第30話 優しき離反(1)

『家に戻るなら、いまじゃぞ』

 シルヴィアの耳に、ヘルメス少年の言葉が甦る。

 幾度も……幾度も。

 シルヴィアのもの思いが始まったのは、仮面祭カルネヴァーレが終わって三日目の昼……昨日のことだ。

 少年がガルシアの屋敷を訪れた。

 滅多にないヘルメス少年の昼間の来訪……それはすなわち、シルヴィアにだけ聞かせたい話があると言うことだった。

 仮面祭の最後の夜、その夜明けにジュデッカ島有数の修道院……シルヴィアが身を寄せていたそこで、火刑が行われたのだという。

 シルヴィアが目の当たりにし、そのために修道院を逃げ出さざるを得なかったあの『背徳』が、法王庁の知るところとなったのだ。

 首謀者の修道士は火刑となり、修道院の女院長は、高貴な血筋であったことから死をまぬかれ、法王庁の直接監督する修道院に送られた。

 おそらくはその修道院の鉄格子の嵌まった小部屋で、厳しい監視のもと、残りの生涯を過ごすことになる。

 また、修道士と院長の背徳に巻き込まれたことが明らかな者は、ひとりずつべつの修道院に送られ、そのほかの娘たちは厳重に口止めされ、ひそかに実家に戻されているのだという。

 そう……シルヴィアが実家に何食わぬ顔で戻ろうとするなら、いましかない。

 ここ数日のうちに、実家に戻るか。

 ……それとも。

 決めなければいけなかった。

 ……わたしは、どうしたいのか。

 実家に戻り、神の御許に召されるその日まで、ひととして自分にできることを探し続けて生きたいのか。

 ガルシア・アリスタの手を取って、彼とともに終わりのない旅に出たいのか。

「シルヴィアさん、僕たちと行きませんか?」

 アシエルの声に、シルヴィアは我に返った。

 見れば、台所の入り口、扉に背を預けるようにしてアシエルが立っていた。

 藍色に染められた絹のブラウスに、にぶく輝く金のぼたんが星のようだった。

 ブラウスとおなじ色の首に巻いた飾り布には、紅玉ルビノの瞳を持つ銀細工の梟の留め飾りが煌めいている。

 使用人に任せきりにせず、自分で夕食の準備をしようとして、ぼんやりしてしまっていたらしい。

 卓子テーブルに食材を広げ、椅子に座って下準備をしているところで、手に調理用の小刀と剥きかけの蕪を持ったままだった。

「夕食の準備ができたら、つきあうわよ。ちょっと待っててくれるかしら?」

 もの思いは止め処がない。

 実家に戻ると決めても、夜が来て、ガルシアの姿を見れば「もう一晩だけ」とも思い、ガルシアとともに生きたいと決めても、朝が来て、実家にいる家族のことを思い出せば、その決意は揺らいでしまう。

 ……屋敷に籠もって想いを巡らせても結論が出そうにないいま、どこかに出かけるのは気晴らしにいいかもしれない……そう思いつつ、蕪を手に取り直したシルヴィアの肩に、触れるものがあった。

 ひやりと冷たい……アシエルの手。

 そろりと、うしろから抱きすくめられる。

「……もう、『夕食』なんて食べなくてもよくなりますよ」

 足音もなく背後を取られて、シルヴィアの背に冷たい戦慄が走った。

 そして、シルヴィアは……思い違いをしていたことに気がついた。

 アシエルさんは、外套を着ずに外出することなどないのだ。

 そして、色の濃いブラウスを着るのは……彼が『食事』をしに行くときだけ。

 シルヴィアがなんどか、「洗ってもなかなか染みが落ちない」とこぼしていたのを気にして、いつのころからか、食事に出るときだけは白いブラウスを避けるようになったのだ……。

「……あの……アシエルさん……行くって……どこへ?」

 声が震えていた。

「さあ? じつは僕にもよく分からないんですよ」

 シルヴィアの右の耳に囁かれる、甘やかな声音。

「もしかするとガルシアさまもご存じじゃないかもしれません。……詩的な表現を許して頂けるのなら……『ときの果て』、そんなところかもしれませんね」

 うなじに触れる、冷ややかなくちびる。

「僕はね、ガルシアさまのおできにならないことをするのが役目なんです」

 シルヴィアの耳に付けられたままの黄金輝石の耳飾りが、軋みをあげた。

 そして、鋭い音とともに宝石が割れる。

 じわりと、耳朶が熱くなった。

 割れた宝石の破片が、耳を傷つけたのかもしれない。

「『サヴァラ家は、王にできないことをする』……そういう家系なのでね」

 言いたいこと、言わなければいけないこと……なにかあるはずだったが、声にならなかった。

 魔法はかけられていないはずなのに、舌がうまく回らず、身体は震えるばかりで思うように動かない。

「あたたかくて、優しくて……甘い。僕も好きですよ。貴女の血も、貴女自身もね」

 耳朶を口に含まれ、吸われたとおぼしいのに、その感覚がなかった。

 いつのまにか右手にはアシエルの手が添えられている。

「お使いになられないなら、刃は卓子のうえに。危ないですからね」

 小刀を取り上げられた自分の手が、冷たかった。

 アシエルの手とおなじくらいに。

「なにかご希望があれば伺いますよ……と言いたいところですが、手早く済ませてしまいましょう。僕の魔力じゃ、長くはガルシアさまを足止めできませんから」

 アシエルの腕にちからが籠もる。

 怯え、震えるシルヴィアをいつくしむように。

「大丈夫、怖いのも痛いのもほんのすこしのあいだです」

 シルヴィアの耳許で、ぷつりと音がした。

 うなじに深く突き立てられた凍えるように冷たい牙の痛みと、熱い血が肌を伝う感触。

 そして、ほどなく、すべてを塗り潰す嵐の如き快楽がシルヴィアの理性を犯してゆく……。

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