第8話 屋敷暮らし
「そう言えば自己紹介がまだでしたね。私はお嬢様のメイドである、
屋敷の廊下を歩きながら、メイドさんが言った。
「これからお世話係となる伊月さんに様々な指導をする予定ですので、お見知りおきください」
「はい」
「伊月さんの身分は、表向き中堅企業の跡取り息子となりますが、この屋敷にいる間はお世話係です。そのため、ここではお嬢様の呼び方を改めてください」
「……分かりました。雛子
静音さんが頷く。
「反対に、屋敷の外ではお嬢様のご学友という身分になりますから、呼び方はさん付けがいいでしょう」
学院に通っている間は、雛子様のことをさん付けで呼ぶ。
うまく距離感を使い分けなければならない。俺は頷いた。
「こちらが、伊月さんの部屋となります」
静音さんが部屋の扉を開けて言う。
広さは七畳程度で、家具もベッドと勉強机のみという使いやすい部屋だった。恐らく使用人の部屋なのだろう。屋敷の大きさに圧倒されていた俺は、内心でほっとする。これなら馴染みやすい。
「必要な家具があればあとで注文を承ります。これから貴方はこちらの部屋で過ごしてください」
「はい」
注文を承るとのことだが、新米がいきなりアレコレ求めるのも憚られる。
せめて人並みに働けるようになってから、考えよう。
「ぬぅ」
その時。奇妙な声を漏らして、少女が部屋のベッドにダイブした。
「あの……雛子様。そこ、俺のベッドなんですが」
「お世話係のベッドはーーー………………私のベッドーーー…………」
むにゃむにゃと、幸せそうな表情を浮かべながら、雛子さんは布団に顔を埋めた。
「……仕方ありません。お嬢様はしばらくここで寝かせておきましょう」
静音さんが溜息混じりに言う。
「伊月さん。貴方は明日から貴皇学院に、編入生として通うことになりますが……その前に幾つか学んでおくことがあります」
静音さんの言葉に、俺は頷いた。
「お世話係の仕事についてですね」
「それもそうですが、他にもあります」
静音さんは説明する。
「貴皇学院は富豪の子女が集まる由緒正しい名門校です。その授業はどれもハイレベルであるため、普通の暮らしをしてきた方がいきなりついていけるものではありません。そこで、これから夕食までの間、ひたすら授業内容を予習してもらいます」
「……そんなにハイレベルなんですか」
「ええ。しかも貴方は、これからお嬢様と何度も行動を共にする間柄となるのですから、成績もお嬢様に見合うだけのものがなくてはなりません。最低でも、授業中に指名されて困らない程度の学力は必要です」
「……自信なくなってきました」
「勉学だけではありませんよ。マナーや立ち居振る舞い、それと護身術も叩き込みます」
「護身術?」
「念のためです」
驚愕する俺に、静音さんはしれっと言った。
「おや、臆しましたか?」
「いえ……これでも俺、色んな肉体労働を経験していますから。体力には自信がありますよ」
「そうですか。では予習が終わった後、お手並み拝見といきましょう」
淡々とそう告げる静音さんに対し、俺は不敵に笑ってみせた。
静音さんの性格から考えると、今のうちに主導権を握っておいた方がよさそうだ。もちろん、彼女はお世話係である俺にとって上司には違いないのだが……多分、下手に出ていると永遠にスパルタ教育を施されるだろう。そうならないよう、早い段階で俺にも得意分野があることを知ってもらいたい。
豪奢なお屋敷で、優雅な生活を送っている人に、一矢報いてやる。
苦学生を舐めるなよ――――。
◆
「限界です。許してください。死にます」
その日の夜。
俺は屋敷の一角にある道場にて、静音さんに向かって土下座していた。
「そうですね。では本日のレッスンはこれで終了としましょう」
勉強やマナーなど一通りのレッスンを終えた俺は、意識が朦朧とするほど疲労していた。
特に護身術のレッスンは心身ともに追い込まれた。まさかあんな、赤子の手をひねるようにあしらわれるなんて。……俺は心の中で静音さんのことを武闘派メイドと呼ぶことにした。
「お世話係の仕事については、こちらのマニュアルを参考にしてください」
「……分厚いですね」
「夕食前に口頭で一通り伝えたつもりですが、分からないことがあればマニュアルか私を頼るように」
分厚いマニュアルを受け取った俺に、静音さんが言う。
「あの……俺の部屋、雛子様がまだ寝てるんですけど」
「屋敷にいる時のお嬢様は大体寝ています。そっとしてあげてください」
「いや、でも俺、そろそろ寝たいんですが……」
「廊下で寝てください。布団を敷いておきます」
「……」
「冗談です。お嬢様が部屋に戻るまでお待ちください」
「……はい」
「では、私はこれで失礼します。何かあれば電話で呼んでください」
そう言って静音さんは道場を出て行った。
お世話係を務める意思を伝えた後、俺は此花家の使用人に支給されるスマートフォンを受け取っている。アドレス帳には静音さんの番号も入っていたが……できれば掛けたくない。
「……多分、お世話係って、本来ならかなりハイスペックな人間じゃないと務まらない仕事だよな」
道場を出て、自室へ向かいながら呟く。
静音さんのレッスンは毎日行われるらしい。あれをこなし続けると、数ヶ月も経たないうちに文武両道の完璧な人間になれるのではないだろうか。……もしくは俺が音を上げるかのどちらかだ。
部屋に戻り、一息つく。
机の上にマニュアルを置いてから振り返ると、そこにはまだ少女の姿があった。
「んふぅ……えへ、えへへ……」
どうも雛子様は睡眠が大好きらしい。
誘拐されている間もよく寝ていたが、普通に朝まで熟睡しそうな勢いだ。
溜息を吐き、俺は机に備え付けられた椅子に腰を下ろす。
今日は疲れているため、俺も早めに寝たい。しかしベッドには雛子様がいるため、どうしたものか……。
「そうだ。こういう時のための、マニュアルだな」
マニュアルのページを捲る。
「えーっと、あった。お嬢様が寝ている時に注意するべきこと、屋敷編。……屋敷にいる時のお嬢様は、殆ど寝て過ごします。熟睡中のお嬢様を起こすと不機嫌になってしまうため、必ず部屋まで案内してから寝かせましょう。…………手遅れじゃん」
一応、雛子様の部屋の場所は把握しているが、勝手に運んでも良いのだろうか。
そちらもマニュアルで調べようとすると……不意にスマホが震動した。
メッセージを受信している。
百合:明日、一緒に登校しない?
画面に映るメッセージを見て、俺は思わず「あっ」と声を漏らした。
「……しまった、説明するの忘れてた」
以前まで使用していたスマホは親の名義だったため、データを支給されたスマホの方に同期していた。そのため、以前からの知り合いのメッセージもこちらのスマホに受信する。
どう説明するべきか。
悩んでいると、五月雨式にメッセージが飛んできた。
百合:別に嫌ならいいけど! 私も他の友人と一緒に行くし!
百合:ちょっと?
百合:……既読無視しないで。
無視しているわけではない。
悩んでも答えが出てこないため、俺は正直に話すことにした。
伊月:事情があって、そっちの高校にはもう通えなくなった。
百合:は?
すぐに返信がきた。
百合:電話できる?
伊月:ごめん、疲れてるからまた今度。
正直もう頭も回らない。
今、余計なことを考えると、静音さんに詰め込まれた予習内容が全部抜けてしまいそうだ。
ブゥゥン、とスマホが震動した。
また今度と言ったのに……駄目だ。出る気になれない。
しばらく放置していると、再びメッセージが送られてきた。
百合:なんで出ないの?
百合:ねえ
百合:ねえ??
「――ねえ」
「うぉあっ!?」
いきなり背後から声を掛けられ、俺は跳び上がった。
振り向けば、そこには眠たそうに目を細めている雛子様が佇んでいた。
「お、起きてたんですか……」
「その人、誰?」
「え? ……ああ、えっと、同じ高校に通っていた幼馴染みですが……」
「……ふぅん」
含みのある相槌を打った雛子様は、俺のスマホに手を伸ばす。
ネットで調べ物でもしたいのだろうか。そう思い、スマホを渡すと、
「……没収」
「え」
雛子様は俺のスマホを持ったまま、布団に潜り込んだ。
「これで平穏が保たれた……」
「平穏って……あの、返してくださいよ」
「だめ」
こちらに背を向けたまま、雛子様は言う。
「……その口調、嫌い」
「はい?」
口調って……ああ、敬語のことか?
「元に戻して」
「いや、でも……」
「戻さなかったら、解雇」
そんな横暴な……。
「……これで、いいのか?」
「ん。それでよし」
「静音さんには、口調を改めるよう言われてるんだが……」
「明日、私が静音に言い聞かせておく」
それなら、いい……んだろうか。
明日、静音さんに直接訊けばいいか。
「伊月」
「……なんだよ」
「明日から、よろしくね」
柔和な笑みを浮かべて雛子様が言う。
一瞬、そんな彼女に見惚れた俺は、少し遅れてから返事をした。
「……おう」
こちらの返事を聞いて満足したのか、雛子様は再びベッドに潜り込み――。
「あ、おい! 待て! 寝るならせめて部屋に戻ってくれ!」
お嬢様は既に寝ていた。
の○太か、コイツ。
※ ※ ※
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