第43話 おじさんと会食お嬢様③
雛子たちの会食を、俺は静音さんと共に眺めていた。
「伊月さん、どうですか? 会食の風景は」
「そうですね……」
静音さんの問いに、俺は視線を動かすことなく答える。
「なんていうか、マナーがとてもさり気ないですね。ひとつひとつの動きが自然で……だけど、ちゃんと気を遣っていることが分かるというか……」
「それが正しいマナーです」
静音さんは言う。
「誰も息苦しく感じない程度には自然に、しかし各々が礼儀を示していることが分かる程度には厳かに。一見、形だけのものに見えるかもしれませんが、共通のルールを互いに遵守することで生まれる協調意識は、より強固な信頼関係を築きます」
「信頼関係、ですか……」
「昨今は蔑ろにされがちなマナーですが、それを必要とする場面も多々あります。特に、上流階級には必要な作法です。……マナーは、言葉ではなく態度で信頼を得るためのものですから。本音を言えない立場だからこそ、必要なものとなります」
難しい話だ。
庶民の俺には実感できないこともある。
「だからこそ、それを破ることは大変な無礼となります」
そう言って、静音さんは唇を引き結んだ。
俺も口を閉ざして雛子や華厳さんたちの会食を観察する。
会食は、今のところ順調のように見えた。
◆
「ほぉ、家に帰ってからも勉強をしているのか」
「はい。と言っても、勉強ばかりしているわけではありませんが」
雛子は、ナイフで細かく切った野菜を口に含みながら、シー・ジャパン・ユナイテッドの役員と会話していた。
役員たちの雛子に向けた視線は、最初こそ愛娘を見守る温かいものだったが、次第に感心の色を込め始める。容姿端麗な上、礼儀作法を完璧にこなす雛子は、まさしく完璧なお嬢様という呼び名に相応しい品格を体現していた。
「実にいい娘さんですなぁ。うちのボンクラ息子と交換したいくらいだ」
近本造船の社長が、笑いながら華厳に言う。
「ご冗談を。社長のご子息も優秀な大学を出ているではありませんか」
「学歴と能力は別物ですよ。あれはまだまだ未熟で、当分は後を継がせるわけにはいきませんなぁ」
残念そうに、男は言った。
此花家の使用人がテーブルに置かれた皿を回収し、また新たな料理を配膳する。
「おや、肉はないんですか?」
「本日はランチですから、少し軽めのメニューにしておきました。ディナーでしたら、もう少し豪華なものにしておきましたが……」
「夜には別件が入っていまして。私も本当ならディナーを希望したかったところですよ」
ははは、と社長と役員たちが笑う。
華厳も微笑を浮かべた。
「雛子ちゃんも、年頃の学生だろう。もう少しボリュームのあるものが食べたかったんじゃないか?」
「いえ、私は小食ですから、もう十分ですよ」
造った笑みを浮かべて、雛子は告げた。
その美しくて礼儀正しい振る舞いを見て、近本造船の社長は顎に指を添える。
「いやはや、噂に違わぬ良い娘さんですな。これなら嫁ぎ先も、いくらでも選べるでしょう」
「そうなると、親としても冥利に尽きますが……生憎、まだそういった話は決まっていませんね」
華厳が答えると、社長は軽く目を丸くした。
「おや、そうなんですか。此花さんの家くらいなら、許嫁がいてもおかしくありませんが……」
「以前はいましたが、諸事情で関係を解消いたしまして。今はいませんよ」
「ほぉ」
社長の瞳が、スッと細められる。
「では……娘さんの嫁ぎ先は、まだ決まっていないと」
「そうなります」
「ふむ。それは良いことを聞きました」
「……ご子息は、既にお相手が決まっているのでは?」
「ええ。ですが、私の知人に縁談を求めている者がいまして」
華厳は一瞬だけ笑みを浮かべそうになったが、すぐにそれを堪えた。
「詳しくお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ。その知人は、海外との取引が盛んな一家でしてね。事業の規模はまあまあですが、セレブ層と関わる家業のため、礼儀作法ができる方との縁談を希望しているようでした。まあ、所詮は私の思いつきですが……娘さんなら知人も気に入るかと思いまして」
「……成る程。相手は、その知人のご子息ということで」
「そうなります。確か歳は、二十代の前半だったかと」
相槌を打ちながら、華厳は此花家の未来について考えた。
造船会社の社長の知人。海外との取引が盛んな一家。となれば、事業は貿易に関連するもので間違いないだろう。規模はそれほど大きくないが、セレブ層を対象とした商売を行っているということは、独特な市場を抱えていると推測できる。
「検討させていただきます」
「ははは、これは望み薄ですかな?」
「まさか。真剣に考えますよ」
そう言って、華厳はカップを口元で傾けて喉を潤した。
皿が回収されて、本日最後のメニューがテーブルに置かれる。
「デセールが来ましたね」
「ほぉ、焼き菓子ですか。偶にはこういう優雅な会食も悪くないものですな」
近本造船の社長は「偶には」と口にしたが……華厳は、この男が焼き菓子を好むことをあらかじめ調査していた。案の定、目の前の社長は上機嫌に菓子を頬張る。
「先程の話、一応、知人にも伝えておいてよろしいですか?」
「ええ。手前味噌ではありますが、娘の器量は保証します」
知人の子息が雛子に相応しいかどうかは、現時点ではあまり関係ない。
重要なのは人脈を繋げることだ。仮にその息子との縁談が上手くいかなかったとしても、また今回のように、次の縁談が転がり込んでくるかもしれない。
「雛子、そういうわけだから――」
華厳が娘の名を呼びながら、振り向いたその時。
雛子は丁度、テーブルに落ちた焼き菓子を指先で拾い上げている最中だった。
会食の参加者たちが口を開いたまま硬直する。雛子は、急速に冷える空気に気づかないまま、テーブルに落ちた焼き菓子の欠片を素早く口に含んだ。
三秒ルール。
そう、口にしようとした直後。
雛子は、ここに伊月がいないことと、今は会食の最中であることを思い出した。
「……あ」
小さな声が、雛子の唇から漏れる。
「ふむ」
近本造船の社長は、顎髭を軽く指で撫でながら言った。
「……少々、評判とは違うようですな」
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