第9話 貴皇学院
俺の部屋で眠ってしまった雛子様は、最終的に静音さんに運んでもらった。没収されたスマホはポケットの中に入れられていたので、さり気なく回収している。
翌日。俺は貴皇学院の黒い学生服を着て、屋敷の外に出た。
門の前で黒塗りの車が停められている。その手前には雛子様の姿があった。
「帰りたい」
「八時間後に同じことを言ってくだされば、承諾いたします」
「……むぅ」
駄々をこねる雛子様を、静音さんが慣れた様子で宥める。
「伊月
静音さんが俺の方を見て言った。
そうか、今から俺は中堅企業の跡取り息子だ。静音さんに様付けで呼ばれ、自分の表向きの身分が切り替わったことに気づく。
「さて、伊月様。どの席へお座りになられますか?」
車に乗ろうとした時、静音さんが俺に訊いてくる。
これは……先日のマナー講習の復習か。
「……後部座席、手前です」
「正解です。運転手がいる場合は、後部座席の奥、後部座席の中心、後部座席の手前、そして助手席の順で高い立場の者が座ります」
「運転手が同行者である場合は、助手席が一番の上座になるんですよね」
「その通りです。よく勉強できていますね」
それはもう、想像を絶するスパルタ教育を施されましたので……。
「本来なら、こうしてお嬢様を車まで案内することもお世話係の仕事ですが、伊月様には段階的に仕事を任せようと思います。……さあ、車へお乗りください」
雛子様が車に入り、次に俺が後部座席に入る。
静音さんは助手席に座った。
「ねーむーいー…………」
お前、散々寝ただろう。
喉元まで出ていた突っ込みを、どうにか抑える。
車が緩やかに走り出した。
「お二人は別々の家に住んでいるという設定ですので、学院の少し前で車から降ろします」
「俺たち二人だけで通学路を歩くというわけですか? でも、それだと昨日みたいに誘拐されるかも――」
「ご心配には及びません。常に周囲で警護しています。……先日の一件は、お嬢様が我々に何の連絡も入れずに外出したから起きたことです。お世話係である貴方は、そういう事態も未然に防いでください」
「……分かりました」
今日から初仕事だ。
お世話係として、細心の注意を払おう。
「ところで俺は、雛子……様と同じクラスなんですよね?」
「もちろんです。お世話係である貴方は、お嬢様と常に行動を共にしてもらいます」
俺と雛子様はクラスメイトということになるらしい。
「伊月……口調は?」
「うっ」
聞こえていたか……。
しかし静音さんの前で、雛子様を呼び捨てするのは抵抗がある。
苦虫を噛み潰したような顔をしていると、雛子様が静音さんに言った。
「静音。伊月の口調、元に戻して」
「しかし、お嬢様。それでは他の者たちへの示しがつきません」
「じゃあ……二人きりの時と、静音がいる時だけでいい」
「……畏まりました」
渋々、静音さんは従う。
「良かったね、伊月……私にタメ口きけるよ」
「……別に嬉しくはないんだが」
静音さんの視線が痛い。
というか俺は別に敬語でもいいのだ。バイト漬けの生活を送ってきた俺にとって、上下関係は慣れたものである。
「伊月様はボロを出さないためにも、基本的に学院では敬語で話すようお願いします。中堅企業の跡取り息子というのは、貴皇学院の中ではやや低い身分なので、その方が要らぬ軋轢も生まずに済むでしょう」
「分かりました」
中堅企業の跡取り息子で、低い身分なのか。
言われなくても素で敬語が出そうだ。多分、学院に通う生徒たちは、全員が俺より高貴な境遇である。
「あぁぁーー……学院が、近づくぅーー……」
心底怠そうに、雛子は言った。
「伊月ぃ……」
「……なんだよ」
「だっこ」
車が激しく揺れた。
いきなり何を言ってるんだ、このお嬢様は。
運転手も動揺しているじゃないか。
「お嬢様。流石にそれは、その、淑女としての自覚に足る行為ですので……」
「伊月はねぇ、いい匂いがするんだよー……?」
「……そ、そうなのですか?」
静音さんが目を丸くした。
「あの、伊月様。後学のために嗅がせてもらっても?」
「いや……全然いい匂いなんてしないと思いますから。勘弁してください」
「……するのに」
そう言いながら、雛子は俺の袖に鼻を近づけた。
念のため自分でも嗅いでみる。……いや、別に何も匂わない。強いて言うなら此花家で使用されている洗剤の匂いがするだけだ。
「あの、雛子さん。俺も一応、男なので、そんなに近づかれるのは……」
「口調」
「……雛子」
「よーろーしーいー……」
これはもう何を言っても無駄になりそうだ。
溜息を零すと、隣で静音さんがもっと深い溜息を零した。
「お嬢様。そろそろ……」
「……ん」
凡そ三十分後、車が目的地に到着する。
人気のない静かな路地で、俺と雛子は下ろされた。辺りに人影はないが……実際には此花家の護衛が多数潜んでいるらしい。
「伊月様。こちらを渡しておきます」
そう言って、静音さんが中身が見えない黒い袋を手渡してきた。
「これは……?」
「お嬢様の聞き分けがあまりにも悪ければ、こちらを使ってください」
イマイチ意図が分からない指示に、俺は「はぁ」と曖昧に返事をして受け取る。
袋は軽く、鞄に詰め込もうとするとカサカサと何かの擦れ合う音が聞こえた。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
恭しく礼をする静音さんに、こちらも軽く礼をしてから学院へ向けて歩き出した。
「……帰りたい」
「演技はしなくていいのか?」
「まだ誰にも見られてないから……気を抜ける」
どうやら雛子には、人の視線を感じ取る機能が搭載されているらしい。
本人はそう言っているが、お世話係である俺は彼女のお嬢様としての体裁を守り抜かねばならない。注意深く周囲を見回しながら、学院へと向かった。
「……でっか」
荘厳な、お屋敷のような学び舎を前にして、俺は思わず呟いた。
日本屈指の名門校――貴皇学院。一周回って頭が悪そうなネーミングだが、実際は非常に優れた教育機関である。
一歩を踏み出すことに、つい躊躇してしまう。
そんな俺の隣では――。
「此花さん、おはようございます」
「おはようございます」
琥珀色の髪を風になびかせた少女が、道行く学生たちの挨拶に、律儀に応えていた。
「此花さん……今日も美しいな」
「ええ。とても気高いわ……」
至るところから、そんな声が聞こえてくる。
いつの間にか演技を始めていた雛子の横顔を、俺はこっそりと覗き見た。先程までとはまるで違う。理知的で品性のある立ち居振る舞いをするその少女は、昨晩、俺の部屋で涎を垂らしながら寝ていた少女と同一人物とはとても思えなかった。
「どうかしましたか、西成君?」
「うわっ」
心配そうに雛子が俺の顔を見つめる。
素で驚いてしまった。慌てて口を押さえ、何でもないと伝える。
校舎に入った俺たちは、まず職員室へ向かった。
幸い俺と雛子は同い年だ。だから年齢を詐称することなく同じ学年に所属できる。そこへ静音さんが更に手回しすることで、同じクラスの生徒になることができた。
「お待ちしていました。貴方が、西成伊月君ですね」
職員室に入ると、女性の教師に声を掛けられた。
「私は
「こちらこそ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げる。
福島先生は、俺の隣に立つ雛子に視線を注いだ。
「此花さんとは知り合いなんですか?」
「あ、その……」
咄嗟に嘘が出てこず、つい言い淀んでしまう。
すると、俺の隣に佇んでいた雛子が口を開いた。
「私の家と西成君の家は仲が良いので、以前から交流があったんです。その繋がりで、私が学院を案内することになりました」
「まあ、そうなんですね」
丁寧な口調で説明する雛子に、先生は納得した。
「西成君、此花さんの案内とは非常に贅沢ですね」
「ははは……そうですね」
先生、知ってます?
この子、一人だと学院の中でも迷うみたいですよ。
※ ※ ※
マナーは諸説ありますので、複数ある場合は「小説として面白くなりそうな方」を採用することにしています。
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