第21話 蒼き峰の王の献身

 シルヴィアは咳き込んだ弾みに目を覚ました。

 薄暗い室内。

 寝台を覆う天蓋の天井が目に入る。

 頭の芯がしくしくと痛み、目を覚ましたものの、どこか目覚めきれない感じでぼうっとする。

 頭痛が和らぐような気がして、目を閉じる。

 昨日の夜の具合の悪さと比べると、よく眠った分だけ回復したような気もするが、本調子にはほど遠かった。

 おとといから食欲が落ち始めて、昨日はほとんどなにも食べていないが、空腹は覚えない。

 ただ、さすがに喉が渇く。

『枕元にヘルメス君の剥いてくれた西洋花梨メドラーが残ってるはずだから……』

 そう思いつつも、目を開けるのが面倒だった。

 ふたたび咳き込む。

 咳が酷くなると、熱も上がってくるような気がする。

 シルヴィアは頭の下に敷いてあるひんやりと柔らかい枕に頬を押し当てた。

 いつものふんわりとした枕と違って熱が籠もらず、気持ちがいい。

 寝間着が汗でべたべたする……

 まず、服を着替えるべきか薬を飲むべきかと考え、ともかくこうしていても始まらないから一度起きよう、と重い瞼を開いて……

 シルヴィアは息を呑んだ。

 目の前、ほとんど鼻の頭が触れるくらい間近に、ガルシア・アリスタの顔がある。

跳ねるように身を起こし、身体を折って咳き込んだ。

 頭に敷いていたのはガルシアの腕だ。

 腕枕で添い寝……してもらったのよね?

 ガルシアは左腕を腕枕に提供し、シルヴィアに顔を向けて目を閉じ、眠っているようだった。

 いつも屋敷にいるときは、室内にいるときでも外出用の黒の長衣トーガ姿だが、いまは膝下まであるような裾の長い白のブラウスを羽織っているだけだ。

 腰の部分より下はスカートのように筒状になっていて、頭から被って袖を通し、腰より上についた前釦まえぼたんを留めて着る様式の……寝間着姿だ。

 単にだらしがないだけなのか、ほかに理由があるのか、上半身の前釦が半分ほどしか留まっていないせいで、胸がはだけていて……目の毒だった。

 石膏像のようにしろく滑らかな肌。

 自身の心の平穏と、彼の健康のためにぼたんを留めておくべきかと考えるが、そのためには多少なりとも彼の肌に触れなければいけないわけで、それはそれで恥ずかしい。

 だいたい、どうしてこんなことになっているのか……わけが分からない。

『た、たしか、熱が高くてガルシアさんたちを心配させちゃって、ヘルメス君がお見舞いに来てくれて、薬を飲んで……寝たわよね? わたし』

 部屋は暖かいのにずいぶん寒くて……それで……それで……。

「おはよう」

 目のやり場に困って顔を赤くしているシルヴィアに、ガルシアはうっすらと目を開けて、微笑んだ。

 燭台の灯りがひとつだけともされているだけの仄暗い室内でも、彼の紺青の瞳の輝きはよく分かる。

「あ、あの、おはようございます、ガルシアさん……でも、どうしてここに?」

「わたしがここに居るのは、君の指名を受けたからだが」

「そ、そんな……」

 恥ずかしさにえない、と言ったていで布団の上掛けの端を両手に握りしめ、言葉を失うシルヴィア。

 熱が高かったせいで、なにかおかしなことを口走ってしまったのだろうか。

「……心配しなくても、ここでわたしのしていたことと言えば、一晩、君の寝顔を見詰めていただけだよ」

 どうしてそういうことをわざわざ思い出させるのかしら……

 ますます顔を赤らめながら、シルヴィアはもじもじと指を組んだり座り直したりして、うつむいた。

「え……と、その、ありがとう。……あの、腕は痺れてない?」

「大丈夫」

「あんまりそばにいると、風邪が移るわ」

「移らない」

 ガルシアの心配をしながらも、ときおり咳き込むシルヴィアに、困ったように微笑んで、ガルシアはゆるりと身を起こした。

 その動作は身体に鉛のおもりでも付けているかのように大儀そうだ。

「わたしも男だからね、まるで無害だと思われるのは、すくなからず自尊心が傷つくのだが……安心していい。もう夜が明けているせいで身体がまともには動かない」

 寝台の天蓋の幕の隙間から覗いてみても、室内は薄暗いばかりだった。

 よく見れば窓は厚い窓幕テンダで覆われている。

 シルヴィアだけのときは、この部屋に関しては鎧戸を開けているのだが、おそらく、鎧戸も降ろされているのだろう。

 身の回りを照らすのは、枕元に置かれた手燭の灯りひとつ。

 シルヴィアにはいまが夜なのか朝なのか、夜が明けたばかりなのか、もう陽が高いのか、さっぱり分からないが、そういうことに敏感にならざるを得ないガルシアが「夜が明けている」と言うのだから間違いないのだろう。

 ガルシアが手燭の脇に置かれた銀の呼び鈴を振った。

 すぐに部屋の扉が開き、天蓋の幕の向こうにひとの気配が生まれる。

「お呼びですか? ご主人さま」

 シルヴィアが耳にしたことのない、落ち着いた青年の声。

「朝食を持ってくるように。ひとりぶんで構わない。あと、彼女の着替えを手伝う者を呼ぶように」

「かしこまりました」

 落ち着いた、というよりは感情の色に乏しい応諾おうだくの言葉とともに、ひとの気配はすみやかに退く。

 いったい、この屋敷になにが起こったのか……目を丸くしているシルヴィアの頬に、ガルシアの指が触れた。

「君の具合が悪いあいだ、ヘルメス王から使用人を借りることにした。もちろん、君が気に入れば元気になったあとも借りたままにしておこう」

 そういうこと、と、得心がいくと同時に湧き上がるべつの疑問。

 どうして、わたしのためにそこまでしてくれるのかしら?

 わたしはガルシアさんにとって、変わり者の人間の同居人で、週にいちど食事を提供する相手で、頼まれもしないのに掃除や洗濯をする家政婦みたいな……

 耳に付けたままの黄金輝石が、きり、と微かに音を立てた。

 石は仄かに温かく、シルヴィアが身じろぎするたびに揺れ、肌に触れる。

 と、扉を叩く音がして、ガルシアが「どうぞ」と入室を許した。

「シルヴィアさまのお召し替えの手伝いにあがりました」

 今度は控えめな女性の声だった。

 さきの青年とおなじく、淡々とした感情の色のうすい声音。

「なにか難しいことを考えているね?」

 寝台を出るようにうながしながら、ガルシアはふわりとシルヴィアに笑みかける。

「なにを考えているにせよ、いま、気に病むことではないよ。君がなすべきことは、みなにこころゆくまで甘やかされて、元気になることだからね」

 は、はやく元気にならないと、変な怠け癖が付きそうね……。

 ガルシアの優雅な微笑には不釣り合いな、ぎこちない笑顔を返しつつ、シルヴィアは熱のせいかすこしふわふわする足許に注意しながら、寝台を出た。

 一日、なにも食べておらず、食欲も戻っていないシルヴィアを気遣った、蕪と鱈を牛の乳と牛酪バターで煮た汁物と、ふんわりと甘い焼きたての白い麺麭ぱんを味わい、昨夜の残りの西洋花梨を二切れほど食べてシルヴィアは薬を飲んだ。

 衣装は、寝汗でべたべたする寝間着からべつの寝間着に着替えただけだが、着替えのときに身体も拭いて貰ったので、さっぱりとして気持ちがいい。

 寝間着は、様式についても意匠についても男女であまり変わりなく、寒がりのシルヴィアが防寒用にドロワーズを穿いているくらいの差しかない。

 揃いの寝間着を着て、並んで寝台に寝ているなど……どう考えても未婚の男女のやることではないような気がするのだが。

 寝台に戻ると、ガルシアが手ぐすね引いて待ち構えていた。

 いつも昼間は眠っているはずで、たしかに動作などは気怠げだが、眠そうな感じはしない。

 それどころかなにが嬉しいのか……そこはかとなく楽しそうだ。

 もう、自分の寝室に戻ってくれてもいいんだけど……そう思うが、さすがにそれは身勝手に過ぎるというものだろうか。

 どうやら、自分でガルシアさんにそばにいて欲しいとお願いしたらしいのだから。

 ……ぜんぜん、記憶にないんだけど……

 どうぞとばかりに投げ出された腕に、控えめに頭を預けると、なかば強制的に手を握られる。

 こんなので眠れるのかしら、と、ほんのり頬を染めながらシルヴィアは温かい掛け布のなかで身をちいさくしたが……優しく手の甲をさすられていると、なんとなく気分が落ち着いてくるのが不思議だった。

 ひんやりと冷たいガルシアの手。

 シルヴィアはその冷たさにいつのまにか慣れてしまったが、本来は……怖れを感じてもおかしくない、ひとのぬくもりに欠けた、人外ひとでなしの手。

 ……ガルシアさんは、こんなに優しいのに。

「あの、ガルシアさん……ひとつ、訊いてもいいかしら?」

 シルヴィアは、おとといから気になっていたことを、訊いてみようと思い立つ。

 いま訊くべき話かどうか、シルヴィアには確信が持てなかったが……今日なら、ゆっくり話ができそうだ。

 なし崩しに無体むたいなことをされる心配もないだろう。

「どうぞ」

 と、ガルシア。

「訊かれたくないことなら、答えて貰わなくてもかまわないんだけど……ガルシアさんは、どうしてひとを辞めたの?」

「どうしてそんなことを?」

 問いを問いで返して、ガルシアは握っていたシルヴィアの手を引き寄せて、くちづける。

 ほんとうの感情を覆い隠すような、つかみどころのない幽かな微笑。

「どうしてかな、って思っただけ。ガルシアさんは、いいひとなのに」

「わたしは、いまもむかしも、いちども『いいひと』だったことなどないんだよ。ひとを辞める前ですら、この手はたくさんの血に染まっていた」

 手に届かない、遙かななにかに祈るように……寂しげな紺青の瞳が閉じられる。

 為政者の使命は、『いいひと』ではまっとうできない。

 国を護るために、なにかを犠牲にすること。

 ある幸福と、べつの幸福を秤にかけて、片方を切り捨てること。

 つねに『すべて』が選べるならば悩むことはないが、ひとたび選択を迫られたなら……その取捨はほかならぬ、王が決めるのだ。

 切り捨てた者の呪詛の声に、弁解することも、ゆるしを請うことも、許されずに。

「けれど、君の質問には答えよう。……ふたつほどわたしの願いを聞き入れてくれたなら」

「な、なにかしら?」

 あからさまになにかを警戒しているシルヴィアの声音に、ガルシアは笑った。

「君の密やかな期待に応えられなくて心苦しいばかりだが……いまの君に無理をさせることは、わたしの本意ではないし、ヘルメス王にも止められている。君に愉んでもらえるような『わたしの食事』の時の趣向は、またそのうち考えておくよ」

 娘の手を握るガルシアの手に、ちからが籠もる。

「風邪が治ったら、舟遊びにつきあって欲しい。わたしと君がはじめて出会った夜のように……ね」

「約束するわ」

 シルヴィアはほっとして頷いた。

「楽しみにしてるわ。だって、夜の運河は綺麗なのに、ふつう舟遊びなんてできないもの。はやく良くならなくちゃいけないわね」

「もうひとつは、もうすこしさき……来年の二月、仮面祭カルネヴァーレ威尼斯ヴェネツィアを案内してくれないかな? ここに来て二十五年になるけれど、いままであまり興味が持てなくてね。アシエルはともかく、じつのところ、わたしは見物に出歩いたことがない」

「喜んで」

 ガルシアに握られた手を、握りかえしてシルヴィアは笑った。

「威尼斯の仮面祭ってね、ずっとむかしに『異教的だから』ってやめさせられてたお祭りを、教会の反対を押し切って、政府が再開を許可したのが始まりなんですって。だから、きっとガルシアさんも楽しめると思うわ。屋台もいっぱい出るし、大道芸のひともたくさん集まるし、なにより、みんな仮面をつけて、この日のために仕立てた晴れ着で着飾って、夜通し踊り明かすのよ」

 咳をするのも忘れてまくし立てるシルヴィアに、ガルシアは目を細める。

 それは……ひそやかなガルシアの願いだったろうか。

 いずれ遠くない未来に、シルヴィアは彼のもとからいなくなる。

 実家に戻り、家業を手伝いながら、いつか彼女をほんとうに幸せにできる男のもとに嫁ぐのだ。

 けれど、いまだけは。

 いましばらくは。

 ……つぎの仮面祭が終わるまでは。

 彼女の魂の輝きと、ぬくもりを、この手のなかに。

「では、聞き入れられたわたしの願いと引き替えに話そうか。……わたしが、ひとを辞めた……そのときのことを」

 ガルシアは紺青の瞳に柔らかい光を宿して、シルヴィアに笑みかけた。

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