第21話 誰のお世話係
突然、現れた雛子に、俺と成香はほぼ同時に反応した。
「ひな――」
「――こ、此花さんっ!?」
咄嗟に唇から漏れた俺の声を掻き消すかのように、成香の声が響き渡る。
「ど、どうして、此花さんがここに……?」
「少し体調が悪くなりましたので、授業を抜けてきました」
完璧なお嬢様を演じる雛子が、淡々と答える。
同時に、先程から着信を報せていたスマホの震動が止まった。――しまった。静音さんはこれを伝えようとしていたのか。
「西成君と都島さんは、どうされたのですか?」
雛子が訊く。
成香を一瞥すると、彼女はすっかり緊張していて強張った表情をしていた。……こういう表情をするから恐れられるのだろう。傍から見れば、成香は物凄い剣幕で雛子を睨んでいるように見えた。しかし雛子が動じる様子はない。
ここは俺が答えるべきだ。
そう思い、成香から少し距離を取って、雛子の方を見る。
「あー……その、廊下で成香が倒れたのを目撃して、俺が保健室まで運んできたんです」
「成る程、そうでしたか。……都島さんは頭を怪我したのですか?」
「頭? いや、そういうわけではありませんが……」
「そうなのですか? 頭を撫でていたようでしたから、そう思ったのですが」
いつも通りの口調だが、その目が僅かに昏い色を灯したような気がした。
やはり見られていたか……。
「こ、此花さん、聞いてくれ! 私と伊月は、昔、会ったことがあるんだ!」
成香が緊張した声音で言う。
「昔……?」
「そうだ! 十歳の頃、伊月は私の家に泊まったことがあって……」
「……泊まった?」
僅かに、雛子が顔を顰めたような気がした。
しかし成香がそれに気づく様子はなく、大きな声で肯定する。
「ああ! その際、私は伊月にお世話をしてもらったんだ!」
成香の説明に雛子は眉を潜めた。
お世話というより、ただ傍にいただけなので、俺としては遊び仲間のような認識だったが……。
「伊月は幼い頃に私の面倒を見てくれた、いわば恩人だ。だから、再会を喜んでいただけだ」
「……そう、でしたか」
雛子が納得する。
一瞬だけ雛子が複雑な面持ちをしたような気がした。
「そうだ、伊月。また私の家に来ないか? 遊びに来るだけでもいいし……い、伊月さえよければ、また以前のような関係になってもいいと、思っているんだが……」
成香が俺に向かって言う。
だがそれは、雛子のお世話係を務めている今の俺には、できないことだった。
「成香、それは――」
「――それは無理ですよ、都島さん」
俺が否定するよりも早く、雛子が言う。
「西成君は今、私の家で働いているので」
「……はぇ?」
あっさりと雛子が告げる。
奇妙な声を発する成香を他所に、俺は目を見開いて驚愕した。
「ひな――此花さん。それは、ちょっと」
「どうかしましたか、西成君? 本当のことでしょう?」
確かに本当のことではあるが……。
おいおい、どういうつもりだ。
素の状態の雛子と違って、お嬢様を演じている雛子はイマイチ心境が読めない。
幸い、此花家で働いているという説明だけなら、雛子の正体には辿り着かないだろう。しかし、できれば俺と雛子の関係は徹底的に隠したかった。万一、成香がこの情報を言い触らせば、俺と雛子は学院中の生徒から注目される。それはお世話係としての仕事に支障を来すことになるだろう。
「ど、どど、どういうことだ、伊月!? お前は今、此花さんの家で働いているのか……!?」
「いや、その……」
俺は困惑しながら雛子の顔を一瞥した。
たとえこの場で俺が否定しても、雛子が肯定するなら意味はない。
「……まあ、そう、だな。主に……身の回りの世話をしている」
そう答えると成香は目を見開いた。
やがて成香は、わなわなと身体を震わせながら雛子の方を見る。
「……ズルい」
成香は恨めしそうに、雛子を睨んだ。
「ズルいぞ、お前! わ、私だって……! 伊月は、元々、私の……ッ!!」
「昔のことは知りませんが、西成君の今の職場は、私の家です」
にっこり、と雛子が笑みを浮かべて言う。
「西成君。保健室までの付き添いでしたら、もう教室に戻った方が良いのではありませんか?」
「あ、ああ……そうだな」
多分、今の俺は相当、引き攣った表情を浮かべているだろう。
雛子は最後にもう一度だけ成香の方を見て、頭を下げた。
「私も体調が回復したようなので、失礼しますね」
お嬢様らしい柔和な笑みを浮かべながら、雛子が保健室の扉を閉める。
扉の向こうから、「うぅぅぅぅぅぅ……ッ!!」と成香の唸り声が聞こえた。
――ごめん、成香。
今の俺は雛子のお世話係だ。基本的に、雛子には逆らえない。
それに、雛子とは二人きりで話したいことがある。
「……保健室に来たのは、俺に会うためか?」
「ん。……トイレも探したけど、いなかったから」
お嬢様の演技を止めた雛子が、首肯する。
どうやら虱潰しに俺の居場所を探していたらしい。
「その、悪かった。お世話係なのに雛子の傍にいなくて。……でも、さっきのあれは、どういうつもりだ?」
首を傾げる雛子に、俺は続けて言う。
「俺たちの関係は秘密にするべきだって、静音さんも言っていただろ。成香が俺たちの関係を言い触らしたらどうする」
正直、成香が面白半分で噂を流すとは思えなかったが、万一の可能性はある。
隣を歩く雛子は、小さな声で答えた。
「……思った、だけ」
「え?」
「釘、刺した方がいいかなーって……思っただけ」
いまいち意味が分からない答えだ。
いや、ひとつだけ辻褄の合う考え方がある。
嫉妬して、くれているんだろうか……。
……まさかな。
今までの雛子との距離感を思い出す。
雛子にそんな発達した情緒があるとは思えない。
「……伊月」
首を傾げる俺に、雛子が訊く。
「伊月は、誰のお世話係?」
「それは……勿論、雛子だ」
「ん。……なら、いい」
そう言って雛子は立ち止まり、満足気な笑みを浮かべながら、俺の顔を見つめた。
「一緒に……静音に怒られようね」
「……ああ」
頷いた俺は、深く溜息を吐いた。
こうなった以上、静音さんのお叱りは避けられないだろう。
クビにされたらどうしよう……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます