第27話 扉

 次の夜

 日が沈んですぐのことだ。

「アシエルが熱那ジェノヴァの艦隊を見つけましたよ」

 自室の暖炉のそばの椅子に腰掛けて、編み上がった透かし編みの出来に満足しつつ、染み抜きをしても汚れが落ちなかったアシエルの衣装のうち、どれを仕立て直そうかと思い巡らせていたシルヴィアは、ガルシアに声をかけられて我に返った。

 右手を腰に、どことなく得意げな表情でシルヴィアの顔を覗き込んでいる。

 ……顔が近いわよ。

 鍵はかけていないけれども、ノックもなしに部屋に入って来るのは……どうかと思うわ。

 ひたいに、うなじにかかる艶やかな黒髪、髪の色と対をなすしろい肌。

 彫りの深い顔立ち、典雅てんがな仕草に宿る色気は、本人が自覚しているかどうかに拘わらず匂い立つよう。

 そして、胸騒がす紺青の瞳。

 目が合うと同時に赤くなってしまう顔を誤魔化すためにうつむいて、もう一歩踏み込めばシルヴィアのひたいに触れそうなほど近い顔を、控えめに右手を挙げて、無言でもうすこし離れて欲しいと訴えてみる。

 もちろん、無駄な意思表示ではあったが。

 挙げた右手を握られて、指先にくちづけられてしまう。

「いえ、あの……そうじゃなくて」

 すぐそばにいるガルシアからすこしでも離れようと、椅子の脇に置いていた透かし編みの道具を卓子テーブルに移して、シルヴィアは身をよじって椅子の片側に身体を寄せた。

 シルヴィアにとって残念なことに……逆効果だったが。

 彼女の意図を故意なのか、そうでないのか誤解して、椅子の、わずかに開いた場所にガルシアは腰掛けて、シルヴィアの肩を抱く。

 とどめは、頬への接吻だった。

 シルヴィアの、ほんのりと朱に染まった頬が、ひといきに熟した木苺のようになる。

「え、と……そういえば、アシエルさんが、なんて?」

 抵抗するだけ無駄だと諦めて、シルヴィアは話題を変えた。

 この状況で、どうして彼女は違う男の話をするのだろう……とでも言いたげな、不本意極まりないといったまなざしで、ガルシアは娘の手をもてあそんでいたが、自分がその話題を最初に持ち出したことをようやく思い出したのだろう、気を取り直したように、眼を細めて微笑んだ。

「ああ、アシエルが熱那の別働隊を見つけたので、今夜はわたしも出かけようかと」

 まるで歩いて四半刻もかからない隣の教区パロキアにでも出かけるかのような物言いだが、出かけるのは……たしかアドリア海のはし、コルフ島のあたりではないのだろうか。

「たいして時間はかからない。夜半には戻るよ」

 君のそばに、と、言外げんがいに続けて、シルヴィアの手の甲にくちづける。

 なぜ、毎晩のように自身の平常心や忍耐力を試されなければならないのか。

 ……どこまで受け流し続ければ解放してもらえるのかしら、と、恥ずかしさを堪えつつ、「夜半に戻るって……どこに行くの?」と、シルヴィアは訊ねた。

 威尼斯ヴェネツィアからコルフ島の周辺まで……鳥の翼で風に乗れば、もしかすると一昼夜飛び続ければ片道くらいは可能かも知れなかったが、陸路で行っても海路で行っても、一日二日で行ける距離ではない。

 まして、どんな方法を使っても一晩で行って、戻ってくるのは不可能だ。

「熱那艦隊はペロポネソス半島を脱して……ザンテ島を過ぎたあたり。風は順風。船員の練度も士気も高いとなれば、コルフ島襲撃はどんなに遅くても明日の夕刻。だから、わたしは島の対岸のどこか……艦隊が夜のあいだ、身を潜められそうな入り江で待ち構えて、今夜中にかたをつけてしまうつもりだ」

 まるで見てきたようにガルシアは熱那の艦隊の位置を語っている。

 けれど、実際に見てきたはずのアシエルの姿が、この場に見えないのはどうしてなのか。

「ああ、アシエルはまだ『向こう』にいる。わたしと彼は血が繋がっているのでね、感覚……見るものや聴くものを共有できるのだよ」

 あたりを伺うように見回しているシルヴィアの意図を察して、ガルシアが付け加えた。

 血が繋がってるって、いくら従兄弟同士でもそんなことできるの?

 わたし、自分の兄や姉とだってそんなことできないけど。

 と、素朴な疑問を口にしようとして、さすがにそれは我ながら間抜けに過ぎると、シルヴィアは言葉を呑んだ。

 血が繋がってるとは……もちろん、人間としての繋がりではない。

 ガルシアがアシエルをひとでないものに変えた、その繋がり。

 いままで、そんなことができるのをおくびにも出さなかったのは、教える必要がなかった、というのもあるだろうが……もしかしたら、知られたくなかったのかもしれない。

 シルヴィアはそう思う。

 自分たちが……いな、自分が、あまりにもひとと掛け離れた存在である、その片鱗を。

「ガルシアさん……」

 俯いていた顔をあげてガルシアを見遣れば、シルヴィアが、そうであろうと想像していたとおり、ガルシアはすこし寂しげな微笑を浮かべていた。

 ばかね。

 もどかしく、哀しく、切ない……自分の胸に灯るぬくもりに誘われるように、シルヴィアはガルシアの頭を抱いた。

 寂しがり屋のくせに、へんなところで意地を張るんだから。

「いまから行くところは、ガルシアさんしか行けない? もし良ければ、わたしも連れて行って欲しいんだけど」

 体温のない手のひらがシルヴィアの頬を包み、氷の如きくちびるがシルヴィアのくちびるに重なる。

「ひとつだけ、約束してくれるなら」

 言葉もなく、互いの胸に宿る想いを確かめるが如きくちづけのあと、ガルシアはそう言い……しかし、首を横に振った。

「いや……約束など……意味もないことだ」

 ガルシアは立ち上がり、シルヴィアに手を差し延べる。

「……行こう。君が望むなら、何処へでも」

 シルヴィアはその手を取った。

 迷うことなど、あろうはずもなく。

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