第2話 両親が夜逃げして、俺は拉致された

「達者でな」


 なんて台詞を、まさか両親から告げられるとは思わなかった。

 ハードボイルド系の洋画か漫画にでも影響されたのか、そう口にした父と母は、家賃二万円のボロアパートから出て行った。時刻は午後十時。居酒屋にでも行ってくるのか? まあ日を跨ぐ頃には帰ってくるだろう……などと、その時の俺は思っていたが。


 それから何日経っても、俺の両親はアパートに帰ってこなかった。

 どうやら俺は捨てられたらしい。


「……嘘だろ」


 俺が捨てられたというより、両親が夜逃げしたようだ。

 元々、我が家の家計は火の車で、大体その原因は父の酒好きと母のギャンブル好きだった。その評判は周囲の人々にも伝わっていたらしく、両親が夜逃げする場面をご近所さんは目撃していた。俺はご近所さんから両親が慌てた様子で何処かへ走り去ったとの話を聞き、ようやく現状を理解することができた。


「達者でなって……無責任過ぎるだろ」


 というか、息子を置いていくならせめて金も置いていけ。

 親の心配より自分の心配をする辺り、俺もクズな両親の血を引いているのかもしれない。


「……ていうか俺、明日、高校の始業式なんだけど」


 元々、高校に通えたことが奇跡なのだ。

 両親の世話をしつつ、毎日バイト漬けで学費を稼ぎ、どうにか二年目も通えることになったはずだが……今は分からない。家賃は? 光熱費は? 食費は? 今までも殆ど俺の稼ぎで生きてきたようなものだが、家賃等は親も多少負担してくれていた。急にその全てを負担することはできない。


 ……昼飯でも買いに行くか。


 思考を放棄する。

 針時計は午後四時を示していた。今朝から何も口に入れていない。家中、探し回ったが金は全く残っていなかったため、俺の所持金は偶々財布に入っていた二百円だけだった。……二百円であと何日過ごせるのだろうか。


 警察に相談すればいいのか?

 その前に学校の友人に相談してみるか? いや、相談したところで迷惑をかけるだけな気がする。


 明るい日差しを浴びて、気分が一層憂鬱になった。

 見慣れた街を歩いていると、どこからか話し声が聞こえる。


「うふふ」


「まあ、そうなんですの」


 随分と高貴な相槌だ。

 見れば、清楚な学生服に身を包んだ二人組の女子生徒が緩やかな坂道を歩いていた。


 そう言えば聞いたことがある。

 あの緩やかな坂道を上った先には、この国でも三指に入る名門校があるらしい。


 いわゆるエリート校というやつだ。進学校とは別のニュアンスで、悪い言い方をすれば金持ち学校である。


 その学校には富豪の子女――つまり、お嬢様やお坊ちゃまばかりが在籍しているらしい。偏差値は極めて高く、設備はゴージャスで、授業の内容は高校とは思えないほど本格的。色んな意味で洗練された日々を送っているそうだ。俺が通う高校の始業式は明日だが、彼女たちの通う学校は既に始まっていたのだろう。名門校は長期休暇が短いのかもしれない。


「住んでる世界が違うなぁ…………笑えねぇ」


 歩く所作からして既に違う。育ちの良さが滲み出ている。

 もはや、妬ましいという感情すら湧かない。天が定めた運を前にして、人は無力である。俺がクズみたいな両親の間に生まれたことも、あの二人の少女が恵まれた家庭に生まれたことも、覆すことができない天命なのだ。


 しかし、その学校の生徒がこんなところを歩いているのは珍しい。

 今は放課後にあたる時間帯だが、確かあの学校に通う子女は車で送迎されているはずだ。こんな街中で見るのは珍しい。


「……ん?」


 コンビニに向かう途中、足元に何かが落ちていることに気づいた。

 黒い革製の、名刺入れのようなものだった。


 拾い上げて中を見てみる。――学生証だ。

 どうやら先程の二人の少女のうち、片方が落としたものらしい。


此花雛子このはなひなこ、ね。……いや、名前を確認している場合じゃないか」


 落とした本人は目の前にいるのだ。わざわざ名前や住所を確認する必要はない。

 走ると簡単に追いつくことができた。一緒に歩いていた友人とは既に別れた後なのか、今は一人で歩いている。


「あの、すみません!」


 呼びかけると、少女が振り向いた。

 明るい琥珀色の髪がなびき、日に照らされた端整な横顔が見える。これぞ見返り美人か、なんて思いながらその姿に見惚れていると――。


「――え?」


 唐突に、黒塗りの車が少女の真横に停車した。

 車の扉が開き、中から二人の屈強な男が現れる。

 男たちはあっという間に少女を車の中に引きずり込んだ。


 ――何が起きている?


 いや、何が起きているのかは一目瞭然だ。

 ただそれが、漫画やドラマでしか見たことがない非現実的なものだから、驚愕しているだけで……。


 驚いている場合ではない。

 今、俺の目の前で――誘拐が行われようとしている。


「ちょ、ちょっと待った!!」


 見て見ぬ振りはできないと判断した俺は、つい大声を出した。


「なんだ、てめぇ!!」


「この女の知り合いか!?」


 誘拐犯と思しき二人組の男が叫ぶ。

 不幸にも辺りに俺たち以外の人影はない。だから先程の俺の大声は、この二人を焦らせるだけになってしまった。


「ちっ、目撃者を逃がすわけにはいかねぇ! てめぇも来い!」


「うわ――っ!?」


 強引に腕を掴まれ、そのまま車の中まで引っ張られる。

 こうして俺は、一人の少女と共に誘拐された。




 ◆




「おし、これで動けねぇだろ。お前ら、じっとしてろよ」


 誘拐犯の片割れである低身長の男が言った。

 俺たちは今、廃工場の奥地にいる。どうやらこの誘拐はかなり計画的なものだったらしく、俺と少女はあらかじめ用意されていた手錠で両手両足を縛られていた。更に俺と少女の手錠が、太い鎖で繋がれている。


「……あの、俺の親は身代金なんて払えないと思うんですけど」


「うるせぇ。てめぇはついでだ」


 吐き捨てるように誘拐犯は言った。

 溜息が零れる。両親には夜逃げされ、誘拐には巻き込まれ。……俺は前世で何かとんでもない悪事を働いたんだろうか。


 連日の不幸も相まって俺はもう自棄になっていた。

 こっちは両親が夜逃げしたせいで、誘拐される前からお先真っ暗な身だ。この誘拐が終わったところで、明日の食費すらない生活が待っているだけである。どのみち夢も希望もない。


「ツイてますね、兄貴。コイツ此花家の令嬢ですよ。ターゲットの中でも一番の大当たりじゃないっすか?」


「ああ……此花家と言ったら、貴皇きおう学院の生徒でも一、二を争う金持ちだ。こりゃあ身代金も相当搾り取れるぞ」


 二人の誘拐犯が下卑た笑みを浮かべながら話し合う。

 彼らの話を聞きながら、俺は隣で同じように縛られている少女を見た。


 身代金以外の目的で攫われてもおかしくない。それほどの整った容姿だった。瞳は円らで無垢な印象を受けるが、その奥には知性を感じさせるものがあり、可愛らしさと聡明さが同居している。真っ直ぐな鼻梁からは気品を感じ、湿り気を帯びた朱唇からは愛らしさを感じた。明るい琥珀色の髪は絹のように艶があり、肌は初雪の如く白くてきめ細か。手足もスラリと伸びている。


「……ねえ」


 少女が声を漏らす。

 なんというか、街中で見た時とは少し態度が違う。街で見た時の彼女はいかにもお嬢様らしい雰囲気を醸し出していたが、今は気怠げで憂鬱そうだった。


 そりゃそうか――誘拐されているんだから不安に違いない。いつも通りの態度でいられないのは当たり前だ。名門校に通うこのお嬢様は、俺と違って将来が約束されている。だからこそ、俺とは比べ物にならないほど恐怖を感じているのだろう。


 お先真っ暗な俺でも、せめて目の前の少女くらい、慰められるかもしれない。

 俺は必死に言葉を選んで、少女を元気づけようとした。


「だ、大丈夫だ。身代金目当ての誘拐って、確か成功率が滅茶苦茶低かったし――」


「トイレ」


「それに日本の警察は優秀だから、このまま待っていれば………………は?」


 聞き間違いか?

 なんだか今、ものすごくマイペースな言葉を聞いたような。


「トイレ。漏れちゃう」


 その少女は、力強く、尿意を示した。


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