第19話 錬金術師の忠告

 玄関の扉を叩く音がして、ヘルメス雑貨店の店主は帳簿を付ける手を止め、顔を上げた。

「夜分遅く済まないが、急ぎ、揃えたいものがある。入ってもよいかな」

 扉の向こうから、良く通る男の声がする。

 穏やかな、しかし柔和と言うには遠い、沈毅な声音。

 ヘルメス・トリスメギストスは、しばし思案する面持ちで、深い森のいろにも似た翡翠の瞳をしばたかせ……ふと、苦い笑みを漏らした。

「今日はもう仕舞いじゃ。済まんが、明日、日が昇ってからにしてくれんかの」

 帳簿を付けるために手に持っていた羽筆を染料壺に投げ込んで、可笑しげな面持ちで腕を組む。

「無理は承知で頼んでいる。必要なものが揃えば、代価は倍払う。入れて欲しい」

 言葉とは裏腹に、その声音に性急さはない。

 一種、儀式のようにも聞こえる口上に、ヘルメス少年の苦笑はますます深くなった。

「そう言われて断るようなら、その店主は商売人には向かんの」

 少年はそう言って、しばし黙考ののち……

「鍵は開いておるよ、アリスタ殿」

 溜息を吐くように、そう言った。

 きい、と扉が軋み、まるで折からの海風に押されたかのように、扉がすこしばかり内側に開く。

「お初にお目にかかる。我が名は、ガルシア・アリスタ。亡国の主宰者にして神の恩寵をみずから捨てた者」

 扉をくぐる気配も、ヘルメス少年の座っている場所へ歩み寄る姿もなく、まるでさきほどからそこに居たかのように、端然と少年の前に立つ、黒衣の青年。

「いまだ若輩なる我が身の不徳を顧みず、偉大なる古大陸の王にして、叡智の支配者たる貴殿にまみえる夜の来ることを愉しみにしておりました」

「……正直なところ、儂は、ぬしらの知己にはなりたくない」

 苦い笑みをそのままに、叡智のあるじは蒼き峰の王を見据えて言った。

「吸血鬼の始祖は、みな、剣呑じゃ」

 ふと、溜息を吐いて、少年は言葉を続ける。

「始祖の能力は、成り変わる動機によって決まり、究極的には、まったくおなじ能力を持つ始祖はいないと言って良い。そして、それぞれに強力……と言うより、凶悪じゃな」

 黒衣の青年は、淡々と続けられる少年の言葉を、黙って聞いている。

「吸血鬼のさがとして不死の秘蹟をその血に刻んでおるのは、当然として……ぬしは、『支配』の技に秀でておると……そう聞き及んでおる。それが、闇に身を堕とす代償に、ぬしが望んだちからだと。まったく、ぬしが勝手に決めた『領土』の内側にあるものは、問答無用でぬしの意のままになるなんぞ、冗談にしか聞こえん能力じゃ」

「どんなに範囲を広く獲っても、かつて喪われた領土の広さを越えることはないちからです。その強力な魔力の行使は、確実に教会の注意を引き、加えて万能というわけでもない……貴殿なら、わたしのちからを無力化する方法のひとつやふたつ、ご存じのはずだ」

「ま、年季が違うからの」

 世辞なぞ聞く耳持たんわ、と、ばかりに眉をしかめ、しかし、まんざらでもなさそうに頬杖をつく。

「そのちからを使わずに、手続きを踏んで儂に面会を求めてきたことは、買おう。して、今宵はなに用じゃの? 昨日、サヴァラ家の跳ねっ返りに忠告したことの苦情なら受け付けんぞ」

「そのことでしたら、お気になさらず。わたしも貴殿とおなじ意見ですよ」

 青き峰の王は仮面の如き穏やかな無表情に、ふわりと笑みを載せた。

「我が身の愚かさ、傲慢のほどは重々承知しておりますが、それでも、彼女の持つ神の恩寵を奪い、彼女の魂を闇におとしめてなお、彼女を幸福にできると信じられるほどには、わたしも若くはありません。暇と金に飽かせて作らせているいくつかのものは、彼女が実家に戻るときに持たせるつもりです。いずれ人間の男に嫁ぐときに、持参金の代わりにでもすればいい」

 執着と諦観のはざまの、濃い影を宿した笑貌しょうぼう

 澄んだ夜空を映した紺青の瞳が、昏い血の色に濁った。

「……ならば、嬢ちゃんをすぐにでも手放すことじゃ。白黒決めぬ自由、曖昧を曖昧のまま愉しむ贅沢は、王たる者には許されぬ。そのようなこと、ぬしは百も承知のことじゃろうがの」

 喪われた大陸の王者の呟きに、ガルシア・アリスタは答えない。

 しかし少年は、青年の無言を咎めることなく、話を続けた。

「嬢ちゃんが逃げてきた修道院の内部で、近頃、おかしな動きがある。詳しくは儂もまだつかめてはおらんが、おそらくは法王庁の内偵機関が動いておる。結果、修道院の罪が暴かれれば……嬢ちゃんがなに迷うことなく実家に戻れる日も近かろうて。そのとき、ぬしはいまとおなじことが嬢ちゃんに言えるのかの?」

 紺青の瞳に宿る影。

 手にしたものすべてを手放さぬことが、王たる者のごうならば、彼はいま、その業と対峙しているのかもしれない。

 ひとりの娘の平凡な幸福を願う思いとともに。

 無言は……彼自身のなかでも、いまだに結論の出ない苦悩を抱えていることの証左しょうさであったろうか。

「ところで、彼女が熱を出してしまい、どうしたものかと困っているのですよ」

 結局、蒼き峰の王は答えを返さず、別のことを口にした。

「本人は、しばらく休んでいれば大丈夫、と、言ってきかないのですが、咳も酷いし熱も高い。見るからに辛そうなのですが、正直なところ、我らには治す手立てがない。彼女の首筋に牙を立てて、我らの眷族にしてしまえば、やまいなどとは無縁の肉体を彼女に与えることはできますが、そんなことは彼女もわたしも望んでいません。それで……貴殿の知恵をお借りしたい」

「昨日のようすからして、風邪じゃろう」

 ヘルメス少年もまた、答えぬガルシアに問いを重ねることはなかった。

「べつにたいしたことはなかろうよ。儂の知っとる限りでは、嬢ちゃんは潜伏期間と発症が交互に続いて身体が弱っていくようなたちの悪い麻剌利亜マラリアに罹患した経歴はない。流行性感冒インフルエンツァならやっかいじゃが、食事は良いものを摂っておるようじゃから、体力はある。よほど高い熱が続かん限りは大丈夫じゃろ。ゆっくりと身体を休めて、あとは日にち薬というやつじゃ」

 たいしたことはない、と、言い切る少年に、黒衣の青年は頷かなかった。

「しかし、もしもということがある」

「『もしも』じゃったとして、儂らになにができる? ひとの運命は変えられん。変えたところで、幸福にはならん。儂やぬしのように、自分でことわりをはずれた責任を負うというならまだしも……な。だいたい、儂の専門は医術ではないぞ」

 迷惑そうな表情で、溜息を吐くヘルメス少年。

 その表情が、つぎの瞬間、凍りついた。

 ガルシア・アリスタが、無造作に漆黒の剣を引き抜いたのだ。

 鞘からではない。

 彼はその身に武器を帯びてはいない。

 剣は、彼の身の内から引き抜かれた。

 ……その胸、心臓のあるはずの場所から。

「……王の大権。それが、アリスタ王家の王剣にして領域支配の王権か」

 その刀身は『闇』としか表現できない。

 かつては陽光を受けて輝いていたであろう鋼の質感すらない。

 とろりとした夜が凝ったような、月のない夜を映したような、その剣。

「非礼にあたることは百も承知です。また、貴殿ならばこのちからを無効にもできるでしょう。ですが、貴殿とて面倒は避けたいはずだ。いまここでこのちからを使えば、確実に我らはもろともに教会勢力の視界に入る。……信仰を脅かす危険な存在として」

 ヘルメス少年……ヘルメス・トリスメギストスは、もう一度溜息を吐いた。

 深く……ちいさく幼い身体をさらに縮ませるように、深く。

「じゃからぬしらとは付き合いたくないんじゃ。動機が人間くさいわりに、やることに可愛げがない。ろくに人生修行も積んでおらぬ分際で、脅迫の口上だけは一人前と来る。ったく、たかが二百歳そこそこの若造の色恋沙汰に儂を巻き込むなぞ、儂をだれじゃと思っとるのか」

 ぶつぶつと愚痴を零しながら、それでも、少年は手元の引き出しを開けてなかにしまってあった小瓶をいくつか、取り出した。

「……ま、仕方なかろう。儂とて嬢ちゃんが苦しんでおるのを見過ごすのは心苦しいしの。今回は特別じゃ」

 少年はそう言いながら、その外見に似合わぬ、ゆるりとした仕草で立ち上がった。

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