第22話 蒼き峰の王の追憶
「すべてのことの起こりは、『改宗』だった」
ガルシアは、そう口火を切った。
「四百年前、わたしの国は
シルヴィアは、ガルシアの言葉をひとことも聞き逃すまいとしているように、真剣な面持ちで耳を傾けている。
ガルシアは娘の肌の感触を確かめていたいのか、優しく手の甲を撫でながら、淡々と言葉を紡いでいた。
「だが、現実はそうはいかなかった。我が国には耕地が足りず、食糧を手に入れるためには麓の国に山から掘り出した鉱石を売るよりほかになかった。そして、回教徒たちは基督教徒に改宗を強要はしなかったが、高い
シルヴィアは息を呑んだ。
教会が声高に言う……彼らが悪魔の手先だ、という印象はない。
変わった服装をして、耳慣れない言葉を使い、宗教上の理由で食べてはいけないものややってはいけないことがある……
けれど、改宗となると……さすがにことは重大だ、という気がする。
棄教する……特段、信心深いと自分でも思っていないシルヴィアでさえ、その『罪深さ』には怖じ気づいてしまう。
よくよく考えれば棄教する、あるいは改宗する、という以前にすでにガルシアはひとですらないわけで、いまとなってはそのことに対して、あまり違和感や恐怖感を感じていないシルヴィアは……問題視する優先順位を間違っているのだが。
なにがどう罪深いのか……説明しろといっても、シルヴィアにはできなかったろう。
それは、理屈を越えた恐怖感だった。
生まれつき、信仰について選択肢を持たず、そのことに疑問すら感じていない者にはありがちな。
「我が祖である当時の王の、その行いは……我らとおなじ民族でもある隣国のナバラ王には、止められたそうだよ」
淡々とガルシアは続ける。
「いま思えば、基督教を国教として堅持し、回教徒国家に抗戦し続けたナバラ王は賢明だった。その証拠にナバラ王国はいまもピレネーの強国のひとつとして存在し、わたしの国は滅んでしまっている。だが、民の生活と信仰を護るためには、おそらく、当時『改宗』は最善の選択だった。わたしの国は、ナバラ王国の三分の一以下の国土しかなく、耕地は五分の一にも満たず……贅沢品を必要としてくれる裕福な国と交易をしないことには生きるすべがなかったから。だから我が
ガルシアの国が「交易しないことには生きるすべがなかった」ことは、シルヴィアにも理解できた。
威尼斯も事情は似たようなものだからだ。
もっとも、威尼斯人はそのために信仰を捨てる必要はなかったが。
『罪深い』と思う感情が、完全に拭い去られることはなかったとしても、理屈で理解できることが、その嫌悪にも似た感情を和らげてくれる。
「だから、わたしの身体には、回教徒の女性の血も流れている。祖父の
ガルシアの昔語りに、シルヴィアは思い出した。
あの北の小部屋で見た肖像画。
数代続いた回教徒風の衣装を身に纏った女性は……『回教徒風』ではなく、まさに回教徒だったのだと。
「祖父の代に、わたしの国は基督教徒に『
ガルシアは不意に口を
祈るようにシルヴィアの指先にくちづける。
指先に触れる冷たいくちびるの、その幽かな
たゆたう曖昧な感情の色。
だれかに語りたい、とも思い、けれど言葉が胸につかえる……そんな気配。
「父はものごころつかぬころに改宗し、基督教徒の妻を娶った。わたしもアシエルも、生まれたときから基督教徒だった。聖書は暗記させられたよ。聖書も知らぬ背教者の王だと
ガルシアは瞼を開いた。
紺青の瞳の奥に
「レコンキスタの戦線はピレネーを遠く離れ、余裕の出てきた征服者たちは我々に牙を剥いた。名目は……『回教徒を滅ぼす』ために。むろん、本音は違う。彼らにとって我が国の生み出す宝石と明礬、生活実需品としての岩塩は魅力的で……我々は、侵略される格好の口実を作ってしまっていた」
その紅の
彼女の背後……遠い場所を、遙かな過去を、見詰めているようだった。
「地の利は我らにあった。それで敵は、簡単には王都を落とせなかった。だが、わたしもまた、物量と兵の数に勝る彼らに勝てなかった。そして敵の陽動にのせられ、王都を空けた我らが、罠に気づいて引き返してきたときに見たものは……燃える街だった」
ガルシアのその言葉を聴いたとき、シルヴィアが思い出したのは、北の小部屋に置かれた、あのおおきな絵画だった。
屋根の部分が黒く変色した街。
あの変色した部分のもとの色が赤ならば……あの絵はまさしく燃える街を描いたものだ。
そして、赤は変色しやすい顔料……。
山麓の街、回教徒の寺院の丸屋根、騎士たちの掲げていた旗には「勝利」の文字。
あの絵は……ガルシアさんの国を滅ぼしたひとたちが、描かせたものに違いない。
きっと、『信仰の勝利』とか『基督の勝利』とかいった題名を付けて。
「王都に残っていたのは、女と子どもと年寄りばかりだった。男のいなくなった王都を守るために武器を取ったのは女たちだ。彼女らは男に勝るとも劣らず勇敢だったよ……鉱山の細い坑道を掘り進めるのには小柄な者が有利で、人手のすくないわたしの国では、女は男とおなじように……ときには男よりもずっと危険な場所で働いていたからね。年寄りと
泣いているのね、と、シルヴィアは思う。
過去を語るガルシアの視線は、遠くを見ているように柔らかだった。
口調は淡々と穏やかで、優しげだ。
けれど、ガルシアさんは、泣いてる。
きっと……二百年以上前の『その日』からずっと。
「護るべき者を失った男たちは、脆かった。これまで、粘り強く敵を翻弄してきたわたしの軍は、まるで悪霊に憑かれたかのように死に急ぎ……たった一度の敗戦でわたしは率いるべき軍勢をすべて失った。そして、敵の執拗な追討の手から逃れて生き残ったのは……わたしとアシエルだけだった」
ガルシアは眠るように目を閉じ、口を
追憶の重みにうちひしがれたか、哀しげに眉根を寄せ、シルヴィアの手を握る指に、すこしちからを込めた。
「わたしは、なにもかもが憎かった。呪わしかった。純朴で我慢強く、わたしを信じて戦って死んでいった男たち。王国の礎を築き、支えてくれた年寄りたち。これからを担うはずだった幼子たち。毎日休む間もなく美しい宝石を山から掘り出して、けれど、みずからその石を身につけるような贅沢など一度も味わうことのなかった女たち。みな、なんの罪もない基督教徒だった。わたしの大切な民だった。そんな彼らを、富に目が眩み、『背教者』の汚名を被せて虐殺した敵を滅ぼしたかった。『異教徒』を滅ぼしたとして、敵を賞賛し
見開かれた瞳は、夕闇のあとの紺青の空。
昏く澄み切って……どこまでも冷たい。
「わたしは、そのとき、ひとであることを辞めた」
ガルシアは、手をそっと開いてシルヴィアの手を放し、昔語りの結末に言葉もないシルヴィアの頬を撫でた。
聞く前から、辿り着くさきのわかりきった物語のはずであったが……娘は声を失ったかのようだ。
沈黙のままに、シルヴィアは自分の頬を撫でるガルシアの手に、自分の手を重ねる。
彼女には『なにもかもを呪った』というガルシアが、ひとでなくなった理由が分かる気がした。
なにもかもを呪った?
それはきっと……違う。
ガルシアさんは、なにより自分を呪ったのよ。
護りたかったものを、護り抜けなかった自分を。
だから……ガルシアさんがひとでなくなったのは、自分で自分に与えた……罰なのだ。
「あとはもう、君に聞かせるような話はなにもないよ。……わたしは燃えて廃墟になった王都に、我が物顔で入植してきた征服者たちをひとり残らず追い出して、王都を奪還した。けれど……いくら愚かなわたしでも、それでどうなるわけでもないことには、すぐに気がついたな。王都を、国土を、鉱山を取り戻しても、死んでしまった民は還ってこない。貧しくはあっても平和に暮らしていた日々は戻ることなく……わたしもまた、ひとには戻れなかった。ひとの気配の絶えた荒れ野に残ったのは、もはやわたしの手に届かない過去の思い出ばかり。だからわたしは祖国を離れた。そこでわたしのなすべきことは、なにも残っていなかったからね」
シルヴィアはそろりと身を起こし、物語の終わりに、寂しげに笑ってみせるガルシアの
『あなたに神さまのお恵みがありますように』
言葉には出さない。
けれど、そう願わずにはいられない。
世界のどこかしらで、いつも戦争が起きていて、たくさんのひとが死んでいた。
威尼斯だってここしばらくは比較的平和だったが……
どちらも海洋国家であるがゆえに戦いのほとんどは海戦で、アドリア海の近辺にまで攻め込まれることはまれだったから、戦争をしている……とはいってもシルヴィアにはあまり実感の湧かないことではあったが。
シルヴィアが物心ついてからは、そこまでの規模の戦争はなかったが。
たいてい、リアルト橋の掲示板に『どこそこ近辺の海に熱那艦隊が出現、迂回路は……』といった情報が張り出されるだけだ。
どうして戦争が起こるのか……そんなことは知らないが、勝ったほうがいつも正しいわけではないことくらいはシルヴィアにだって分かる。
負けたほうは、その行いが正しかろうが間違っていようが、なにを言っても黙殺され、勝ったほうは、かりにその行いが過ちであったとしても、いろいろ理由をつけて正しいふりをしていて、まわりの国は黙ってそれを受け入れているだけだ、ということくらいは。
でも、そういう戦争をしている王さまたちは、勝ったほうも負けたほうも、きっと、自分は天国に行くのだと信じてこの世を去るのだ。
自分の行いは、すべて国のために行ったこと。
その正しさは、神さまだけはご存じだ、そう、信じて。
そういうひとたちとガルシアさんのどこが違うのか……シルヴィアには分からなかった。
彼らが天国に行けて、ガルシアが行けない理由が、分からない。
「わたしね、もし、いつか神さまにお目にかかることができたら、ガルシアさんとアシエルさんのこと、お願いしてみるわ」
「願うとは……なにを?」
娘の言葉に、ガルシアは呆れたように笑う。
「ガルシアさんは間違ったことをしたのかも知れないけど、でも、それはガルシアさんの国のひとたちが、たくさん殺されたからで……だから、神さまにね『もし、ガルシアさんの国のひとたちが天国にいるなら、ガルシアさんとアシエルさんも、そのひとたちと一緒に暮らせるようにしてあげてください』って、わたしお願いするわ」
「それはこころ強いことだけれど……あまり意味があるとは思えないな」
シルヴィアの蜂蜜色の髪に指を絡めて
「わたしひとりがなにか言ったくらいじゃ、神さまだっていちいち相手にしてくれないだろうけど……ガルシアさんの国のひとたちはみんな、ガルシアさんはいい王さまだって知ってたはずよ。ガルシアさんと戦ったひとたちは、ガルシアさんのことを悪く言ってるひともおおいだろうけど、そんなの、仕方がないでしょう? 威尼斯の
ガルシアは乾いた声で、ふ、と笑い、シルヴィアの頬に手を当てた。
まだすこし熱のある頬。
「……今日はもう、おやすみ」
ガルシアは彼女が言ったことにはなにも述べず、ただ、それだけを口にした。
それは……遠い約束。
叶うか叶わぬかを知っているのは……それこそ、神だけだろう。
だから、シルヴィアとしても、そのことに対してなにも言わず、ただ受け流したガルシアに不満はない。
ただ、わずかばかり……ガルシアのちからになりたい、そう思っている自分の気持ちを知ってもらえたら、それでじゅうぶんだ。
シルヴィアはガルシアの腕に頭を預けて、肩を抱く腕のちからに安らぎながら目を閉じた。
ガルシアの胸が
その胸に、心臓の鼓動は聞こえなかったが……シルヴィアにとっては、それはもう、恐ろしいことではなかった。
*
ひとしきりしゃべって気が済んだのか、薬の効果か、ガルシアの腕の中で穏やかな寝息を立て始めた娘のぬくもりを感じながら、ガルシアは過去に思いを馳せる。
さきの昔語りで……正確には語らなかったことに。
王都に入植してきた『再征服者』たちは、男だけではなかった。
男たちの家族……夫に付き従ってきただけの妻や、その子もたくさんいた。
ガルシアは、なんの罪もない彼らの喉に牙を立て、血を啜り、彼らの魂を弄んで愛する者のいのちを奪わせた。
天候をあやつって飢饉を起こし、疫病を流行らせて根絶やしにした。
すべてが腐敗した
荒涼とした風の音ばかりが耳につく、かつての居城で。
星の光すら凍りつくような夜、蒼い月の光を浴びながら。
良心の痛みなど、感じなかった。
ひとを辞めることで手に入れた、強大なちからと暗黒の平穏。
そのことを悔いたことはいちどもない。
これからも、悔いることなどないだろう。
自分が、もはや神の国の
けれどいま……ガルシアは、愚かしくも知りたかった。
教えが請えるのなら、どんなことでもしたかった。
自分とおなじ永遠の死者の牢獄に繋ぐことなく……いま、彼のそばにあるぬくもりを、みずからの腕の中に引き留めておくための……その方法を知ることができるのなら。
それができぬことは、だれよりもよく承知していながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます