第31話 寂しいお嬢様
――そうか。
雛子が俺のことをどう思っているのか分かった。
同時に、今までの不思議な距離感にも全て納得がいった。
――家族だ。
雛子はきっと、家族に飢えている。
今までのことを思い出した。膝枕したり、一緒に風呂に入ったり……きっと雛子は、俺に家族としての温かさを求めていたのだろう。
「……分かるぞ、その気持ち」
雛子の頭を撫でながら、俺は呟く。
込み上げた思いが、口から溢れ出た。
「家族って……憧れるよな」
自分の家族を思い出す。
俺の両親は、どちらもどうしようもないくらいの駄目人間だが……だからこそ、ふとした時の優しさはいつまでも記憶に刻み込まれていた。俺が怪我した時、手当してくれたこと。俺の誕生日にケーキを買ってくれたこと。夜逃げされたことは今でも恨んでいるが……それでも、思い出が失われることはない。きっと俺は心のどこかで、またあの日々に戻れるのではないかと希望を抱いている。
此花家の令嬢である雛子は、今までも家族と距離のある生活をしてきたのだろう。
母親は既に他界。父親である華厳さんは、常に本邸で仕事をしているため滅多に顔を合わせない。代わりにこの屋敷にいるのは大勢の使用人だが、いずれも華厳さんが雇った者たちだ。堅苦しい空気が好きではない雛子には、合わなかったのだろう。
「伊月さん」
背後から声を掛けられる。
振り返ると、そこには静音さんが佇んでいた。
「お嬢様の容体はどうですか?」
「……今、眠ったところです」
静音さんが、寝息を立てる雛子を見て小さく首を縦に振る。
「伊月さん。少し大事な話がありますので、一度部屋から出てもらってもいいですか?」
「分かりました」
真剣な表情で告げる静音さんに、俺は従うことにした。
しかし、立ち上がろうとしたところで、雛子が強く俺の手を握りしめた。
無言で静音さんと目を合わせる。
静音さんは、俺と雛子の結ばれた手を見つめて、息を零した。
「……仕方ありません。この場でお話しましょう」
「……お願いします」
小さな声で言う静音さんに、俺は複雑な表情で頷いた。
「話というのは、此花家の事情についてです」
静音さんは言う。
「以前、お嬢様が演技をする理由について、華厳様から伝えられた内容を覚えていますか?」
「確か……此花グループの景気が悪いので、少しでも良い嫁ぎ先を見つけるためですよね」
「その通りです。ですが、それはあくまで二番目の目的となります」
「二番目……?」
疑問を抱く俺に、静音さんは語り出す。
「お嬢様が演技をする最大の理由は、此花家に婿養子を迎えるためです」
嫁ぎ先ではなく、婿養子。
つまり、雛子の婿として、此花家に男性を招く場合のことか。
「此花家には正当な跡取り息子がいます。華厳様の長男である
「兄、ですか」
「はい。ただ、お二人は歳が離れた兄妹で、殆ど面識がありません。琢磨様は、お嬢様が五歳の頃にこことは違う別邸に住み始めました」
どうやらその兄も、父と同様に雛子と距離があるようだ。
「そんな琢磨様ですが……
「……それはつまり、その琢磨という人が、此花家の後を継ぐ器じゃないかもしれないってことですか?」
「そうなります」
苦虫を噛み潰したような顔で静音さんは肯定する。
「もし琢磨様が跡取りに選ばれなかった場合、此花家の跡取りは……お嬢様の婿養子となります」
話が繋がる。
婿養子を求める理由は、跡取り息子が欲しいからか……。
「此花家は当主だけでなく、当主の奥方も仕事に関わります。つまり婿養子が跡取りに選ばれた場合、将来的にはお嬢様も此花家の仕事に深く関与します」
なんとなくイメージはできる。
婿養子が社長なら、その嫁である雛子は秘書のようなものか。
「お嬢様が日々演技をしているのは、こうした未来を想定してのことです。ゆくゆくは当主と共に此花グループを導かれるのですから、お嬢様は完璧で、他者から尊敬されるような人柄でなくてはなりません。もしお嬢様に悪評がつきまとえば、此花グループには軋轢が生まれることになるでしょう。その軋轢は社運を左右するほど広がり……多くの犠牲者を出す恐れがあります」
そう言って、静音さんは眠る雛子の顔を見た。
静音さんの話を聞いて、俺は自らの過ちに気づく。
――此花雛子は普通の少女ではない。
総資産は凡そ三百兆円。
この国に住む者ならば誰もが知っている財閥系――此花グループ。
その、令嬢である。
「ご理解いただけましたか。お嬢様が、何を背負っているのかを」
「……はい」
先日は、雛子がただ苦しんでいるからという理由だけで、助けなくてはならないと思った。
きっとその考えは間違っていない。けれど、その前に雛子の境遇を理解するべきだった。
「俺は、何もしちゃいけないんでしょうか……?」
静音さんに俺は訊く。
「……伊月さんがお嬢様の力になると言うのであれば、私にそれを止めるつもりはありません」
その返答に、俺は目を丸くした。
「でも、昨日は身の程を弁えろと……」
「ええ。ですから――身の程を弁えた上で、お嬢様を支えてください」
静音さんは真っ直ぐ俺の顔を見据えて言う。
「それが、お世話係の役割です」
そう言って、静音さんは踵を返して部屋を出た。
静かに閉じられるドアを見てから、俺は再び雛子に目を向ける。
「身の程を弁えた上で、雛子を支える……」
静音さんの言葉を、反芻する。
雛子が演技を止めるための条件は幾つかある。
まずは、雛子の兄である琢磨という人物が此花家の後を継ぐことだ。こうなれば雛子は他家に嫁ぐため、此花グループの仕事に関与しない。
次に、婿養子が後を継いだ場合でも、雛子が仕事に関与しなくてもいいような立場になること。そうすれば雛子の本性が露わになったところで、グループへの影響は少ない。
しかし、どちらも俺にはできないことだ。所詮、俺は雇われの身。此花グループの指針や伝統を覆すことなんて、できる筈がない。
それでも、俺は――。
「お世話係の役割……か」
俺にも、できることはある。
それは――お世話係として、雛子を支え続けることだ。
『お世話係の役割は、雛子の完璧なお嬢様という世間体を守ること。言い換えれば、雛子の本性が明るみに出ないよう陰ながらサポートすることだ』
華厳さんの言葉を思い出す。
お世話係の役割は雛子の世間体を守ることだと、あの人は言っていたが――――俺はそう思わない。
きっと、お世話係の本当の役割は……雛子の
演技によって疲れた雛子を、できるだけ癒やす。
雛子が、素の自分のままでいられる相手となる。
それなら――俺にもできる。
「……やるか」
熱にうなされる雛子の姿が、幼い頃、親に看病してもらった自分と重なる。
俺の手を握りしめながら眠る雛子が、とても愛おしく見えた。
守りたいと思う。
優しくしてやりたいと思う。
優しくされなくちゃ駄目だと思う。
だって雛子は、こんな小さな身体で、とてつもなく大きなものを背負っているのだ。
誰かが優しくしなくちゃいけない。
雛子が疲労で倒れるというのであれば、その疲労を癒やせばいい。
そのためなら……家族としての温かさも与えてみせる。
「雛子…………俺、頑張るからな」
俺が、雛子をお世話してやる。
小さな手を握りしめながら、そう誓った。
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