第29話 仮面祭

「ああ、良い祭りの夜だね」

「ええ、とても良い夜だわ」

 街路を一区画歩くごとに十回は交わされる挨拶。

 シルヴィアも仮面祭カルネヴァーレが始まってから、毎晩、飽きることなく一晩に最低、百遍は交わしている。

 老いも若きも、知人でもそうでなくても、みな、そう挨拶を交わし合うことが楽しくてならないとでもいうように。

 初めのうちは実家の者や知り合いと顔を合わすのではないかとびくびくしていたシルヴィアだったが、杞憂だったようだ。

 実家の者と鉢合わせすることはなかったし、知り合いらしき者をたまに見かけることはあったが、声を掛けられることはなかった。

 仮装をして仮面を被っているのだ。

 シルヴィアも相手のことがはっきりとは分からなかったし、それは相手もおなじだったに違いない。

 今年の祭りの期間は一週間。

 二月なかばの水曜日から始まり、翌週の火曜日で終わる。

 祭りの翌日は灰の水曜日。

 灰の水曜日からの一ヶ月半……受難節クワレージマ、すなわち復活祭パスクワの前のいつきに入るのだ。

 基督の苦難に思いを馳せ、身を慎み潔斎する……そのまえの祝祭。

 そういう意味から、今年に限らず、威尼斯ヴェネツィアの仮面祭は特別だった。

 みな、思い思いに晴れ着を着て、仮面を被って、道化のように浮かれ騒ぐ。

 このときばかりは貧富も、身分も関わりない。

 祭りに関係のない商店は開店休業、船乗りたちは出航を先延ばしにし、政庁でも外交部門と水路の管理部門、観光案内兼警邏の役人以外は、欠勤してもお咎めなし。

 祭りの期間、ここが稼ぎ時と寸暇を惜しんで働く飲食店でも、みな、寝る間があるなら祭り見物だと、交代に店を空けて街へ繰り出すのだ。

 みなが昨日までの労苦を忘れ、『いま』の歓びを謳歌していた。

 みなが明日からの不安を忘れ、『いま』の安逸を貪っていた。

 『仮面祭』

 それは……すべての者が享受できる享楽のとき。

 熱那ジェノヴァの主力艦隊は、別働隊が『嵐』に遭い、コルフ島攻略が失敗したとの報を受けるが早いか、退却を始めた。

 威尼斯艦隊の補給線が分断されているとはいえ、自身の補給港もない状態で世界最高の造船技術と組織力を持つ威尼斯艦隊に決戦を挑むのは得策ではないと判断したのだろう。

 威尼斯艦隊もまた、退却する熱那艦隊を追うことはなかった。

 威尼斯政庁はアドリア海を警戒する監視船を増やし、羅馬ローマの法王を仲介役として熱那の枢機卿に、おざなりに抗議を行ったほかは、熱那とことを構えるような挑発は一切、行わなかった。

 威尼斯の補給港を征服した匈牙利ハンガリアとの、補給港使用の条約を締結するための交渉に忙しかったからだ。

 当初、威尼斯と敵対的だった匈牙利も、熱那の艦隊が退却を始めたという報を聴くと、態度を急速に軟化しはじめる。

 内陸国の匈牙利が、自身の手持ちの艦隊もない状態で熱那の後押しなしにアドリア海の覇権を握る威尼斯と、海上権益で争っても利がないのだ。

 それよりは威尼斯の便宜を図る見返りに補給港の使用料を受け取り、その資金で自前の海軍を育てるほうが得策だと考えたに違いない。

 威尼斯政庁としては、表向きは匈牙利と友好的な条約を結ぶ交渉をしつつ、匈牙利が将来、威尼斯の脅威となるような海軍力を持てないように、匈牙利の周辺国家を焚きつけるよう裏で画策する……そのあたりが世界最高水準の諜報組織と商売で鍛えた不屈で変幻自在の交渉力を駆使する元首ドージェをはじめとする威尼斯貴族たちの腕の見せどころであったが、それは庶民のあずかり知らぬ政治劇である。

 威尼斯のひとびとは、老いも若きも、仮面祭に合わせて威尼斯政庁が呼び集めた楽団や芸人の演し物を楽しみ、威尼斯をお守りくださった神に感謝を捧げるとの名目で各教会が特別に開帳する聖遺物や聖画を拝み、屋台に積み上げられた食べ物に舌鼓をうち、キプロスやマルヴァジアの葡萄酒に喉を鳴らし、仮面を被って踊り明かした。

 シルヴィアもまた、昼間はヘルメス少年と、夜はガルシアたちと、威尼斯の仮面祭をこころゆくまで楽しんだ。

 埃及エジプトから取り寄せた、小山のようにおおきく耳を翼のようにはためかせ、鼻で器用に食べ物を口に運ぶ象の威容に目を丸くし、駱駝らくだの試乗に参加してその高さに目を回しつつ、広場カンポの井戸をくるりと一周した。

 いつもは復活祭に行われる『海との結婚式スポザリーツィオ・デル・マーレ』も、今年は特別に開催された。

 仮面祭の中日に設定された催し物に、威尼斯の島々を外海の荒波から護るように位置する細長い島であるリドは、威尼斯中の人間が押し寄せたかのようなひとだかり。

 華やかな祭りごとには目のない威尼斯っ子とはいえ、復活祭にも催されることを思えば、尋常なひとの出ではない。

 海とともに暮らし、海と戦い、海に守られている威尼斯人だからこそ、今年の『奇蹟』にはただ、感じ入り、自分たちが海とともにある実感をあらたにしたのだろう。

 そして『海との結婚式スポザリーツィオ・デル・マーレ』は、まさに威尼斯が未来永劫、海とともにある決意を示すための儀式であるのだ。

 シルヴィアもまた、店を使用人に任せて祭り見物に出てきたヘルメス少年と、晴れわたる威尼斯湾を粛々しゅくしゅくと進む、金箔で華麗に装飾された元首御座船ブチェンタウロの壮麗さに見蕩れ、元首が御座船から金の指輪を海に投げ入れ「海よ、永遠の海洋支配を祈念して、威尼斯は汝と結婚せり」という宣言に歓声を上げた。

 街の各教区パロキア広場カンポでは、威尼斯政庁の肝いりの劇団が一日に二回、仮面祭の期間中、時間決めで威尼斯の建国史を演じていた。

 舞台になる部分にだけ天幕を張り、観客側は露天に固い木の長椅子を並べただけの即席の「劇場」だったが、木戸賃が無料とあってどこも結構なひとの入りだ。

 元首宮殿パラッツィオ・ドゥカーレの広場で行われているのが、西羅馬帝国が崩壊し、蛮族が伊太利亜イタリアに攻め込んできたときに、ひとりの神父が神の啓示を受けて民衆を海へと導く……威尼斯誕生の物語だ。

 そこを起点にして、時計回りに教区パロキアを巡ると、「威尼斯初代元首選出」「シャルルマーニュの息子の仕掛けた戦争を勝ち抜き、独立を守る」「聖マルコの遺骨が暦山港アレクサンドリアからもたらされ、威尼斯の守護聖人となる」「アドリア海の海賊退治」……といった、威尼斯のこれまでの歩みが順番に楽しめる趣向だった。

 自国の苦難に勇敢に立ち向かう歴史絵巻の主役を演じる役者は、もちろん選りすぐりの美男美女。

 威尼斯人でなくても楽しめるように、ほどよく恋や友情物語の味付けも施されたその物語は、どれも、他国から観光に訪れていたひとびとにも好評を博した。

 当然のことながら、この歴史演劇の最後の演し物は「匈牙利の策略と熱那の侵攻で苦境に立たされた威尼斯が、元首の努力と民衆の祈りによって、聖マルコの加護を得て事無きを得る」だ。

 今年の一番人気は当然、この演目で、昼と夕方の二回公演だけではまったく追いつかず、急遽、早朝と夜の公演を追加した。

 もちろん、シルヴィアはすべての演目を観た。

 夜の部が追加されたおかげで、最後の演目だけはガルシアとアシエルも観客に加わり、威尼斯の民が『こうあって欲しい』と望んでいる歴史絵巻を楽しんだ。

 もちろん、シルヴィアを含め三人とも、真実と違う、などと無粋なことを言うつもりはまったくない。

 今回の威尼斯の不戦勝が、庶民にとってどれほどの歓びか……それが分かるだけでじゅうぶんだ。

 ただ、ガルシアとアシエルは、民衆が神に祈りを捧げる場面で歌われた聖歌と、元首役の俳優が、「威尼斯に神の加護あれかし」と海に掲げた十字架にだけは閉口したようだったが。

 夜の仮面祭の眼目は、なんと言っても行進パラタだった。

 街路をただ練り歩くのではない。

 思い思いのステップを踏み、手に手を取って踊り明かすのだ。

 艦隊の灯す篝火が宝石にように煌めく威尼斯湾。

 昼間のように明るい港、教区パロキア広場カンポでは楽隊が夜通し景気の良い音楽を奏で、元首宮殿パラッツィオ・ドゥカーレや教会をはじめとして、金持ちも庶民も、思い思いに自分の住む建物を炎で飾り立てている。

 昼間のような見世物はなく、篝火に彩られた美しい街を、ただ、疲れ果てるまで踊るだけ。

 仮面祭のみどころを案内する……そう約束していたシルヴィアとしては、いざ夜の仮面祭を案内するとなると、見世物がないぶん楽しんでもらえるかどうか心配ではあったが、杞憂だったようだ。

 アシエルは道行く娘たちと気の向くままに手を取り合い、ガルシアはシルヴィアと手を繋いで夜を散策するだけでじゅうぶん楽しそうだっだ。

 シルヴィアとしてはガルシアとすこしくらいは踊ってみたいのだが……軽快な楽隊の音楽を背に、どれだけ水を向けてみても一向に乗ってこない。

 かといってアシエルと踊っていると、面白くなさそうな顔をしている。

 なるほど、以前アシエルさんの言っていた、「ガルシアさんは踊りが苦手」だというのはほんとうのことなのだと妙に納得はしたものの、わたしだって踊りたいのだから不機嫌な顔をされても困るわ、と思いつつ……気がつけば仮面祭は最終日の夜を迎えていた。

 仮面祭、最後の夜

 シルヴィアは生成りのワンピースに若草色に染められたベスト、といった出で立ちで街に繰り出していた。

 ベストには山羊や羊、鷹や鳩、ライ麦や豆といった、高原の民が使うことの多い意匠の刺繍が施されている。

 蜂蜜色の巻き毛を三つ編みにして、細い飾り布を編み込んで、飾り布の端に鈴を結ぶ。

 春の野原のような花柄の刺繍を入れた前掛けをして、蝶の模様の描かれた仮面を付たその姿は、歳よりもすこし幼く見え、春を呼ぶ妖精のようだ。

 シルヴィアに同行するガルシアとアシエルは、この日ばかりはともに、たっぷりした袖を手首で絞った生成りの中着に、シルヴィアの着ているベストとおなじような意匠の刺繍の入った紺のベスト、広い裾を足首で縛った生成りのズボンを穿いて、腰に紺のサッシュベルトを巻いている……そういう出で立ちだった。

 頭に被っているのは緋色の帽子。

 薄い筒状の形をした毛氈フェルト製で、山羊の毛にちいさな宝石をたくさん編み込んだ房飾りをひとふさ、帽子の右側に垂らしている。

 また、ともに、飾り布に金銀の鈴を結び、手首と腰に巻き付けている。

 ほとんど変わりのない、兄弟のような姿だが、アシエルだけは腰に二本、亜拉毘亜アラビア風の曲刀を下げていた。

 仮面はともに顔の上半分を隠すもの。

 仮面自体は黒一色だが、色とりどりに染められた鵞鳥の羽根飾りが付いている。

 それは、シルヴィアにとっては仮装だが、ガルシアたちにとっては正装と言った方が正しいかも知れない。

 仮面以外は、かつてピレネーの奥深く、蒼き峰にあったというガルシアの国の衣装だったのだから。

 教区パロキア広場カンポでは、祭りの最後の夜を楽しもうと多くのひとびとが集まっていた。

 夜半を過ぎ、夜明けも近かったが、だれも疲れたようすをみせていない。

 明々と灯された篝火。

 いつ果てるともない楽隊の軽快な音楽。

 乙女の歌声の如き竪琴リラの音、老賢者の導き如き鍵盤楽器ポルタティーフの唸り。

 拍子木クラベスは少年のように広場に響き渡り、二本笛アウロスは軽薄な青年のように乙女を追い回す。

 妻の如く騒ぎ立てるのは房鈴スレイベル

 夫の如く言い返すのは太鼓ボンボ

 みな、ひとつになって祭りの享楽を謳いあげていた。

 華やかな衣装。

 現世うつしよの名前を隠し、一夜限りの真実を語らせる仮面。

 今夜ばかりはさしものガルシアも折れて踊りにつきあってくれるのではないかとシルヴィアは彼の手を取るが、あいかわらず、ガルシアは曖昧に微笑むばかりだ。

 やがて楽隊の曲が終わり、次の曲が始まろうとする、そのわずかな隙に割り込むように、アシエルが踊り出した。

 精妙な足裁きの伴奏は、鈴の音。

 やがて腰の曲刀が引き抜かれた。

 両手に掲げられた曲刀は、さながら雄山羊の角のよう。

 ひと蹴りごとにアシエルの舞踏は、高みを目指し、ひとつひとつの動きが広がりを生んだ。

 高く蹴上げる足は、さながら雄山羊の前足のよう。

 ときに伸びやかに、ときに力強い、しなやかな背は雄山羊の半身のよう。

『勇敢な雄山羊のウレスコサパタ

 ピレネーの峰を疾風の如く

 駆ける姿は天翔る星の如く』

 ろう、とした声でガルシアが謡う。

 懐かしいようでいて、どこか耳慣れない、独特の節回し。

 伊太利亜語でもない、西班牙スペイン語でもない、仏蘭西フランス語でもない、あるいは回教徒イスラムの言葉でもない……異国の言葉を織り交ぜながら。

 手拍子とともに鈴の音が響き渡る。

『美しい雄山羊のウレスコサパタ

 その毛並みは峰を飾る初雪の如く

 その足には金の靴を履く』

 呆然とふたりの姿を見ていた楽隊たちが、息を吹き返したように楽器を奏で始めた。

 聞いたことのない旋律であるはずなのに、即興でガルシアの謡、アシエルの舞踏に合わせてみせるところは、さすがだ。

『恐れを知らぬ雄山羊のウレスコサパタ

 天に輝く陽を目指し征く

 火の輝きに魅せられたかの如く』

 広場カンポに集う人々は、アシエルの舞踏に、ガルシアの謡に幻視した。

 美事な角を持ち、純白の毛並みが月明かりに輝き、陽の光に煌めく、金の蹄で山を疾駆する猛々しくも神々しい、一頭の雄山羊を。

 そしてその雄山羊が、いましも天を目指して駆け上がるのを。

 シルヴィアは手拍子でガルシアに合わせた。

 やがて広場カンポのひとびとはみな、ガルシアに、シルヴィアに、楽隊に合わせて手拍子をし、アシエルに合わせて思い思いにステップを踏んだ。

『天を駆ける雄山羊のウレスコサパタ

 ピレネーのいただきを踊るが如く

 月星をまたぎ越す金の蹄』

 アシエルが跳躍し、そばにいた少年の頭を跨ぎ越した。

 その驚異的な跳躍に、人々は賞賛の手拍子を贈る。

 アシエルは助走を付けてさらに跳ぶ。

 そして彼の踊りに見蕩れていた娘の頭のうえを、見事に跳び越えてみせた。

 人々の賞賛は歓喜に変わる。

 被っていた毛氈の帽子を跳び越えた娘の頭に乗せて、アシエルは曲刀を腰に戻し、露肆ろみせの水売りから踏み台を借り受け、ガルシアの前に置いた。

 無言のまま、身振りで喝采を要求する。

 ひとびとの手拍子がひときわおおきくなり、楽隊の音楽が緊迫を演出する音楽を奏で始めた。

 ガルシアの背後は建物の壁だ。

 ガルシアの頭を首尾良く跳び越えてみせても、背後の壁をどう切り抜けるのか。

 アシエルは軽快に助走を付け、踏み台に勢いよく飛び込むように手をついて、腕のちからで逆さ上がりに跳び上がる。

 空中で身体を捻り、ガルシアの頭を軽々と跳び越えて、壁を足で蹴る。

 そのままこんどは宙でひとつ、円を描くように宙返りして元の場所に着地した。

 手には毛氈の帽子。

 ガルシアの頭から失敬したものだった。

 高々と掲げてひとだかりに投げ込んだ。

 身の軽い青年が首尾良くつかまえて、小躍りしながら自分の頭に被ってみせた。

 快哉

『勇敢な雄山羊のウレスコサパタ

 ピレネーの峰を疾風の如く

 駆ける姿は天翔る星の如く』

 だれかが歌いはじめた。

 すぐさま、ガルシアが唱和する。

『美しい雄山羊のウレスコサパタ

 その毛並みは峰を飾る初雪の如く

 その足には金の靴を履く』

 広場カンポの皆が、踊り、歌い、手拍子した。

 その歌がなんの歌かなど、だれも気にしない。

『恐れを知らぬ雄山羊のウレスコサパタ

 天に輝く陽を目指し征く

 火の輝きに魅せられたかの如く』

 シルヴィアもまた、ガルシアとともに謡う。

 青年たちは、アシエルの鍛え抜かれた足裁きを見よう見まねで踊ってみるが、どこかたどたどしく珍妙で、周囲の笑いを生んだ。

 それがまた祭りに花を添える。

 意中の青年を応援する娘たちの手拍子。

 ここまでおいでとばかりに、力強く、優雅に踊ってみせるアシエル。

『天を駆ける雄山羊のウレスコサパタ

 ピレネーのいただきを踊るが如く

 月星つきほしを跨ぎ越す金の蹄』

 だれもかれもが歌い騒ぎ、浮かれ踊っていた。

 広場カンポはいま、不思議な共感に充ちた、ひとつの坩堝だった。

 コーンと、尾を引く響きが夜空を渡る。

 教会の鐘。

 幽かにしらみはじめた水平線。

 夜明けの鐘かとも思うが、いつも聞く鐘の音とは違っていた。

 手拍子を止め、広場のだれかが、「弔鐘のようだ」と囁く。

 すると、踊りを止めて、べつのだれかが「花の都フィレンツェでこれとおなじものを聞いたことがある」と、呟いた。

「火刑だ」

 南の空を差して、それまで歌うのに夢中だっただれかが声を上げた。

「悪魔憑きを火炙りにする鐘の音だ」と。

 見れば、ジュデッカ島の方角に、一筋、煙が立ちのぼっていた。

 もう一度、今度は数回続けて鐘が鳴った。

「魔女を火炙りにしたのだ」と、ひとびとは口々に囁き交わす。

「威尼斯ではもう、四十年もなかったことだ」と年老いた男が呆然と呟いた。

 薄明の空。

 夜明けとともに、仮面祭は終わる。

 紺青の夜空に輝く黄金の矢。

 さきほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、水を打った静けさのなか、ひとびとは帰路についた。

 数名の者が名残惜しげに、ついいましがた、美事な歌と踊りを披露してくれたふたりの青年たちの姿を探したが、見つからなかった。

 いつのまにか……ふたりの青年と、その横にいた娘は姿を消していた。

 だれの目に留まることもなく。

 ただ、彼らが祭りの夜の幻でなかった証しとして……毛氈の帽子がふたつ、広場に残るばかりだった。

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