第31話 優しき離反(2)

 シルヴィアはいつ、どうやって自分の部屋に運ばれたのか、記憶になかった。

 背に、絹の肌触り。

 寝台に身を横たえさせられているのが分かる。

 どこも拘束されてはいないのに、身体の自由が利かない。

 身体に、ちからが入らないのだ。

 部屋にはシルヴィアが不自由を感じない程度に、いくつか燭台が灯されているはずなのに、ものがよく見えない。

 アシエルが謝罪の言葉のあいまに、耳許でなにかを囁いているが、魔法の呪文のようで、意味がよく分からなかった。

 それは、アシエルの故郷の言葉なのかもしれない。

 睦言のように繰り返し囁かれる優しい響き。

 愛おしく頬を撫でるアシエルの指先。

 なんども、なんども詫びながら首筋に突き立てられるしろい牙。

 牙が肌に食い込むたびに、シルヴィアのくちびるから熱い吐息が漏れる。

 けれど、身体は凍えるようだった。

 血を奪われる代わりに、傷に注がれ身体を侵してゆく甘やかで昏い毒。

 自分が、これまでとは違うなにかに造り替えられてゆく恐怖さえ、毒のせいで麻痺してしまっているようだ。

「シルヴィアさん」

 シルヴィアの冷たい頬にくちづけて、アシエルが囁いた。

 彼女の熱い血を奪ったせいで、すこしひとのぬくもりに近づいたくちびる。

「旅に出ましょう。シルヴィアさんの行きたいところへ。僕たちは埃及エジプトに行くつもりでしたが、べつに何処へだって構いません。神聖羅馬帝国の奥深く、昏く深い神話の森。風が啼き、星の歌う英国の草原。何処までも広がる土耳古トルコの砂の原……何処へだって行けます。僕らにはいくらでも時間はあるんですから。きっと、楽しいですよ」

 楽しいですよ、その明るい言葉とは裏腹に、アシエルの声はどこか哀しげな響きがする。

「ガルシアさんとアシエルさんの故郷に……連れて行ってくれる? わたし、ずっと威尼斯ヴェネツィアを出たことがなくて……山だって見たことがないの。蒼い峰や、夏でも溶けない雪、手の届きそうな星空……アシエルさんが子どもの頃、泳いだ湖だって見てみたいわ。湖って、塩辛くない水がいっぱいあるんでしょ?」

 夢うつつに、シルヴィアはアシエルに語りかけた。

 哀しいことなんてなにもないのに。

 そうアシエルに伝えるには、彼にどんな言葉をかければいいのか……シルヴィアには思いつかなかった。

「もちろんですよ、シルヴィアさん」

 アシエルが請け合った。

 空虚に……楽しげに。

「威尼斯とくらべれば、なんにもないところですけれどね」

 朽ち果てた城と、廃墟の街。

 うち捨てられた鉱山と畑。

 そして、それらすべてを優しく覆い尽し、狂おしく哀しい記憶をときの彼方へとおしやる草の原……

「僕は、貴女にゆるしてもらえなくても構いません。赦してくださらなくても、貴女から昼間の世界……この世の半分を奪ってしまう代わりに、僕は貴女のどんな我が儘でも聴いて差し上げます。この世界の残酷さや醜さを貴女が見ずに済むように、僕はどんなことでもしてみせますよ。貴女がこれ以上汚れずに済むのなら、これ以上悲しい思いをせずに済むのなら、僕の犯す罪の数がいくら増えようと、そんなことは問題じゃない。貴女が考えている以上に、僕の手は血塗れで……僕は幼い頃から罪を犯すことを怖れないように育てられてきたんです。ですから、貴女はいつまでもガルシアさまのおそばで、笑っていてください。ね?」

 傷ついた首筋が熱かった。

 溢れる血潮を舐める舌先。

「もうすこし……そう、あともうすこしですから……ごめんなさいソーノ・スピアチェンテ

 シルヴィアの肌の下に流れる熱を……ひとのいのちを求めるアシエルの牙。

 罪を犯すことを怖れない……アシエルはそう言うが、ならばどうして……その声音は苦痛に充ちているのだろうか。

「……アシエルさん」

 全身を侵す強いられた快楽に溺れそうになる意識を必死に引き留めながらから、シルヴィアは呟いた。

「アシエルさんは、謝らなくていいのよ。もっと早く……わたしが決めなくちゃいけないことだったの。だから……アシエルさんは、悪くないのよ」

 そう……それは、シルヴィアが「言いたかったこと」であり、「言わなければいけなかったこと」だ。

 これは、アシエルさんの罪ではない。

 わたしが決めなかったから、アシエルさんを苦しめてしまった。

 わたしが決めていれば、アシエルさんは……わたしに謝る必要なんてなかったのだ。

 わたしが、もっとはやくに……あの首飾りを受け取るって決めていれば。

「あんまり、優しいことを言わないでください」

 哀しげに笑いながら、アシエルは身を起こし、シルヴィアの指先にくちづけた。

「貴女はガルシアさまのものなのに……これ以上、僕は貴女のことを好きになりたくない」

 ぐったりとしたシルヴィアの手を自分の頬に引き寄せて、愛おしげにほおずりする。

「明日の夜、目が覚めたら……シルヴィアさんはガルシアさまとおなじ場所に立って、おなじものを見ることがおできになります。それは……貴女にとって、悪いことではないでしょう?」

 シルヴィアは頷いた。

 それこそが、真実、シルヴィアの望んでいたことであり……おそらく、だれにとっても幸せなことなのだ。

 ただ、自分で選ぶ勇気がなかったばかりに……アシエルさんに哀しい思いをさせている。

 シルヴィアに後悔があるとすれば、「自分で選ばなくてはいけなかったのに」、そのひとつだけ。

 アシエルは声もなく微笑んで、うやうやしく身を屈め、そっとシルヴィアの首筋に牙を立てた。

 深く……どこまでも深く。

 シルヴィアの魂が持つ神の恩寵……純白の翼を引き裂いて、その身体を緋色の毒に染め抜くために。

 ガルシアができなかったことを、成し遂げるために。

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