第30話 ぎゅっとして欲しいお嬢様


 雛子が風呂場で倒れた後、俺はすぐにその身体を部屋まで運び、静音さんを呼んだ。

 最初はのぼせただけかと思ったが、それにしては息が荒く、苦しそうだった。雛子の身体を軽く拭いた後、静音さんに状態を確認してもらう。


「軽い発熱ですね」


 ベッドに横たわる雛子を見つめながら、静音さんが言った。


「一先ず、お嬢様はこのまま部屋で寝かせておきましょう」


「……はい」


 静音さんは既に看病するための道具を用意していた。

 俺が部屋を出ている間に素早く雛子を寝巻に着替えさせた静音さんは、その後、錠剤を水と一緒に飲ませる。その手慣れた動作に、小さな違和感を覚えた。


「どうかしましたか?」


「いえ、その……落ち着いていますね」


「そうですね。定期的に起こることですから」


「定期的に……?」


 疑問を抱く俺に、静音さんは説明する。


「お嬢様が倒れた理由は、日頃の演技によるストレスです」


 俺は、その言葉の意味を暫く理解できなかった。


「演技によるストレスって……まさか、いつもやってるあの演技で?」


「はい」


 あっさりと肯定する静音さんに、俺は目を見開いた。

 驚く俺に、静音さんは続けて言う。


「あれほど素の自分とかけ離れた人格を演じているんですよ? ストレスを感じるのは当然でしょう」


 静音さんが淡々と告げる。その言葉は俺の頭に衝撃を与えた。


 確かに雛子は、日頃から演技を徹底していた。

 けれど、家に帰ればすぐに元のだらしない様子に戻っていたし、本人も面倒臭そうにはしていたが辛そうには見えなかった。演技をすることによって窮屈に感じているだろうとは思っていたが……倒れるほど負担があるとは想像すらしていなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください。なんでそんなにあっさりとしているんですか。倒れるほどの負担なんですよ? このまま見過ごしていいわけが……」


「倒れるといっても二、三日で治まる発熱です。それほど心配する必要はありません」


「いや、でも、こんな風に倒れるくらいなら、演技なんて止めた方が――」


「――身の程を弁えなさい」


 静音さんが眦鋭く、俺を睨んだ。


「これは、此花家の総意です。個人の感情でどうにかできる話ではありませんし……当然、お嬢様も承知の上です」


 雛子も承知の上。その言葉が強く頭に突き刺さった。

 雛子のためという大義名分が崩れ、怒りが霧散する。本人が承知の上で、倒れるほどの演技をしているのだ。なら俺は、誰に怒ればいい? この気持ちは何処に向ければいい?


「表舞台に立っている時のお嬢様は、演技に集中しています。その分、屋敷にいる時などは休憩のために気を抜いているのです。屋敷にいる時のお嬢様が怠けようとしているのは、演技による疲労が原因と言っても過言ではありません」


「……つまり、雛子は演技の反動で、人目がない時は気怠げになると?」


「そうなります。勿論、素の性格もありますが……演技をする必要がない休日は、いつもより元気になります」


 つまり、間違いなく演技が負担になっているということだ。

 何も知らなかった。


「伊月さん。そろそろ就寝しないと、明日の授業に響きますよ」


 その言葉に、俺は目を丸くする。


「雛子が倒れているのに、俺は学院に行くんですか?」


「当然です。伊月さんの学力を考慮すると、できるだけ欠席するべきではありません」


「でも俺は、雛子のお世話係で……」


「適材適所です。お嬢様が倒れた際の処置は、私が熟知しています」


 そう言って、静音さんは真っ直ぐ俺を見据えた。


「看病に集中しますから、伊月さんは部屋へお戻りください」




 ◆




 翌日。

 俺は一人で貴皇学院へ通った。


「よお、西成! 昨日は楽しかったな!」


「……そうですね」


 教室の席に座ると、大正が無邪気に声を掛けてくる。

 大正と話していると、すぐに旭さんもやって来た。


「そう言えば今日は此花さん、来てないね」


 旭さんが教室を見回して言う。


「ああ……多分、いつものだろ」


「いつもの?」


 大正の言葉に、俺は首を傾げた。


「西成は知らなかったな。此花さんは偶に学院を休むんだよ」


「……そうなんですか?」


「なんでも、家業を手伝っているらしいぜ。此花さんも大変だよな」


 そう告げる大正に、俺は適当に相槌を打ちつつ、考えた。


 ――そういうことになっているのか。


 雛子が定期的に倒れることは、クラスメイトたちには内緒になっているようだ。どこまで内密にしているのかは分からない。担任の教師なら知っているかもしれないが……学院の関係者全員に事実が伏せられている可能性がある。


 でも、それじゃあ――誰も心配してくれないじゃないか。


 ただでさえ、雛子は演技で本性を隠しているのに。

 一体、誰が雛子の傍に寄り添える?

 雛子が辛い時、近くにいて助けてやれるのは誰だ?


 複雑な胸中のまま、学院は放課後を迎えた。




 ◆


 


「お疲れ様です」


 迎えに来た車に乗った俺へ、助手席に座る静音さんが声を掛ける。

 雛子がいないため、広い後部座席を独り占めした。しかし、あまり気分は良くない。


「静音さん。雛子の体調は……?」


「まだ、安静にしてもらっています」


 つまり、まだ回復していないということだ。

 昨晩の段階では軽い発熱としか言っていなかったが、もしかすると悪化したのかもしれない。


「……どのくらいで治りそうですか?」


「そうですね……あの様子ですと、明日か明後日には治ると思います。幸い明日から休日ですから、月曜日までには回復するでしょう」


 今日が金曜日で良かった。……いや、違う。

 月曜日になると、雛子はまた学院に通わなくてはならない。つまり、演技をしなくてはならない。


 何故、こんなことになっているのだろうか。

 その答えを確実に知っている者の名が、脳裏を過ぎる。


「あの……華厳さんは、来ないんですか?」


 問いかけると、助手席に座る静音さんは正面を見ながら答えた。


「華厳様は仕事中です。今は本邸にいます」


「でも、雛子が倒れているんですよ?」


「華厳様は此花グループのトップです。お嬢様が倒れたからといって、簡単に仕事を中断できる立場ではありません」


 そんな風に、住む世界が違うことを強調されるのは……少しだけ卑怯だと思った。こちらの常識が通じない。何を言っても的外れと諭される。


「そう言えば、今まで訊いていませんでしたが……雛子の母親は、どこにいるんですか?」


 その問いに、静音さんは少し間を空けて答えた。


「既に他界しております」


「…………そう、ですか」


 また、知らないことだった。

 当たり前だ。俺はお世話係になって日も浅い。知らないことが多いのは仕方ないだろう。


 しかし――父親である華厳さんは訪れず、母親も既に他界している。

 なら今、苦しんでいる雛子の傍にいてやれる人物は、どのくらいいるだろうか。

 その一人に……俺がなることは、できないだろうか。


「……あの。今日の稽古、中止になりませんか?」


「なりません。伊月さんには、まだまだ学んでいただきたいことがあります」


「なら、いつもより早く終わらせてください」


 僅かに目を丸くする静音さんに、俺は言う。


「その分、俺が頑張りますから」


「……畏まりました。それでは普段の1.5倍の速度でこなしましょう」


 地獄のようなスケジュールになりそうだが、背に腹はかえられない。


 屋敷に着いた後、静音さんは有言実行した。

 その日の稽古は本当に1.5倍の速度で行われた。予習、復習、マナー講習、護身術。全てを終わらせた俺は、頭が痛くなるほど疲れていたが、代わりにいつもより二時間早い午後八時に自由時間を迎えることができた。


「本日の稽古はこれで終了です」


「あ、ありがとうございます。……雛子の部屋に行ってもいいですか?」


「構いません。後ほど私も向かいますので、看病をお願いします」


 道場から出た俺は、まず自室で素早く汗を流し、それからすぐに雛子の部屋へ向かった。

 部屋は、オレンジ色の常夜灯が照らされているだけで薄暗かった。足元に注意して雛子が寝ているベッドに近づく。


「あ、伊月だぁ……」


 ベッドで寝ていた雛子が、こちらの存在に気づいた。


「ごめん。起こしたか」


「平気……さっきから、ぼーっとしてるだけだから……」


 静音さんの話によれば、今日は殆ど一日中寝ていたため、睡眠は足りているのだろう。


「いつ、き……ありがと……」


 不意に、雛子が礼を言う。


「来てくれて……嬉しい……」


「……当たり前だろ。俺はお世話係なんだから」


「……えへー」


 どこか不安気で寂しそうだった雛子が、安堵の笑みを浮かべる。


「何かして欲しいことがあったら言ってくれ」


 そう言うと、雛子がこちらに身体を向けて口を開く。


「じゃあ…………手を、ぎゅっとして……」


 雛子はゆっくりと、自らの手を差し出した。


「お安いごようだ」


 言われた通り、手を握ってやる。

 とても小さな掌だ。学院では誰よりも気高く、誰よりも優れている雛子の手は――触れるだけで折れてしまいそうなほど、細くて、小さくて、儚げだった。


「……寝たか」


 雛子は小さく寝息を零していた。

 手を握ったまま辺りを見回す。


 これだけ大きな部屋に一人だけというのは、孤独感が増すかもしれない。体調を崩した時に、無性に寂しくなるのは良くある話だ。だからこそ、誰かが傍にいて看病しなくてはいけない。


 ……俺でいいんだろうか。


 そんな思いが頭を過ぎる。

 雛子は俺が傍にいるだけで、本当に安心してくれているだろうか。お世話係といっても所詮は仕事。雛子が俺のことを、本心からどう思っているかは分からない。


 そう――雛子は俺のことをどう思っているのか、まるで分からないのだ。


 代えのきく従者。都合の良い召使い。……流石にそこまで軽くは見られていないと信じたい。しかしただの従者には距離感が近く、男女の関係にしてはお互い冷静なままだ。居心地は悪くないが、この関係を不思議に思うことは何度かあった。


 ……今は考えても仕方ないことか。


 少なくとも、信頼してくれていることは分かる。

 なら今は、それに応えるだけでいい。


「雛子……大丈夫だからな」


 雛子の額に、琥珀色の髪が汗でぺたりと張り付いていた。

 髪を軽く横に払い、そのまま頭を撫でる。


「んぅ……」


 すると雛子は、ふにゃりと笑みを浮かべた。


「……………………パパ…………」


 その、小さな寝言を聞いた時。

 俺は――お世話係じぶんの役割を理解した。

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