第3話 マイペースお嬢様


 名門校に通う由緒正しいお嬢様とて人間だ。だから当然、トイレにも行きたくなるだろう。

 でもそれ今、言う? しかもそんな冷静に。


「どうすればいい?」


「え。いや、どうって言われても……」


「漏れちゃう」


 口調が淡々としているので分かりにくいが、多分、困っているのだろう。

 俺はどこか釈然としない気持ちになりながらも、目の前にいる低身長の男に声をかけた。


「あの! こちらのお嬢様が、何か言っております!」


「……あん?」


 首を傾げる誘拐犯。

 少女は物怖じすることなく、二人組の男に言った。


「トイレ」


「……はぁ?」


「漏れちゃう」


 誘拐犯たちも流石に想定外の反応だったのか、目を丸くしていた。

 この少女、全く恐れていない。


「……漏らしたきゃ漏らせよ。変に動かれたら面倒だしな」


 苛立たしげに誘拐犯の一人が言う。

 しかし少女はその返答に焦ることなく、告げる。


「いいの?」


 なんて純粋な目。

 お漏らしをすることに一切の抵抗がないようだった。野良猫でも、まだ申し訳なさそうな顔で漏らす。


「だ、駄目だと思うぞ。我慢できるなら、我慢して欲しい。……俺のためにも」


 硬直する誘拐犯たちに代わって、俺が指摘する。

 俺とこのお嬢様は鎖で繋がれているので、そう遠くまで離れることができない。お嬢様が漏らしたら俺も被害を受けそうだ。


「……連れてってやれ」


 誘拐犯のうち、背の高い方の男が言った。


「でも、兄貴」


「何日立てこもるか分からねぇんだ。汚いのは嫌だろ」


 兄貴分の言葉に弟分は納得したのか、後ろ髪を掻きながら少女のもとへ近づく。 


「ちっ……鎖は外さねぇからな」


 誘拐犯は少女の足枷を外した。

 少女と鎖で繋げられている俺も、一緒にトイレへ移動する。少女は俺たちの目の前で恥じらうことなく個室に入った。


 やがて個室から出てきた少女は、手を洗ったあと、俺と誘拐犯の顔を見る。


「スッキリした」


「「報告せんでいい」」


 誘拐犯と俺の突っ込みが重なった。

 妙な疲労感を覚えながら、俺たちは元の場所へと戻った。


「ねえ」


 少女が再び、誘拐犯たちに声を掛ける。


「……今度はなんだよ」


「お茶」


 お前、無敵かよ。

 誘拐犯たちも呆然としてるじゃねーか。


「あ、兄貴……コイツ、本当に此花家の娘っすか? なんか、そんな風には見えないような……」


「そう、だな。……別人か? いや、しかしそんなはずは……」


 困惑しながら、兄貴分の男が少女に近づいた。


「おい。てめぇ、此花家の一人娘だよな?」


「そうだけど。お茶は?」


 マイペース過ぎるだろ。

 誘拐犯も目を点にして驚いている。


「ま、まあいい。飲み物くらい出してやるよ。餓死されても困るしな。……その代わり、協力的な態度を取ってもらうぞ」


 そう言って誘拐犯は一本のペットボトルを少女の傍に置いた。

 しかしそれは、ミネラルウォーターだった。


「私、お茶って言ったんだけど」


「なっ!? ぜ、贅沢言うんじゃねぇ! 水でいいだろうが!」


「お茶が飲みたい。あと、お菓子も」


 少女が言うと、男の額に青筋が立った。


「おい! そこの男! てめぇ、この女の世話しとけ!」


「なんで俺が!?」


「俺たちは今、忙しいんだよ!」


 誘拐犯の男が怒鳴る。

 両手両足を縛られた俺にできることなんて殆どないが……渋々、首を縦に振った。


「ねえ。お菓子は?」


「……無いみたいです」


「……そう」


 少女は不服そうにペットボトルを手に取った。

 しばらくすると、少女の方からボタボタと何かの零れる音がする。

 振り向けば、ずぶ濡れの少女がいた。


「うわっ!? な、なんでそんなに濡れてんだよ……」


「……さぁ?」


 首を傾げながら少女がペットボトルを口元で傾ける。

 しかし唇と飲み口が離れているせいで、水は少女の顔面に流れ落ち、そのまま服に染みこんだ。


「いや、こぼれてるって!」


「ペットボトル……飲み慣れてない」


 飲み慣れていないとか、そういう次元じゃねーよ。

 世間のお嬢様は皆、こんな感じなのだろうか。流石にマイペース過ぎるというか、図太すぎるというか……一応、誘拐されているはずだがまるで恐怖している様子がない。


「……飲ませてやるから、ペットボトルを渡してくれ」


「……とらない?」


「とらねーよ! めんどくせーな!!」


 大声を出してしまったせいで、誘拐犯たちがこちらに振り向いた。

 しまった、機嫌を損ねてしまったか……と思いきや、同情の眼差しを注がれる。止めろ。そんな目で見るな。元はと言えばお前らが連れてきた人質だろ。


 この時点で俺の、少女に対するトキメキは完全に消えた。

 稀に見るほどの整った容姿をする彼女だが、その代わりに何かが欠落しているように思える。


「水溜まりになってるから、少し移動するぞ」


「ん」


 少女が立ち上がり、俺と一緒に移動する。

 次の瞬間、少女は何もないところに躓いて転倒した。


「……痛い」


 少女が涙目で起き上がる。

 床に打ち付けた額は真っ赤に染まっていた。

 運動音痴にも程がある。


「あ、兄貴……確か事前に調べた情報によると、此花家の令嬢は完璧なお嬢様・・・・・・って呼ばれているんですよね? あんな、鈍臭い奴じゃないと思うんですが……」


「い、いや、しかし、見た目は同じだろ。姉妹がいるって話も聞いたことねぇし……」


 誘拐犯たちが小声で話し合う。

 一方、少女は目尻に涙を浮かべながら、床に打ち付けた額を摩っていた。


「痛い……」


「……ちょっと見せてみろ」


 あまりにも少女が悲しそうな声を漏らすので、居たたまれなくなった俺は、軽く怪我の様子を確かめる。


「どちらかと言えば、打ったというより擦り剥いた怪我だな。雑菌がつくかもしれないから、あんまり触らない方がいいぞ」


「……んぅ」


 額に向けていた手を下ろし、少女は頷く。


「ところで……貴方はどうしてここにいるの?」


 少女は暢気に、そんなことを訊いてきた。

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