第30話 優しき離反(1)
『家に戻るなら、いまじゃぞ』
シルヴィアの耳に、ヘルメス少年の言葉が甦る。
幾度も……幾度も。
シルヴィアのもの思いが始まったのは、
少年がガルシアの屋敷を訪れた。
滅多にないヘルメス少年の昼間の来訪……それはすなわち、シルヴィアにだけ聞かせたい話があると言うことだった。
仮面祭の最後の夜、その夜明けにジュデッカ島有数の修道院……シルヴィアが身を寄せていたそこで、火刑が行われたのだという。
シルヴィアが目の当たりにし、そのために修道院を逃げ出さざるを得なかったあの『背徳』が、法王庁の知るところとなったのだ。
首謀者の修道士は火刑となり、修道院の女院長は、高貴な血筋であったことから死を
おそらくはその修道院の鉄格子の嵌まった小部屋で、厳しい監視のもと、残りの生涯を過ごすことになる。
また、修道士と院長の背徳に巻き込まれたことが明らかな者は、ひとりずつべつの修道院に送られ、そのほかの娘たちは厳重に口止めされ、
そう……シルヴィアが実家に何食わぬ顔で戻ろうとするなら、いましかない。
ここ数日のうちに、実家に戻るか。
……それとも。
決めなければいけなかった。
……わたしは、どうしたいのか。
実家に戻り、神の御許に召されるその日まで、ひととして自分にできることを探し続けて生きたいのか。
ガルシア・アリスタの手を取って、彼とともに終わりのない旅に出たいのか。
*
「シルヴィアさん、僕たちと行きませんか?」
アシエルの声に、シルヴィアは我に返った。
見れば、台所の入り口、扉に背を預けるようにしてアシエルが立っていた。
藍色に染められた絹のブラウスに、
ブラウスとおなじ色の首に巻いた飾り布には、
使用人に任せきりにせず、自分で夕食の準備をしようとして、ぼんやりしてしまっていたらしい。
「夕食の準備ができたら、つきあうわよ。ちょっと待っててくれるかしら?」
もの思いは止め処がない。
実家に戻ると決めても、夜が来て、ガルシアの姿を見れば「もう一晩だけ」とも思い、ガルシアとともに生きたいと決めても、朝が来て、実家にいる家族のことを思い出せば、その決意は揺らいでしまう。
……屋敷に籠もって想いを巡らせても結論が出そうにないいま、どこかに出かけるのは気晴らしにいいかもしれない……そう思いつつ、蕪を手に取り直したシルヴィアの肩に、触れるものがあった。
ひやりと冷たい……アシエルの手。
そろりと、うしろから抱きすくめられる。
「……もう、『夕食』なんて食べなくてもよくなりますよ」
足音もなく背後を取られて、シルヴィアの背に冷たい戦慄が走った。
そして、シルヴィアは……思い違いをしていたことに気がついた。
アシエルさんは、外套を着ずに外出することなどないのだ。
そして、色の濃いブラウスを着るのは……彼が『食事』をしに行くときだけ。
シルヴィアがなんどか、「洗ってもなかなか染みが落ちない」と
「……あの……アシエルさん……行くって……どこへ?」
声が震えていた。
「さあ? じつは僕にもよく分からないんですよ」
シルヴィアの右の耳に囁かれる、甘やかな声音。
「もしかするとガルシアさまもご存じじゃないかもしれません。……詩的な表現を許して頂けるのなら……『
うなじに触れる、冷ややかなくちびる。
「僕はね、ガルシアさまのおできにならないことをするのが役目なんです」
シルヴィアの耳に付けられたままの黄金輝石の耳飾りが、軋みをあげた。
そして、鋭い音とともに宝石が割れる。
じわりと、耳朶が熱くなった。
割れた宝石の破片が、耳を傷つけたのかもしれない。
「『サヴァラ家は、王にできないことをする』……そういう家系なのでね」
言いたいこと、言わなければいけないこと……なにかあるはずだったが、声にならなかった。
魔法はかけられていないはずなのに、舌がうまく回らず、身体は震えるばかりで思うように動かない。
「あたたかくて、優しくて……甘い。僕も好きですよ。貴女の血も、貴女自身もね」
耳朶を口に含まれ、吸われたと
いつのまにか右手にはアシエルの手が添えられている。
「お使いになられないなら、刃は卓子のうえに。危ないですからね」
小刀を取り上げられた自分の手が、冷たかった。
アシエルの手とおなじくらいに。
「なにかご希望があれば伺いますよ……と言いたいところですが、手早く済ませてしまいましょう。僕の魔力じゃ、長くはガルシアさまを足止めできませんから」
アシエルの腕にちからが籠もる。
怯え、震えるシルヴィアを
「大丈夫、怖いのも痛いのもほんのすこしのあいだです」
シルヴィアの耳許で、ぷつりと音がした。
うなじに深く突き立てられた凍えるように冷たい牙の痛みと、熱い血が肌を伝う感触。
そして、ほどなく、すべてを塗り潰す嵐の如き快楽がシルヴィアの理性を犯してゆく……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます