第29話 ぶっ倒れお嬢様


「はぁぁぁぁ……」


 雛子を乗せた車が離れていく。

 すると、成香が深く息を吐き出した。


「どうした?」


「いや、その……やっと、肩の力を抜くことができたから……」


 どうやら緊張が解けて安堵しているらしい。お茶会の最中、成香は偶におどおどしつつも、基本的には毅然とした態度を保つことができていた。それが今、途端に年頃の少女相応のものとなる。


「人と話すのが苦手と言っていたが、普通に話せていたじゃないか」


「私個人の力ではない。色んな人たちに助けられたおかげで、なんとかボロを出さずに済んだというだけだ……」


 まあ、それは確かにあるかもしれない。

 特に旭さんや天王寺さんは、成香のことを気遣っていた。旭さんは成香が会話に混ざれるよう場を盛り上げてくれていたし、天王寺さんも成香にそれとなく質問を繰り出すことで、成香を会話の中心に引き込もうとしていた。


「伊月……本当にありがとう」


 ふと、成香が改まった態度で礼を言う。


「伊月がいなければ、きっと私は卒業まで孤独だったと思う」


「……流石にそんなことはないだろ。俺はただ、少しだけ手助けしただけで」


「いや、自分のことだから分かる。今日は、私の人生を変える一日となるはずだ」


 そう言って、成香は俺を見つめた。


「やはり、伊月は……私のヒーローだ。子供の頃は、私に外の世界を教えてくれて……今回は、私を孤独から救ってくれた」


 ヒーローって……いくらなんでも大袈裟だ。

 成香は幼少期の記憶を美化しており、今は感極まっている。少し時間が経てば気持ちも落ち着くだろう。別に俺は、そんな大層なことをしているつもりはない。


「だからこそ…………ズルい」


 成香が視線を下げて言った。


「ズルい。……ズルい、ズルい、ズルい! 此花さんはズルい!!」


「……まだ言ってるのか」


「ああ言うさ! 何度でも言ってやる! だって、こんなの――あんまりだ! せ、折角、再会できたのに、なんでお前は此花さんの家にいるんだ!」


「そう言われても……親の都合としか」


 こちらに選択肢がなかったと伝えると、成香も「くぅぅ……!」と唸り声を上げた。


「行儀見習いと言っていたが、それ以外にお前は何をしているんだ。一応、仕事もしているんだろう?」


「まあな。でも仕事と言っても、身の回りの世話程度だぞ」


「此花さんに、身の回りの世話なんて必要ないだろう! あの人は元から完璧じゃないか!」


 完璧じゃないから困っているんだ。

 勿論、そんなことは言えないので俺は押し黙る。


「……行儀見習いは、いつ終わるんだ?」


「今のところ、未定だが……」


「も、もし終わったら、私の家に来ないか? ほら、伊月も懐かしいだろう!」


 確かに懐かしいが、俺は卒業まで此花家で雇われる予定であるため、難しいだろう。


「まあ、気が向けばな」


「社交辞令だ!?」


 酷くショックを受けた様子で成香が叫んだ。

 俺は天王寺さんではないので、社交辞令のひとつやふたつくらい言う。




 ◆




「本日の稽古はこれで終了です。お疲れ様でした」


「お、お疲れ様でした……」


 此花家の道場にて、俺は汗を垂らしながら言った。

 お茶会があった日もレッスンは中止にならない。むしろいつもより内容が詰め込まれていたため、俺は疲労困憊となった。

 

「伊月ぃー。おっふろー……」


 道場の扉が開き、雛子が現れる。


「……もうそんな時間か」


 道場の時計を見て呟いた。

 時刻は午後十時。俺も汗を流したいので、風呂へ向かおうとするが――。


「お嬢様。少々、伊月さんと話したいことがありますので、先に部屋へ戻ってもらっても構いませんか?」


「んー……分かった。早くしてね」


 静音さんの言葉に頷いた雛子が、道場を出る。


「話、ですか?」


「ええ。まあ、あまり時間を取るつもりはありません」


 改まった様子で静音さんが言う。


「お嬢様を待たせたくはないので、詳しい説明は省きますが……近頃、お嬢様の体調が優れないため、伊月さんも念のため注意しておいてください」


「体調、ですか? ……お茶会の時は平然としていましたが」


 もしかして無理をさせてしまったのだろうか。

 そう思ったが、静音さんは神妙な面持ちで口を開く。


「厳密には、近いうちに・・・・・体調を崩されるかと思います」


「……?」


 言葉の意味が分からず、俺は首を傾げた。


「注意していただければ結構です。では、伊月さんはお嬢様の部屋へ向かってください」


 そう言って静音さんは道場の掃除を始めた。

 話の意図は分からなかったが、注意すればいいとのことなので、気をつけておこう。


 雛子の部屋に入り、風呂場に向かう。

 脱衣所には既に俺の水着が置いてあった。着替えて、風呂場に入る。


「あーー……伊月だぁー……」


「……お待たせ」


 既にのぼせている雛子の傍に近づき、早速、髪を洗う。


「痒いところはございませんかー?」


「なっしんぐー……」


 雛子の髪を洗うことが日課となったことで、俺は静音さんから髪の洗い方についても教えてもらっていた。掌に溜めたお湯で頭皮を温め、丁寧にシャンプーで洗う。その後はコンディショナーを手に取り、揉み込むように髪に浸透させる。


「……しかし、静音さんも、凄いものを作ったな」


 雛子の髪を洗いながら、俺は後ろへ振り返った。

 そこには個室のシャワールームが設置されていた。風呂場の中に風呂場があるようなものである。静音さんが「水着を着たままでは身体を洗えないでしょう」と配慮してくれた結果、身体を洗うためだけの個室が用意されたのだ。


「雛子、そこにある桶を取ってもらってもいいか?」


「おけー……」


 桶とOKをかけているのか……?

 水で流されてしまったのか、湯船に落ちそうな桶を雛子に取ってもらう。

 しかし雛子は桶を途中で落としてしまった。

 カラン、と音が響く。


「……あ」


 何かを思いついたような様子で、雛子がさっと桶を拾う。


「三秒ルール」


「……まあ、そうだけど」


 どや顔で言う雛子に、俺はどう対応すればいいのか分からなかった。


「これ……面白い」


「そう言ってくれると、披露した甲斐もあった」


 できれば人前ではしないで欲しいが。


「今日、私と別れた後……都島さんと、どんなことを話してたの……?」


 雛子が訊いてくる。


「どんなことと言われても……普通にお茶会楽しかったな、とか。そのくらいだぞ」


「……ふぅん」


 納得しているような、していないような素振りで雛子は相槌を打つ。 


「伊月は……私のお世話係」


 小さな声で、雛子が呟いた。


「…………どこにも、いかないで」


「え?」


 か細い声だったので、何を言っているのか聞こえなかった。

 しかし、訊き返しても雛子は返事をしない。


 雛子はゆっくりと身体をこちらに倒してきた。

 水着だけを身につけた雛子に密着され、動揺する。


「お、おい……風呂で寝たら風邪引くぞ」


 軽く身体を揺らしながら言う。

 しかし雛子は何も言わない。


「雛子……?」


 様子が変だと気づき、俺は雛子の顔を見る。

 雛子は汗を垂らし、苦しそうに吐息を漏らしていた。


「――雛子っ!?」


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