第15話 メイドの過激なレッスン


 学院から帰ってきた俺は、早速、静音さんのレッスンを受けていた。


「まずは明日の予習を始めます。明日は伊月さんが学んだことのない経営学の授業がありますので、そちらを中心に勉強していきましょう。範囲は、コーポレート・ファイナンスについてですね」


 貴皇学院の生徒たちの多くは、将来、経営者のポストにつく。そのため経営学の授業は他の科目と比べて実践的だった。会社を経営するための様々な知識を静音さんから叩き込まれる。


「小テストを採点しました。点数は八十七点……ケアレスミスが目立ちますね。集中力が足りませんよ」


「はい」


 満点が出るまで延々と続く予習を、三時間かけて漸く終える。


「さて、予習が完了したところで、次はマナー講習です。貴皇学院にはお嬢様以外にも、あらゆる富豪の子女たちが通っています。そういった方々に無礼を働けば、余計な反感を買ってしまう恐れがあるため、今のうちに一通り習得しておきましょう。今回はフランス料理のテーブルマナーについてです」


 夕食の時も、俺は静音さんと二人っきりでレッスンを受けていた。

 フォークとナイフを、それぞれ人差し指を添えて持つ。魚のオードブルを崩さずに食べて、スープは音を立てずに飲む。肉はスジに合わせてナイフで切り、一口サイズにしてから口に入れる。


「違います。食べ終わった際、ナイフとフォークを六時の位置に置くのはイギリス流です。フランスのマナーでは三時の位置に並べます」


「は、はい」


 ナイフとフォークを横に向け、先端を皿の右側に置く。この際、ナイフの刃の部分は手前に向けなくてはならない。


「腹ごなしの復習が終わったところで、護身術のレッスンです。幸い、伊月さんは肉体労働系のアルバイトで身体が鍛えられていますので、基礎体力の向上は程々にして技の習得に取りかかりましょう。本日は柔術です。まずは前回り受け身、百本」


 柔道着に着替えた俺は、先日と同じように屋敷の道場にて護身術の指導を受ける。

 受け身の練習をしてから、基本的な投げ技を教わり、最後に実戦練習を行った。


「ふ――っ!!」


「甘い」


 静音さんを手前に引くと同時に足払いをして、小内刈りを仕掛ける。

 しかし静音さんは俺の動きを見切って身体を外に逃がし、技の不発によってよろけた俺を、軽々と背中からマットにたたき付けた。


「体重移動のタイミングが見え見えです。それでは素人は倒せても、武術の心得を持った相手には通用しませんよ」


「はいぃ……」


 疲労を隠しきれなくなった俺は情けない声で返事をした。

 そもそも俺が護身術を教わっているのは、俺と雛子が出会った切っ掛けのような誘拐などを警戒してのことだ。営利誘拐の犯人は喧嘩慣れしている場合も多いらしい。だから、素人に勝てる程度の実力では足りないのだ。


「す、少しだけ、休憩を……」


「なりません。お世話係である貴方には、いざという時にお嬢様を守っていただかなくてはなりません。その程度で音を上げてもらっては困ります」


 鬼……鬼だ、この人は。

 鬼畜。スパルタ。悪魔。色んな言葉が脳裏に浮かぶ。しかし同時に尊敬の念も抱いた。静音さんは勉学もマナーも護身術も、全てを完璧にこなしている。その上で料理や洗濯といったメイドとしての仕事もそつなくこなしているのだ。雛子が完璧なお嬢様なら、静音さんは完璧なメイドである。しかも静音さんは雛子と違って、表向きだけでなく本当の意味で完璧だ。


「本日はここまでにしておきましょうか。お疲れ様です」


「あ、ありがとう、ございます……」


 結局、護身術のレッスンが終わったのは、俺が一度音を上げそうになった時から二時間が経過した後だった。


「思ったよりも飲み込みが早いですね」


「本当ですか?」


「ええ。特に護身術は才能があるかもしれません。磨けば良いものになると思いますよ。……反面、マナーは中々、身につきませんね」


「うっ……すみません」


 俺の家庭はお世辞にも裕福とは言い難い生活水準だった。ナイフとフォークなんて未だに使い慣れていない。


「汗だくで屋敷をうろつかれても困りますので、早めにお風呂へ入ってください。ただし、湯船に浸かっている間はこちらを」


 静音さんが紙束を渡してくる。

 書面には、学院のクラスメイトたちの名前などが記載されていた。


「これは……?」


「伊月さんのクラスメイトたちのプロフィールです。知っておいて損はないでしょう」


 風呂に入っている間も勉強か……。

 日給二万円の仕事だ。受け入れるしかない。


「あ、そう言えば午後にもう一人、交流を持った人がいるんですけど」


「どなたですか?」


「天王寺美麗という人です。クラスは違いますが……」


 そう言うと、静音さんは目を丸くした。


「天王寺様に声を掛けられたのですか?」


「はい。……何か問題でしたか?」


「いえ、問題はありません。ただ、あくまで学院内での評判ですが、天王寺様とお嬢様は犬猿の仲と噂されていますから、デリケートな関係にはなりますね」


 それは初耳だ。

 まだ学院に一日しか通っていないので、そのような噂は聞いていなかった。


「天王寺様はともかく、お嬢様にそういった意思はございません。ただ、此花グループと天王寺グループは、殆ど同じ規模の企業グループです。それ故に競合する場面も多く、状況によっては互いの関係が緊張する時期もあります」


「……なるほど」


「天王寺様の資料は明日までに用意いたします。本日は、クラスメイトのプロフィールを覚えることに集中してください」


 はい、と俺は返事をする。

 本日のレッスンはこれで終了だが、静音さんからは自習もするようにと言われている。クラスメイトのプロフィールは、就寝時間までになんとか記憶しておこう。


 静音さんは道場を軽く掃除するらしく、俺は先に道場を出ることにした。本当は手伝いたいところだが、体力が限界だ。今、手伝いを申し出たところで足手纏いにしかならないだろう。


「伊月ー……」


 部屋に戻る途中、雛子と遭遇する。

 この辺りは使用人の部屋しかない。何の用だ? と訊く前に、雛子は俺に密着してきた。


「む」


「どうした?」


「……汗臭い」


「そりゃそうだろ」


 顔を顰める雛子を遠ざける。


「どこ行くの?」


「部屋に戻って、風呂に入るつもりだ」


「お風呂? ……じゃあ、ついて来て」


 雛子が俺の手を取ってどこかへ連れて行く。

 柔道着を着ながら雛子に連行される俺の姿は、屋敷でも目立っていた。使用人たちの注目を浴びて居たたまれない気分になりながら、雛子について行く。


「ここは……」


「私の部屋」


 辿り着いた場所は、雛子の私室だった。

 俺の部屋の五倍以上の広さがある。落ち着いた茶色のカーペットに、天蓋付きのベッドなど、如何にもお嬢様の部屋らしい内装だ。


「お風呂は……ここ」


 雛子が脱衣所の先にあるドアを開く。


「おぉ……広いな」


 風呂も同様、俺の部屋にあるものとは比べ物にならないほど広かった。

 というか、風呂場が俺の部屋と同じくらいの広さだ。小さな公衆浴場である。


 しかし、どうして雛子は俺をこのような場所へ案内したのか。

 不思議に思う俺に、雛子は告げた。


「一緒に入ろう」


「……なんで?」


 なんで?


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