第23話 居心地の良い『いま』

 結局のところ、シルヴィアの風邪が完全に治ったのは、基督聖誕祭ナターレが終わり、年が明けてからだった。

 もっとも、そこまで長引いた原因は、咳が治まり、熱が出なくなっても「まだまだ」と、言い募り、シルヴィアになかなか床上げを許さなかった青年ふたりにあったのだが。

 おかげでシルヴィアは年末年始を、「教会の鐘の音で頭痛がする」と、この世の終わりでも来るかのように憂鬱げに溜息を吐く吸血鬼たちと、仲良く屋敷に引き籠もって過ごすことになった。

 食事の準備も身の回りの雑用も、みんな使用人がやってくれるせいで、これまでの人生でもっとも手持ち無沙汰な毎日。

 やることと言えば、日中は暖炉のそばで編み物をしたり、肩の凝らない本を読んだりすることくらい。

 ときおり夕暮れ時にヘルメス少年が屋敷を訪れることもあり、そういうときにはひとしきり世間話に華を咲かせる。

 ヘルメス少年はと言えば、日が暮れて起き出してきたアシエルを相手に「法王庁がどう」だとか「熱那ジェノヴァの艦隊がなに」だとか……あるいは威尼斯ヴェネツィアの周辺の国々の近況など、なにごとか話し込み、そのあと、ガルシアと話を付けて安い値で屋敷のなかの不要な品を引き取って帰る。

 おかげで山のように積まれていた羊皮紙の紙束や、なにが描いてあるのか分からなくなってしまっていた絵画、鍵の壊れた長持からはみ出していた古い衣類や家財道具などが整理され、屋敷はずいぶんとさっぱりした。

 シルヴィアにとって当てがはずれたのは、昼間の話し相手の最有力候補であるはずのふたりの使用人が、暇つぶしの相手としては最低の部類だったことだろう。

 使用人たちは、青年の名をテウセル、娘の名をイスメネと言った。

 ふたりとも彫りの深い顔立ちで、肌の色が濃い。

 髪の色は実り豊かな小麦の色、瞳の色は海の碧。

 一見、埃及エジプト人のように見えるが、彼らもまた、ヘルメス少年とおなじでどことなく違う。

 ヘルメス少年と同郷なのかも知れない、と、シルヴィアは思う。

 もっとも、彼女は少年の祖国がどこなのか、知らなかったが。

 少年の祖父が生きていた頃に、「儂の国は、ずっと昔に滅んでしまったんじゃよ」と、寂しそうに漏らした言葉を聴いたことがあったが……それがどういう国で、どこにあったのか、シルヴィアには分からなかった。

 ふたりがヘルメス少年とまったく違うのは、淡々と必要な仕事をこなすだけで、シルヴィアが仕事には関係のないことを話しかけても、にこりともしないところだろう。

 そして返ってくる返事は、申し合わせたように「そのようなご用件については対応いたしかねます」の一点張り。

「今日はいいお天気ね」と話しかけても、「庭が殺風景だから鉢花でも置こうかと思うんだけど、どういうのがいいかしら?」と尋ねても、「たまにはわたしがあなたたちにごはんくらい作ってあげるわ。なにが食べたい?」と問いかけても、結果はことごとくおなじなのだ。

 いったいふたりとも、どんな育てられ方をしたのかと、呆然とするが、一日働きづめでも文句を言わず、どんな仕事もてきぱきとそつなくこなし、屋敷の住人の素性について詮索がましいことは一切しない彼らは、使用人の鑑だという点については、間違いない。

 懸案の壁紙の張り替えと玄関広間や廊下の床磨きも、使用人たちが黙々と作業した結果……シルヴィアの床上げのころには終わってしまった。

 壁紙以外は自分でなんとかする気だったシルヴィアにとっては予想外の展開だが、どのような形であれ、当初の目標は達成されたわけで、不満はない。

 しかし、さすがのシルヴィアも、彼らと「楽しくおしゃべりをする」のは、そうそうに諦めざるを得なかった。

 夜になれば身の回りはもうすこし賑やかになる。

 夜の最初の演し物は、日が暮れるやいなや、いそいそとシルヴィアの部屋にやってくるアシエルの、嘘なのかほんとうなのかよく分からない昔語り。

 人目を忍んで隠れ住んでいた山小屋に、ある夜、珍しい蝶を探して世界を旅する老人が雨宿りにやってきて、しばらく老人の道楽につきあって蝶を探した話や、素性を隠して紛れ込んでいたある国の宮廷で、そのつもりもないのにその国の第三王女に恋をされて、断るのに四苦八苦した話。

 シルヴィアを怯えさせてはいけないと思っているのか、血なまぐさい話は一切しない。

 彼らの素性からして、そういう話がないのはあまりにも不自然なのだが。

 それから、アシエルが子どものころ、朝となく夕となく舞踏の練習に明け暮れていた話……。

「僕の国ではね、一年の終わり、来年もみなが安心して山で働けることを祈願して歳送りの祭が行われるんです。その祭りで、国の護りである雄山羊に扮して踊るのは、代々、国王の役割なんですよ」

 と、さも重大な秘密を語るように声をひそめるアシエル。

「でも、人間、向き不向きがありますよね? それで、文武に長けて見目麗しく、性格だって実直で謹厳、臣民に慕われているにもかかわらず、なぜか踊りだけは絶望的に下手な王子が太子になったりするわけです。そうしたら、その日からサヴァラ家の跡継ぎにとっては煉獄の日々が始まるんですよ……明けても暮れても踊りの型を憶えて、より正確な足裁きを身体に叩き込んで、より高く、おおきく舞うために身体を鍛えて……こればっかり。祭りで、王の代わりに神に捧げる舞踏を披露するためにね。なにせ、サヴァラ家は『王にできないことをする』家系なのでね」

 まったく、僕の青春なんか侘びしいものでしたよ、と切なげな溜息を吐いてみせるアシエルの告白に、シルヴィアはある重大な可能性に思い至った。

「もしかして……ガルシアさんって、ダンスはあまりお上手じゃなかったり?」

 アシエルに釣られて声をひそめて尋ねるシルヴィアに、アシエルはわざとらしく目を見開く。

「そんなことは申し上げませんよ、シルヴィアさん。なにしろ、僕は我が王ミ・レイの忠実な家臣ですからね。でも……もし、おふたりで舞踏会に出られる機会があったら、是非、足許には注意されることをお勧めしますね。……一曲につき三回は確実に踏まれますよ」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、アシエルは、それから、だれよりも高く、だれよりも遠くまで駆けることのできた金の蹄を持つ雄山羊の物語を語ってみせた。

 それが歳送りの祭で舞踏とともに謡われる歌だと言いながら。

 耳慣れない、独特の節回しを口ずさみながら。

 伊太利亜イタリア語でもない、西班牙スペイン語でもない、仏蘭西フランス語でもない、あるいは回教徒イスラムの言葉でもない……シルヴィアの聞いたこともない国の言葉をときどき織り交ぜながら。

 勇敢な一頭の雄山羊が、蒼き峰を駆け、天に昇り、そして、陽のかけらを囓りとって地上に戻ってくる……そんな話を。

 夜半まで頑張って起きていると、夜の演し物の二幕目となる。

 いつも月が高くなってから起き出してくるガルシアと、アシエルが、最近、北方の国から持ち込まれて伊太利亜でも流行りだした『盤遊戯スカッチ』に興じるようすを眺めることができるのだ。

 シルヴィアも盤遊戯の駒……王や女王、騎士や司教、歩兵の動かし方や勝ち負けのきまりを教えて貰い、見よう見まねで指せるようにはなったが、勝ち負けを競う腕前にはほど遠い。

 シルヴィアより三つも四つも駒をすくなくして、あからさまに手を抜いているのが分かるガルシアやアシエルを相手に、必死になっている……その程度だ。

 だから、シルヴィアとしては自分で指すよりは、真剣勝負で勝ち負けを競っているふたりの駒の動きを見ている方が楽しめた。

 また、「身体がなまる」と、ふたりは本物の剣を手に、剣術の型をさらってみせることもあった。

 シルヴィアの奮闘と使用人たちのおかげでずいぶん片付いて本来の『広間』らしくなった屋敷の玄関広間で繰り広げられる『剣術』は、素晴らしい見物みものだ。

 ふたりの剣技でとりわけこころ奪われるのはアシエルの技で、波斯ペルシャ剣に似た曲刀を両手に構え、舞踏で鍛えた眩惑の足裁きで地を駆け、軽やかに天を舞い、ガルシアの背後に回り込んで刃を撃ち込んだ。

 ガルシアは、屈強の騎士でも両手で構える大剣を片手に持ち、動きと手数で翻弄するアシエルの刃を確実に受け流しつつ、反撃の剣を振るう。

 もちろん、真剣を使ってはいても、それは相手の息の根を止めようとするような真剣勝負ではない。

 鍛錬のためと言うよりは、どちらかというと退屈しているシルヴィアの目を楽しませるためにやっているようなものではあったが……ふたりの実戦に鍛えられて無駄のない動きと迫力は、お祭りの出し物としての『剣舞』しか見たことのないシルヴィアの息を呑ませるにはじゅうぶんだった。

 風の凪いだ月のない夜、海に降る雪のように、舞い落ちては消えてゆく穏やかな時間。

 闇夜のとばりが彼らのまえから、過去の哀しみも、未来の不安をも、優しく覆い隠していた。

 過去を呪う言葉はなく、未来を縛(しば)る約束はなかった。

 あるのはただ、彼らの関係とおなじように曖昧であるが故に居心地の良い……いつ終わるとも知れぬ現在いまだけ。

 なにもかもが優しいばかりの現在いま、シルヴィアはすこしずつ、胸に満ちてゆくなにかを感じていた。

 それがなにか、シルヴィアには分からなかったが……それは、シルヴィアのこころに溶けて彼女の一部になってゆくように感じられた。

 海面に触れるやいなや、すぐに消えてはしまっても、溶けて海の一部となっている……海に降る雪のように。

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