第16話 湯けむり事件(未遂)
「くはー……」
湯船に浸かる雛子が、気の抜けた声を漏らす。
その姿は、白いビキニタイプの水着に包まれていた。
「……水着か」
「何か言ったー……?」
「何も言ってない」
一緒に風呂に入ろうと言われた時は驚いたが、どうやら水着を着用した上での提案だったらしい。どうやら雛子は最初から俺を風呂に誘うつもりだったらしく、脱衣所には既に俺の水着が用意されていた。
「まあ……こんな広い風呂なら、誰かと一緒に入りたい気持ちも分かるな」
雛子の部屋にある風呂は、小さな公衆浴場くらいの広さはある。
一人でこの風呂に入ると寂しい気分になりそうだ。
「んふー……極楽、極楽」
雛子が軽く身体を伸ばす。
その動作が、妙に色っぽく見えた。上気した雛子の顔は薄らと赤く染まっており、絹のような琥珀色の髪からは水が滴る。
そんな俺の視線に気づいたのか、雛子は悪戯っぽく笑みを浮かべ、水着の肩紐を指で摘まんだ。
「もしかして……見たい?」
「……寝言は寝て言え」
辛うじて理性が勝利した瞬間だった。
落ち着け。――落ち着け、落ち着け、落ち着け。
極力、意識しないように気をつけてはいるが、やはり雛子は容姿端麗な異性である。少しでも気を抜けば、お世話係としての使命よりも、健全な男子としての欲望が上回ってしまう。
気分を変えるためにも、俺は傍に置いていた書類を手に取った。
水濡れ防止のために透明なビニールに入れられた書類を、俺は無言で読み進める。
「それ……何?」
「クラスメイトのプロフィールだ。静音さんに、覚えておくよう言われているからな」
書類には二年A組の生徒たちのプロフィールが事細かに載っていた。大正や旭さんの情報については既に知っているが、それ以外の生徒たちも、やはり大手企業の跡取り息子だったり、有名な政治家の血縁者だったりするようだ。
「そう言えば、雛子はクラスメイトの中で仲が良い人はいるのか?」
「いない」
いつも通りの淡々とした声音で雛子は言った。
「いないのか? 教室では色んな人に囲まれてただろ」
「んー……友人では、ない」
「……そうか」
知り合い以上、友達未満といったところか。
まだ一日しか学院生活を経験していないが、雛子の境遇については多少、理解したつもりだ。雛子は良くも悪くも貴皇学院で少し浮いた存在である。教室では色んな人に話しかけられる雛子だが、傍から見ると友人というより取り巻きに見えてしまうこともある。
「雛子は、友達が欲しいとは思わないのか?」
「んー…………」
雛子は珍しく、いつもより少し長く考えた。
「……伊月がいれば、いい」
その言葉は、強い信頼と受け取っておこう。
微かな嬉しさを感じていると、雛子が徐に立ち上がった。
雛子はそのまま俺の正面に来た後、こちらに背を向けて座る。
「髪、洗って」
「……はい?」
後頭部をこちらへ向ける雛子に、俺は首を傾げた。
「じ、自分で洗えよ」
「……いつもは静音にやってもらってる」
だから自分で洗う気はないと?
小さく溜息を吐く。やはり雛子はお嬢様だ。従者に髪を洗ってもらうなんて、如何にもお嬢様らしい。
「洗うにしても、湯船から出なきゃ駄目だろ」
「なんで……? いつもここで洗ってもらうけど……」
そうなのか。
いや、よく考えれば、ここは雛子専用の風呂場である。ということは雛子が使った後、この大量の湯は全て捨てることになるわけだ。それなら、湯船に浸かりながら髪を洗っても問題ないかもしれない。……水道代が勿体ないが。
「痒いところはございませんかー?」
「なーしー……」
シャンプーを泡立てて、雛子の髪を洗う。
丁寧に洗っているつもりだが、女性の髪を洗うのは初めてだ。こんな感じでいいんだろうか……?
「……むぅ」
恐る恐る髪を洗っていると、雛子が小さく声を漏らした。
「暑い…………これ、邪魔」
そう言って雛子は背中に手を伸ばし、ビキニを外した。
「なっ!?」
思わず手を止めてしまう。
動揺する俺に、雛子は顔だけをこちらに向けた。
「やっぱり、見たい……?」
「ね、寝言は寝て――」
「いいよ? 別に」
微笑みながら雛子は言う。
驚きのあまり、俺の口から「ヒュッ」と息が漏れた。
「水着も、静音がつけろってしつこいから、仕方なくつけてるだけだし」
雛子は鬱陶しそうに、下につけた水着を指で摘まんだ。
その無防備な動作に、俺は再び思考を乱され――。
「……ちょっと待て」
今、決して聞き逃してはならない単語を聞いたような。
「……静音さん、知ってるのか? 俺たちが一緒に風呂に入っていること」
「ん」
雛子が小さく頷く。
そして、俺は気づいた。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
風呂場の扉が五ミリほど開いていた。その隙間から――殺意の込められた視線が、俺に注がれている。
「は、ぅぁ……ッ!?」
恐怖のあまり身体が震える。
静音さんだ。あの人、いつから俺たちのことを見ていたんだ。
強烈な殺気を感じて冷や汗を垂らしていると、風呂場の扉がもう少し開き、静音さんの顔が露わになる。静音さんは無言で俺に、雛子の髪を洗うよう促した。
「んふ……くすぐったい」
「わ、悪い」
どうにか動揺を押し殺し、雛子の髪を洗い続ける。
傍にあったシャワーを手前まで伸ばして、シャンプーを洗い流した後、俺は安堵の息を零した。
「あ、洗い終わったぞ……」
後半は生きた心地がしなかった。
風呂に入っているのに、全身、冷や汗でびっしょりと濡れている。
「ありがと。…………これ、日課にするから」
「えっ」
「毎晩、洗ってね」
そう言って雛子は立ち上がり、脱衣所に向かった。
ちょっと待て……俺はこれから、毎晩のようにこの恐怖を感じなくてはならないのか?
雛子と入れ替わるように、静音さんがやって来る。
その瞳は酷く冷たかった。
「お疲れ様です、伊月さん」
「お、お疲れ様です。……あの、いつから見ていたんですか?」
「最初からです」
「最初からですか……」
ということは、俺が雛子に翻弄されている姿も見ていたのだろう。
恥ずかしさと恐ろしさを同時に感じる。
「脱衣所に着替えを用意しておきましたから、上がった際はそちらを使用してください」
「あ、はい。ありがとうございます」
「それと――」
静音さんは、薬瓶を俺の傍に置いた。
「今後、お嬢様に劣情を催すことになりそうでしたら、事前にこちらをお飲みください」
「これは……?」
「抗うつ薬や抗けいれん薬の副作用を利用した、薬剤性EDを意図的に引き起こす薬です。まあ平たく言うと……勃たなくなる薬ですね」
「ひっ!?」
そんなものを飲んでしまったら、メイドになってしまう。
薬を置いて立ち去った静音さんの背中を、俺は震えながら見届けた。
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