば、俺のせいだ。


 華厳さんは俺に責任がないと言っていたが、そんなことはない。俺が三秒ルールなんてくだらないものを雛子に教えてしまったことが全ての原因だ。更に俺は、雛子がそうした庶民の慣習に並々ならぬ関心を持っていることを、知った上で放置していた。


 責任は俺にある。

 そう思うと……何もできない。


「伊月……?」


 あてもなくフラフラと街を歩いていると、誰かに声を掛けられた。

 ゆっくりと振り返る。そこには見知った少女がいた。


「……成香」

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