第33話 甘えん坊お嬢様


 此花家の朝は早い。

 午前六時に起床した俺はすぐに顔を洗い、目を覚ました後、貴皇学院の制服に着替えて部屋の外に出る。本来、使用人は従者の制服に着替えるのだが、俺はお世話係として雛子と一緒に学院へ向かわなければならないため、学生服を着ることになっていた。


 部屋の外に出ると簡単な掃除を行う。扉の前、廊下、階段付近の汚れを丁寧に拭い、最後に使用した掃除用具を一階の中央に置いた。客人が使用人たちの生活空間を訪れることは滅多にないが、この空間が汚れていると使用人の制服に埃などが付着するかもしれない。汚れた服装で客人の前に立つのは極めて無礼であるため、掃除は徹底するようにと言われていた。

 掃除当番は交代制で、今日は俺が当番だ。非番の日はもう少し遅くまで寝ることができる。


 午前七時。使用人たちが食堂に集まり、食事をしながらミーティングを開始する。

 基本的に使用人たちのスケジュールは前日までに決定している。朝のミーティングは、予定の変更や急に追加された仕事に対応するためのものだ。


 夜勤の担当や、休日の使用人はミーティングに参加していない。

 食堂に集まった使用人は、凡そ三十人だった。


「本日、予定の変更はありません。スケジュール通りに仕事をこなしていきましょう」


 静音さんの言葉に使用人たちが「はい」と返事をする。

 これは俺も此花家で働き始めてから知ったが、静音さんはメイド長という、此花家のメイドの中でも一番偉い立場らしい。此花家の使用人は、メイド長と執事長、二人の長を中心に動いている。


 午前七時半。

 使用人たちが食事を済ませて持ち場に移動する。

 俺も、雛子の部屋へと向かった。


「伊月さん、おはようございます」


 雛子の部屋へ向かう途中、メイドの一人に声を掛けられる。


「おはようございます」


「お世話係の仕事、大変だと思いますが頑張ってくださいね」


「はい」


 応援してくれたその女性は、ゆったりとした動作で踵を返した。


「……少しずつ、受け入れられているな」


 お世話係として働き始めて一週間が経過した。

 この家で働く使用人たちにも俺の顔が知れ渡っている。


 雛子の部屋の前に辿り着いた俺は、そこで足を止めた。

 扉をノックする前に考える。


 ……普通に、起こせばいいんだよな?


 起こし方に普通と特別があるかは知らないが、冷静に考えれば、女性の起床を手伝ったことなんて一度もない。


 静音さんは無茶な指示を出さない人だ。

 今の俺にできると判断されたから、この仕事を与えられたのだと信じよう。


「失礼します」


 ノックをして雛子の部屋に入る。

 天蓋付きのベッドの上で、雛子は心地よさそうに寝ていた。


「雛子、朝だぞ」


「んぅ…………あと、三時間」


 桁が違う。

 三分なら考えてやらなくもなかったが、三時間は待てない。


「起きないと学院に遅刻するぞ」


「……遅刻したい」


「駄目だ」


 そんなことしたら今までの演技が無駄になる。

 俺のせいで雛子の世間体が崩れてしまうと、お世話係を解任されてしまうかもしれない。それでは雛子の傍にいることができない。


「ほら、起きろ」


 遮光カーテンを左右に広げると、眩しい陽光が部屋に射し込んだ。


「むーぅー……」


 瞼を手の甲でこすりながら、雛子が上半身を起こす。


「あ、れ……いつきぃ……?」


「ああ。おはよう」


 挨拶すると、雛子は暫くぼーっとして……再びベッドに倒れ込んだ。

 何故、また寝る。


「…………起こして」


 両手を上に向けながら、雛子が言う。

 起こして欲しいのか。……甘えてくる雛子に、俺は苦笑した。


「はいはい」


 雛子の両手を引っ張って、身体を持ち上げる。

 そのまま上半身を軽く抱きとめると、雛子は柔らかく微笑んだ。


「伊月……おはよ」


「ああ、おはよう」


 改めて朝の挨拶を交わした俺は、ハンガーに掛けられた女子制服を手に取った。


「着替えはここに置いておくぞ。俺はドアの外で待ってるから」


「……手伝って」


「え?」


「着替え……手伝って」


 雛子が「脱がせ」と言わんばかりに、両手を広げながら言う。


「いや、手伝うって……」


「はーやーく……」


 俺の仕事は雛子を起こして食堂まで連れて行くことだ。その中には……着替えの手伝いも含まれていたのだろうか。


 ゆっくりと雛子のボタンを開け始める。

 シャツの隙間から雛子の肌が見えた。


「……っ」


 刺激的な光景を目の当たりにして、動揺する。

 雛子は無防備に瞼を閉じ、俺に身を委ねていた。


「落ち着け……落ち着け、俺」


 自分に言い聞かせながら、俺は雛子の着替えを手伝った。

 シャツのボタンを全て開くと桃色の下着が見える。限界まで目を細くしながら、制服を着せた。


 ……雛子は俺のことを、そういう目では見ていない。


 きっと雛子は俺に、信頼を注げる家族のような温かさを求めている。

 なんとかその期待に応えるためにも、余計な煩悩を取り払わねばならない。


 その時、部屋のドアがノックされた。


「伊月さん、いますか?」


「はいぃッ!?」


 聞こえてきたのは静音さんの声だった。

 驚愕のあまり、俺は変な声で返事をしてしまう。


「言い忘れていましたが、お嬢様はよく寝ぼけて色んなことを仰います」


 ドアの向こうで静音さんが言う。


「例えば、着替えを手伝って欲しいなど口にする時もありますが……まさか男性である貴方が、その言葉を真に受けてはいませんね?」


 真に受けちゃいました!!

 どうしましょう!!


 謝るか? 今からでも助っ人として来てもらった方が……いや。

 もう手遅れだ。こんなところを静音さんに見られたら、俺の男性としての人生が終わってしまう。


「ももも、勿論ですよ! さ、流石にそのくらいの常識はあります!」


「そうですよね。失礼いたしました。盛りがついた猿でもあるまいし……伊月さんが直向きな性格をしていることは、ここ数日で理解しました。お嬢様同様、私も伊月さんを信頼させていただきます」


 痛い痛い痛い痛い……信頼が痛い。

 静音さん、なんでこんな時に限って褒めてくれるんですか。


「あの……雛子」


「なーにー……?」


「その……今日、俺が着替えを手伝ったということは、静音さんには内緒にしてもらってもいいでしょうか……?」


 冷や汗を垂らしながら頼むと、雛子はニヤリと笑みを浮かべた。


「……これも日課にしてくれたら、いいよ」


「え」


「これから毎朝、よろしくねー……」


 勘弁してくれ。

 心の中で、俺は叫んだ。



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