第32話 蒼き峰の王の悔恨

 寝室の柩の中で目を覚ました瞬間、ガルシア・アリスタはすでにすべてが手遅れであることを知った。

 ガルシアに対して周到に閉ざされたアシエルの『感覚』を強いてこじ開ける必要もない。

 屋敷に漂う、微かな血の香り。

 ねっとりと熱を帯びた快楽とみずからに親しい緋色の闇の気配。

 それゆえ、寝室の扉とシルヴィアの部屋の扉に、幾重にもほどこされたアシエルの施錠の魔法を解呪しているあいだも、ガルシアのこころを占めていたのは、焦りではなかった。

 そして、最後の魔法を解呪し、シルヴィアの部屋の扉を開けて寝台のうえで重なり合うふたりの姿を見たときにも、ガルシアのこころを占めていたのは怒りではなかった。

 紺青の空、瞬く星のように静かな哀しみ。

「もうすこしおやすみになっていらっしゃったら、我が王のお手をわずらわせずに済みましたのに」

 ガルシアの姿を目に留めて、アシエルがゆるゆると身を起こした。

 耳飾りの紅玉ルビノよりもなお紅い深紅の瞳、鮮やかなくれないに染まったくちびるで、アシエルは道化のように……晴れやかに笑って見せる。  

 室内に充ちる甘く濃い血の香り。

 言葉もなく、ガルシアは寝台に横たわるシルヴィアのそばに歩み寄った。

 ピレネーの峰を覆う雪より白く、海原に降り注ぐ月光より蒼い、血の気を失った肌。

 アシエルに幾度も牙を立てられた首筋は、流れ出したシルヴィアのいのちの色に染まり、強いられた快楽に潤んだ瞳に宿る光は、弱かった。

 愛おしさに抱き上げて、冷たくなった彼女の頬に頬を寄せる。

「ガルシアさん……?」

 衰弱のあまり、もう目もあまりよくは見えないはずなのに、シルヴィアは自分を抱く腕がだれのものであるのかを理解したようだった。

 夢のふちからうつつに語りかけるように、ガルシアに囁く。

 ガルシアは肯定の意味を込めてシルヴィアのひたいにくちづけた。

 シルヴィアの蝋細工の如き頬に浮かぶ微笑。

「アシエルさんを怒らないであげてね。アシエルさんはわたしの願いを叶えてくれたの。……わたし、あの首飾りを受け取りたいって……言い出す勇気がなくて。ね?」

 みずからのいのちの灯が消える……その瀬戸際にあってさえ、アシエルの身を……ひいてはガルシアの気持ちを思い遣る彼女が哀れだった。

 そしてガルシアは思い知る。

 みずからが選択すべき義務をなげうつことで、彼女になにを強いていたのかを。

「心配することはない。アシエルに罪がないことは、わたしにもよく分かっている。明日の夜、君が目を覚ましたら、三人でどこへ行くか話し合おう。長い……永い旅になるだろうから」

 終わりもなく、目的もない夜の旅。

 ただ存在し続けるためだけに他者のいのちを奪い、護るべきものもなく戦い続ける。

 それを、自分たちは二百年のあいだ続けてきた。

 そしてその空虚さに、もはや一歩も動けなくなっていた自分たちを、彼女は救ったのだ。

 けれども、ガルシアが彼女に与えることができたのは……救いではなかった。

 愛ですらないかもしれない。

 たとえガルシアの彼女を想う気持ちがほんものであったとしても……彼女が得たのは呪いだった。

 ガルシアに科せられたものとおなじ、牢獄の枷。

「ガルシアさん……大好きよ」

 シルヴィアは、笑っていた。

 いま、彼女から失われつつあるものが、彼女のひととしてのいのちであり、神の恩寵であることを知りながら。

「今夜はもう、おやすみ」

 ガルシアの言葉に、穏やかな眠りを約束する夜の気配を聞きながら、シルヴィアは目を閉じた。

 彼女が『明日』を疑っていないのが、哀れだった。

 明日の夜、目覚めたあとにある、ひとではなくなった彼女の身に待ち受ける運命が、平穏であることを疑っていない彼女が、愛おしくてならなかった。

 いな

 おそらく彼女は、明日からの運命がけっして幸福なものではない……そのことすら分かっている。

 それでも、と、覚悟を決めたのであろう彼女のためにガルシアのできることは、ひとつだけだった。

我が王ミ・レイ、彼女との盟約をたがえた罰は、いかようにでも。僕はどんな罰でも受け入れます。心臓を剣で貫いてくださっても構いません」

 シルヴィアの眠る寝台から退しりぞいて、彫像のように部屋の片隅に控えていたアシエルが、彼の王に膝を屈した。

「僕の存在が失われれば、シルヴィアさんは……ひととして死ねるでしょう……いまなら、まだ」

 犠牲者のいのちが失われ、まったきひとでなくなってしまうまえに、その血を啜った者を滅ぼせば、犠牲者はひとに戻ることができる。

 傷ついた身体、失われた血は戻らなくても、呪いに引き裂かれた神の恩寵は蘇り、彼女の魂を天上の門へといざなうだろう。

 これが最後の機会だ。

 ひとである彼女を救おうとするなら。

「けれど……我が王ミ・レイ

 アシエルは淡々と……まるでガルシアに道理を諭すかのように言葉を続けた。

「彼女はお連れになるべきですよ。ガルシアさまの旅に、シルヴィアさんは必要です。ガルシアさまだって、そう思っていらっしゃるでしょう? 僕が、今夜を限りにガルシアさまの臣下であり続けることが叶わなかったとしても……明日の夜、我が王のくちづけで、かならずシルヴィアさんを目覚めさせてください」

 アシエルはそれだけ言って、こうべを垂れる。

 ただひとりの廷臣のその言葉、その姿に、青き峰の王は静かに首を横に振った。

「おまえがいなくなれば、彼女が哀しむ。放念せよ、おまえの罪は、おまえの王であるわたしが負う」

 ガルシアは穏やかにみずからの選択を告げた。

 むろん、その選択は遅きにしっしたものだ。

 そう……ガルシアには、分かっていた。

 この惨劇を引き起こした真の罪人がだれであるのか。

『白黒決めぬ自由、曖昧を曖昧のまま愉しむ贅沢は、王たる者には許されぬ』

 ヘルメス王の忠告が、苦痛をもって耳に甦る。

 この忠告にも拘わらず、みずから『決める』ことを放棄したのは、ほかならぬ自分自身だ。

 その結末が、これだった。

 たったひとりの臣下であるアシエルと、愛おしい娘に苦渋の選択を強いた。

 みずからの決断で、彼女を実家に戻していたなら。

 あるいは、みずからの意志で、彼女を迎え入れていたなら。

 ……だれも傷つかずに済んだのだ。

 それができなかった……王の義務を放棄していたガルシアがなすべきことは、明らかだった。

 アシエルの罪をみずからの罪として、負ってゆくこと。

 シルヴィアが堕ちた牢獄が、わずかでも居心地のよいものになるように……彼女を護ること。

 それがガルシアに残された、王としてあるべきたったひとつの選択肢だ。

「アシエル、済まないが、いまから仕立屋に行って、衣装を一着、引き取って来て欲しい」

 ガルシアは穏やかに微笑んで、アシエルに言った。

 せめて喜ぶべきだろう。

 ガルシアのために罪を重ねたアシエルのために。

 ガルシアのためにすべてを受け入れたシルヴィアのために。

『その衣装』を身に纏う彼女の姿を夢に描きつつ、叶わぬものとして諦めていた、その夢が叶うことを。

 彼がたしかにひとりの娘を愛した証しとして、この世の果てまで持って行くつもりだったそれを、娘がガルシアのために身に纏ってくれることを。

「……彼女の花嫁衣装だ。仕立屋には、そう言えば分かる」

「御意のままに」

 アシエルはただひとこと、そう応えて部屋を出た。

 静かな夜だった。

 寝台に腰掛け、腕の中で眠り続けるシルヴィアの浅い吐息を確かめるように、くちびるの端にくちづけて、ガルシアは彼女の手を取った。

「シナイの山のいただきで、君に『最後の審判イル・ジュディッツィオ』をみせてあげよう。天国の門が君の前で閉ざされたなら、わたしはどんなの悪い取引にも応じよう。君の魂が汚れていると、神が言うなら、わたしは膝を屈して神に詫びる。君に罰が与えられるというなら、それはすべてわたしが受ける。君があがなうべき罪など……なにひとつないのだから」

 ガルシアはそう語りかけ、その鼓動の音を耳に留めておこうとするかのように緩やかに脈打つ娘の胸に頬を重ねる。

「愛している」

 それがどんな言い訳にもならないことを知りながら。

 それでゆるされる罪などないことを知りながら。

 それでも。

 ガルシアの長くしろい牙が、アシエルに傷つけられていない方の……シルヴィアの白い首筋に沈んだ。

 彼女の左の耳に残っていた黄金輝石の耳飾りが、床に落ちる。

 散ってゆく彼女のいのちの花片のように……音もなく。

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