第18話 記憶の部屋

 大丈夫だと高をくくっていたら、どうやらほんとうに風邪を引いてしまったらしい。

 シルヴィアは鼻を啜りながら一階の北側の部屋の扉を開けた。

 指先も爪先も冷たいのに、身体が火照っている。

 すこし熱があるのかしら? と、寝間着の上から羽織っている温かい毛織りの上着の襟をかき合わせた。

 他人の屋敷を寝間着で歩き回るのは、なかなか大胆で、しかもかなり、はしたないが、シルヴィアは屋敷のあるじたちが、太陽の出ているうちは絶対に自分たちの寝室から出てこないことを知っている。

 きちんとした衣装に着替えるのはそこそこ面倒くさいことだし、昼間の屋敷には自分ひとりしかいないも同然だから、大胆にもなろうと言うものだ。

 ことに、今日は頭の芯がしくしくと痛む。

 頭痛にせよ熱っぽいにせよ、我慢できないほどではないが、今日は掃除するのは止めて寝ていよう、と思うくらいには辛い。

 いまだとておとなしく寝ているべきだとは分かっているが、それでも起き出してきたのは、昨日、アシエルの言っていた「北側の部屋の絵画」に興味があったからだ。

 シルヴィアは、この部屋にはほとんど立ち入ったことがなかった。

 出入りを禁じられていたわけではない。

 はじめのころに、部屋のなかをざっと確認して、塵の類いや、使えそうな生活雑貨が置かれていないのを確かめ、日常使う部屋でもないと判断した。

 そのときに部屋にあった絵など、じっくりは見ていない。

 どう掃除を進めていくか、その手順を組み立てるのに頭がいっぱいで、絵の内容などまるで記憶になかった。

 そのうち掃除しようと思っていたが、玄関広間や廊下、階段、自分の部屋など、日常に使う場所を優先していて、いまだにこの部屋にまで手が回っていない。

 東側の壁にあるしっかりと締められた鎧戸の鍵を開けて、窓を開ける。

 不意に部屋に溢れる十二月の清澄な朝の輝き。

 ほかの部屋と違って窓に鎧戸の上にさらに板を打ち付けていないのは、この屋敷の住人が滅多にこの部屋を訪れないせいだろうか。

 それとも、ときどき訪れて、湿気が籠もらないように窓を開けているのだろうか。

 歩けば足跡が残るほどに埃の積もった床。

 部屋に残る足跡は、シルヴィアのものだけ。

 けれど、これはこの部屋を訪れる者がほとんどいない、という証拠にはならない。

 ガルシアもアシエルも、足跡を残さず、足音すら立てずに歩くのだから。

 おそらくは……シルヴィアの知らぬ深夜、屋敷の主たちはこの部屋を訪れているのだろう。

 それが証拠に、床とは対照的に、室内に置かれた荷物にはほとんど埃が積もっていない。

 また、ほかの部屋とは違い雑然とした印象はない。

 部屋には作り付けの棚があり、棚の右側には縦が身長の半分ほど、横が歩幅をすこし上回るくらいの絵画が、三十枚ほど、重ねて立てかけてある。

 左の壁にはかなりおおきな絵が一枚、壁に立てかけてあって、これが昨日の夜、アシエルが言っていた絵と覚しかった。

 近年、威尼斯ヴェネツィアの一部の画家が採用しはじめた、帆船の帆とおなじ素材の布を画布として木枠に張り、そこに絵を描く手法とは違い、昔ながらの、薄く切った板に白い顔料を塗り、乾かしたあとに、直接、顔料を載せる描き方。

 シルヴィアの背丈ほどある額入りの絵画。

 絵の中央、袈裟懸けに剣で切りつけた痕が痛々しい。

 剣の痕とそのまわりは激しく損傷していたし、ほかにもところどころ顔料が剥げている部分がある。

 また、ずいぶん退色が進んで絵は全体が黒ずんでいる。

 それゆえ、なにを題材にした絵なのか、はっきりとは分からない。

 遠景に、どこかの街が描かれているようだった。

 切り立った崖の上のような場所に、回教徒イスラムの寺院と覚い丸屋根が見える。

 街の部分でいちばん退色が激しいのは屋根だ。

 ほとんど色が残っておらず、煤けた黒一色に見える。

 絵の手前には天に剣を翳す基督教徒の騎士たちがいた。

 騎士たちの顔の部分は、ちょうど剣の痕と重なっていて遠景の街よりもさらに傷みが激しく、当然、騎士たちの表情などは分からない。

 騎士のひとりが持つ旗に、文字が入っているが、すべては読み取れなかった。

 辛うじて……最初の単語が西班牙スペイン語で『勝利Victoria』と書いてあるような気がする、その程度しか分からない。

 回教徒の寺院のある場所を前に、勝利の旗を持っている……おそらくはレコンキスタで回教徒の街を再征服したときの情景を描いたものだろうが、これがガルシアがひとを辞めた理由と、どんなつながりがあるのか……シルヴィアには見当が付かない。

 分からないものは訊くしかないと、その絵の解釈は保留にし、シルヴィアはついでとばかりに部屋にあるほかのものに興味を移した。

 棚の右に置かれた絵は、すべてが肖像画だ。

 顔料の状態は悪くない。

 歳月の重みにそれなりに変色はしていたが、元の色が綺麗に残っていてなにが描いてあるのかはちゃんと分かる。

 額をはずし、油紙で一枚一枚、丁寧に梱包されていたのだろう、ほかの部屋にあったものや、さきほどの風景画とは保存状態が違う。

 ただ、火災に遭ったのか絵の一部が煤けているもの、斧かなにかで断ち割られたようになっているもの、ところどころに黒い染みが散っていて、そこから黴びているもの……もともとの状態が悪かったのだろうか、大切に保管していたように見受けられるにもかかわらず、完全な状態の作品はないといって良かった。

 金銀の刺繍の施された衣装や豪奢な装飾品を身に纏った人々。

 男性はみな、頭に王冠を被り、帯剣した姿であった。

 よく見ると絵の下の部分に名前と、即位の年、退位の年、あるいは没年が入っている。

 顔立ちや色味に差はあっても、みな、黒髪に青い瞳。

 そして、いちばん手前に置かれた肖像画の下には、『ガルシア・アリスタ 即位九二二年』と装飾文字が描かれていた。

 そう……これは、アリスタ王家の系譜なのだ。

 過去より連綿と続き、そして、ガルシア・アリスタをもって終わった系譜。

 ……いな、終わってはいない。

 ガルシア・アリスタに退位の年の記入はない。

 彼は、いまも、玉座にある。

 たとえ国が亡くなっても。

 たとえ民が失われても。

 たとえ……みずからがひとのことわりからはずれたとしても。

 シルヴィアには、それがなぜだかとても哀しいことのように思われた。

 永遠に終わることのない、義務。

 降ろすことのできない、重荷。

 それは、恐ろしいばかりに呪いに似ている。

 厳しい表情で剣のつかを握る、若き王。

 いまとほとんど印象が違わないのは、この絵が描かれて、さほど年月を経ないうちに、彼の時間が止まってしまったからだろう。

 肖像画のガルシアの表情には、寂しさはない。

 すべてものを護る決意に満ちたまなざし。

『……それでも、護れなかったのね』

 シルヴィアのこころに重苦しくのしかかる……それは、事実だった。

 何があったのかは分からないが、ガルシアの国は、いまはもう亡いのだ。

 シルヴィアはその絵が無言で訴えかける『重み』から逃げるように、ほかの絵に目を遣る。

 男性の絵が国王の肖像なら、女性の絵は歴代の王妃の絵だろうか。

 古い時代の王妃は、国王とおなじ黒い髪、青い目の者がほとんどだった。

 数名、回教徒風の衣装を身に纏い、濃い茶色の髪と瞳をした女性の肖像続き、そして、最後の一枚は、唐突に西欧風、古めかしい柄の金糸の刺繍が入った外套を身に纏う金髪に藍色の瞳の女性が描かれている。

 最後の一枚は、輿入れの年と没年から推測するに、ガルシアの母親だろうか。

 ガルシアと対になるべき女性の肖像画は、見当たらない。

 その事実は、奇妙なほどシルヴィアの気持ちをざわつかせた。

 残念だとか、ほっとしたとか、そういう感情ではなく……ただ、シルヴィアのこころをざらりとした手触りで撫でてゆく、なにか。

 シルヴィアは身を震わせ、咳をした。

 喉の奥が熱い。

 絵の一枚一枚に、こうまで気持ちを掻き乱されるのは、身体の調子が悪いせいかもしれない……そう思う。

 悪寒がする。

 棚にあるものをざっと確認したら、台所でなにか温かいものを食べて、今日は寝ていよう……何度も咳をしながら、シルヴィアは、そう決めた。

 でも……火をおこすのも、面倒だわ。

 無理にでもなにかを食べておかないといけないとは思うが、胃に違和感があり、空腹を感じない。

 棚に置かれている箱には、装身具が入っていた。

 それらは、ほとんどすべてが壊されている。

 長い年月に壊れてしまったのではない。

 おそらくは暴力によって、壊されている。

 けれども……ひとつひとつ、すべてべつの箱に収められ、大切に保管されていた。

 かつては王侯貴族の身を飾っていたと覚しい、装身具。

 金、銀、金剛石ディアマンテ藍玉ザッフィロ緑柱石ズメラルディ猫目石オッキオ・デル・ガット石榴石グラナート……そして、紅玉ルビノと黄金輝石。

 一部、宝石の欠けたもの、つぶされかけたところを取り戻したのだろうか、溶けて形の歪んだもの……こと、王冠など引きちぎられるようにみっつに分けられて、見る影もなかった。

 原型を留めているものは、ただひとつ。

 大小、千を超えるであろう黄金輝石を幾重にも編んで作った首飾り。

 石を繋げている糸が弱っているせいで、すこしでも動かせば、ぱらぱらと分解してしまいそうだったが、これだけは欠けているところはないように見えた。

 そして、シルヴィアはその首飾りに見覚えがあった。

 見覚えがあると言うよりは、さっき、何度も見たのだ。

 そう、王妃たちの絵のなかで。

『これは……王妃さまの首飾り』

 彼女たちの着ている衣装はさまざまだったが、みな、いちようにこの首飾りを身につけていた……。

 この部屋にあるものは、ガルシアさんの『記憶』だと、シルヴィアは思う。

 自分がアリスタ王家の系譜につながることを……思い起こすための。

 なにもかもが変わってしまった自分自身が、『なんであったか』を思い出すための。

 でも、それだけにシルヴィアには分からない。

 あの剣の痕のあるおおきな絵が、なにを意味するのか。

 たとえば、あの絵に描かれ、騎士に征服された街がガルシアさんの国だとするなら……回教徒の国として描かれているのはなぜなのか。

 想像は千々に乱れ、咳が止まらないせいもあって、考えはまとまらなかった。

 自分の部屋に戻ろうとして、足許が覚束ないことに気がつく。

 悪寒をともなう、ゆらゆらとした、不快な感覚。

 思ったより、酷い風邪なのかも知れない。

 熱が上がっているのかしら……

 シルヴィアは窓の鎧戸を下ろし、部屋をあとにした。

 こんなに咳が酷いと、きっとふたりとも心配してしまうわね。

 でも、大丈夫。

 一日、休んでいればきっと良くなるわよ……

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