第26話 戦争

「ま、そういうわけで……どうやら今年の仮面祭カルネヴァーレは中止になりそうじゃの」

 ヘルメス少年のなにげないひとことに、ガルシアが眉をひそめた。

 アシエルもまた失望の溜息を吐き、シルヴィアが当惑の表情を浮かべる。

 ヘルメス少年としては、熱那ジェノヴァの艦隊が十七年ぶりにアドリア海封鎖を狙っている……そういう話のついでに出しただけの話題に、ここまで反応があるとは思わなかったのだろう、「なんじゃい?」と、への字口で三人のようすを胡乱うろんげに眺め遣る。

 ガルシアの屋敷の客室……最近、荷物が片付いて使い物になるようになった部屋で、円卓を囲み、召使いの入れた蜂蜜入りの醸造酒エールを飲みながら、ヘルメス少年は最近の世情についてあれこれ語っていたのだが。

 ちなみに飲み物はヘルメス少年とシルヴィアの前にしか置かれていない。

 シルヴィアは、仕方がないわよね、と、弱り顔で少年の顔を見ながら笑って見せたが、ガルシアとアシエルは、気むずかしげになにごとか考え込んでいるようだった。

 事の起こりは威尼斯のアドリア海における海運網が、匈牙利ハンガリア王の策略によって分断されたことによる。

 威尼斯が補給の拠点としていたいくつかの友好都市を、匈牙利が軍事侵攻して征服してしまったのだ。

 自前の艦隊を持たない内陸国の匈牙利は、もちろん、威尼斯艦隊を撃破することはできなかったから、いまのところ制海権は威尼斯にあったが、その制海権を確保するために重要な物資と人材の補給基地に空白地帯が生まれてしまった。

 この好機を見逃す熱那ではない。

 十七年ぶりにアドリア海とその外海の制海権を奪うために、大規模な熱那の艦隊が編成され、威尼斯はそれを迎え撃つために、地中海各方面に派遣していた艦隊のうち、呼び戻せるものには緊急の招集をかけ、国営造船所アルセナーレは戦時体制に入った。

 そして、今週、リアルト橋の政庁掲示板には、海軍船員を徴集する告示がなされたのだという。

 いまのところは威尼斯国籍を所有する、二十歳以上、三十歳未満の者に限定されているが、いかんせん、威尼斯は国土もちいさければ人口もすくない国である。

 また、ここで手痛い敗北を喫すれば、現状では事態を静観している土耳古トルコ埃及エジプトが、これを好機と見なして威尼斯の海上の覇権を切り崩そうと戦争を仕掛けてくる可能性は高い。

 威尼斯の海軍の庇護を当てにして、関税を優遇しているビザンツ帝国が、手のひらを返して威尼斯に厳しい交易条件を課してくる可能性もある。

 絶対に弱みをみせられない威尼斯は、今後の戦局の展開次第では、船に乗れる男子すべてを総動員する挙国一致体制に移行するだろう。

 仮面祭どころの話ではなくなっているのだ。

「……礎石ペテロの後継者はこの件についてどういう立場なんです?」

 不機嫌そうにアシエルが問う。

「いちおう、熱那には正式に抗議を表明した。十字軍で団結せねばならんこの時期に、基督教徒同士で争ってはならん、ということじゃな。とくにここしばらく、匈牙利の動向を牽制する意味もあって、威尼斯が十字軍参加に前向きな言質を法王に与えておっただけに、悔しかろうの……これで威尼斯艦隊が痛手を負えば、現法王の在任中の十字軍派遣はまず無理じゃろうからの」

 なにが気に入らんかは知らんが、儂のせいではないぞと、アシエルをめつけて、ヘルメス少年が答えた。

「もっとも、法王のこの手の抗議が尊重されたためしなぞ、儂は知らん」

 ここで相手を叩きのめせば制海権と、それに伴う莫大な富が約束されるのだ。

 軍事拠点としても陸運拠点としても中途半端な聖地エルサレムの奪還を切望する法王に義理立てて、熱那が振り上げたこぶしを降ろすことなど考えられない。

 シルヴィアは、男たちのあいだで交わされる会話を耳にし、ことの成り行きを聞いていると、仮面祭の中止に加えてべつの心配も湧いてきたようだった。

 だんだんと表情が曇ってくる。

 世界に冠たる威尼斯艦隊が負けることなどないはずなのだが……今回の戦争の成り行き次第では、威尼斯の国自体が危なくなることもあるのだろうか?

「では、熱那の艦隊が『不運』に見舞われたとしても、法王は動かない?」

 ふと、なにを思いついたか優雅な笑みを浮かべてガルシアが問うた。

「あやつらが神意に口を挟むことなど……」

 ヘルメス少年はそこまで言って、口をつぐんだ。

 ……『天の配剤』を重んじ、人知を越えた不運を『試練』として受けとめる教会であったが、例外がひとつだけある。

 その『不運』が、神意にそぐわぬ者によって引き起こされた場合がそうだ。

 たとえば、ひとの血を啜って永生をながらえる……いま、少年が目のまえにしている存在のような。

 あるいは、神の被造物であるべき生命をみずからの手で生み出そうとする、少年のような。

 いまでこそ、彼らは人間との関わりを最小限にして、『危険な存在ではあるが、処分を急がねばならないほどには信仰を脅かさない者たち』として、教会の視界からはずれるように振る舞っている。

 戦えば多大な犠牲が出るのは自明のことなのだ。

 教会に所属する信仰の戦士も無限にいるわけではない。

 数多くの悪魔祓祭師レゾルチスタほふってきた剣士アシエル・サヴァラを従え、吸血鬼ヴァンピーロの始祖のひとりであるガルシア・アリスタや、叡智の源泉たる緑柱石の石版タルガ・ディ・ズメラルディの所有者である錬金術師アルキミスタヘルメス・トリスメギストスと拮抗きっこうできる異能者となると、さらに限られる。

 教会としても、寝た子を起こすような真似は避けたいところだろう。

 だが、ひとたび彼らがその本性を露わにし、ひとの世に混乱をもたらすようなことがあれば……教会は総力を挙げて彼らを排除しようとすることは、間違いない。

 失われた大陸の王たる少年は、蒼き峰の王がなにを目論んでいるのかを探るように、深みのある輝きを湛えた緑柱石ズメラルディの瞳でしばしガルシアを見据えていたが、やがて目を閉じ、ふと息を吐いた。

「……熱那は第一次十字軍に献身的に助力した盟友じゃ。法王は半世紀前の恩義といえどこの事実を忘れてはおらん。しかし、つぎに十字軍を派遣するとなれば、アドリア海の制海権を握っておる威尼斯の参加は不可欠じゃ。また、熱那がちからを付けすぎて、増長すれば法王にとって益はない」

「ならば、熱那が再起不能とならないような、ほどほどの『不運』によって、威尼斯と熱那の衝突が避けられれば、教会は介入してくることはない……ということですね」

 ヘルメス少年のあとをうけて、ガルシアが結論を出す。

「まず……間違いなかろうな。しかし、なぜ威尼斯の肩を持とうとする? 一国の浮沈なぞ、ぬしらの拘わることではなかろうに。二十五年、居心地の良い場所を提供してくれたことに対する、ぬしらなりの恩返しというやつかの」

 少年のていした当然の疑問に、ガルシアは「まさか」と穏やかに微笑んで、悪戯っぽい輝きを湛えた紺青の瞳でちらりとシルヴィアを眺め遣る。

「今度の仮面祭……シルヴィア嬢にみどころを案内して貰う約束なのですよ、ヘルメス王。なので、中止になるのは少々困る……それだけのことです」

 貴人にふさわしい、典雅てんがで洗練された微笑。

 その微笑とともに告げられた真相に、シルヴィアは赤面する。

「世にも不思議な『幸運』で戦争が回避されたら、神のご加護だ……とかなんとか理由を付けて、仮面祭は、いやが応にも盛り上がりますよ。威尼斯政庁はお金持ちですから、伊太利亜イタリア中の劇団や見世物を呼び集めて、街中、飾り立てて酒や食事も大盤振る舞いじゃないかな。それに伊太利亜の都市は特に光の使い方が上手いですからね、夜だって街並みが映えるように篝火を灯して、艦船が光を繋げて海を美しく飾って……うん、きっと悪くない。となれば、僕としても微力を尽くさざるを得ませんよね」

 想像上の風景を現実のものとすべく決意を固めるアシエルと、楽しげなガルシアを交互に眺め遣り……叡智の守護者は開いた口が塞がらなかった。

 熱那の艦隊を『ほどほどに撃破する』……その目的のために、早速、地中海の北岸図が用意された。

 地図はアシエルがべつの部屋から持ってきたものだ。

 山積みされていた羊皮紙の束のなかで、処分せずに保管していたものの一枚である。

「進出する国の国情を知るための地図の収集は、王のたしなみのひとつですよ」

 ガルシアを代弁して、アシエルがそう澄まし顔でうそぶくだけあって、地図は精緻を極めている。

 おそらくは威尼斯に居を構える際に手に入れたのだろう、多少、記載された情報は古くはあったが、各国の戦略拠点の場所や兵の数なども正確に記載されていた。

 金を出して買える代物ではなく、いわゆる、機密文書の類いである。

 威尼斯政庁の文書庫から失敬してきたものだろうか。

「熱那の目的はアドリア海の恒久的な封鎖じゃ。この一事を持って、威尼斯の海運国家としての息の根は止まる」

 ヘルメス少年が地図の中央、威尼斯の位置を示してアドリア海をなぞってみせる。

 少年のいとも簡単な物言いに、シルヴィアはいまさらながらに……自国の安定や繁栄が、薄氷のものであったことを思い知った。

 この部屋にいるほかの者たちと違い、シルヴィアは威尼斯人である。

 生まれ育った国を大切に思っているし、家族もいる。

 いくら長居を決め込んでいても、本来的には仮住まいに過ぎない彼らと違い、国が危ないと自覚すれば、怖くなってくるのは仕方がない。

 わたしにもできることはないかと思いあぐねるが、なにもなかった。

 当たり前だ。

 シルヴィアは権力も、異能も持たないただの町娘なのだから。

 息を潜めるようにして、男たちの会話に耳を澄ますことしかできない。

 緊張した面持ちのシルヴィアの気分をほぐすように、ガルシアが娘に笑みかけた。

 大丈夫、と、その微笑は言外げんがいに語りかけている。

 その表情に、シルヴィアはほっと息を吐いた。

 ……きっとガルシアさんがなんとかしてくれる……

 国と国との戦争などと言う大事においても、そんなことが素直に信じられる自分が不思議だった。

「となれば、西はレッチェ、東はコルフ島……このあたりが熱那の進出拠点になりますね」

 迷わず、アドリア海の入り口にある港湾都市と、ちいさな島を指さして、ガルシアが言った。

 ガルシアの見識に、ヘルメス少年は頷く。

 その戦略眼の的確さと判断の素早さは、みずから陣頭に立って一軍を指揮してきた者のみが持てるものだったろうか。

「特にコルフ島じゃな。レッチェは強勢のホーエンシュタウフェン領じゃから、うかつに手は出せんが、コルフ島の支配権を持っておるシチリア王のコルフ島における権威は弱い。これを機に進出すれば、そのまま実効支配が確立してしまう可能性は高いの。アドリア海の鍔際つばぎわの両岸を、ともに押さえられれば言うことはないが、とりあえずコルフ島さえ押さえておけば、熱那はホーエンシュタウフェンと結んでレッチェを拠点化する手もある」

「ならば、どこから攻めてくるか……」

 ガルシアが地図を正面に、腕を組み、目を細める。

 熱那艦隊の本隊は、現在、熱那本国を発してシチリア島に向かって南下中だと言う。

 ただ、この本隊がアドリア海周辺に到着する二、三週間後には、威尼斯艦隊の迎え撃つ準備も整っている。別働隊がどこかに潜み、威尼斯艦隊の足並みが揃いきらない今を狙って、ここ数日のあいだにコルフ島を急襲するものと思われた。

 いかに万全を期した熱那艦隊といえど、威尼斯艦隊と正面衝突すれば、補給線の距離、軍船の性能、艦隊の総数の観点から、互角以下の戦いしかできない。

 匈牙利の侵攻によって多少、補給路に空白地帯が生まれているとは言え、いまだアドリア海は『威尼斯の湾』、威尼斯は『アドリア海の女王』なのだ。

 威尼斯の虚を突いてアドリア海の出入り口をおさえ、同時に補給のための都市を確保する……この策が成らなければ熱那艦隊本隊は、負ける公算の高い決戦を避けて退却するものと予想された。

 つまり、コルフ島を狙っている別働隊を見つけ出し、戦闘不能にしてしまえば、威尼斯とて、熱那艦隊の追撃よりは補給路の修復にちからを入れねばならず、この紛争は自然消滅する。

「いいかしら?」

 男たちの話を黙って聞いていたシルヴィアが、おずおずと手を上げた。

「どうぞ」と、ガルシア。

「エーゲ海の島々には、熱那の私掠船団しりゃくせんだんがたくさん潜んでいて、積み荷を守るのに苦労するって、以前、兄が言っていたわ。エーゲ海の西側かクレタ島からなら、風向きさえ良ければコルフ島まで一週間くらいじゃないかと思うんだけど……」

 自分に集まる視線が痛い。

 熱那の私掠船団にしろ、日数にしろ、ひとが話しているのを耳に留めた話ばかりで、自分の実体験でない分、自信がない。

 ガルシアがシルヴィアからヘルメス少年に目を移した。

「嬢ちゃんの目の付け所は悪くない。私掠船団なら、快速のガレー船で構成されておる。急襲部隊としては最適じゃな。熱那艦隊本隊と同調しておるとして……現在位置は半島の西側あたりかのう」

 少年の言う半島とは、ペロポネソス半島のことである。

 エーゲ海側ほどではないにせよ、半島の西側の海岸線も入り組んでいるため、小型船か中型船で海岸線に沿って航行すれば、船団の位置を補足されにくい。

 急襲には最適な地勢である。

「アシエル」

 ガルシアが臣下の名を呼んだ。

「お任せあれ、我が王ミ・レイ

 アシエルは右手を胸に、優雅に一礼。

「明日の夜には、かならずや熱那の別働隊を見つけて参りますよ」

 アシエルはいちばん手近にあった窓を開けた。

 窓辺に腰掛け、そのままうしろに倒れ込む。

 二階ではあったが、地に落ちる物音は聞こえなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、猛禽のはばたき。

 思わず窓に駆け寄るシルヴィアが見上げた夜空、半月を横切るおおきな鷹の翼。

「『武闘と舞踏をつかさどりし天空の鷹』……この異名は伊達ではない、ということか」

 感心したように少年が頷いた。

「あれが、鷹? はじめて見たけど、綺麗な鳥ね」

 もはや姿の見えなくなった鳥影を追うように、シルヴィアはうっとりといつまでも夜空を見詰めている。

 こほん、と、ガルシアが咳払いをひとつした。

 シルヴィアが振り向くと、なにが不満なのか渋い顔をしている。

「……わたしにも、できる」

 不機嫌そうでありながら、どことなく気恥ずかしげにも聞こえる言葉に、シルヴィアはなんのことかと目をしばたたかせた。

「鷹ではなく、山羊なのだが」

 なぜか照れたように呟かれたガルシアの言葉に、シルヴィアは破顔はがん

「素敵だわ、ガルシアさん。わたし、山羊は好きなのよ。可愛いし、温和おとなしいし、おなかの毛並みがふかふかですべすべしてて……いつかガルシアさんが山羊になったら、毛並みのお手入れをさせて欲しいわ」

 きらめくように笑うシルヴィアに、「約束しよう」と言いつつも肩を落とすガルシア。

 可愛い、と言われたのが堪えたのだろうか。

 窓から差す月明かりに照らされたふたり。

 床に落ちる影は、娘のもののみ。

 地図の載った円卓の脇にある椅子に座り込み、杯に残った蜂蜜入りの醸造酒をちびちびと舐めながら、ヘルメス少年が「……馬鹿らしいのう……」と、溜息を吐いた。

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