第17話 交錯

 帰り際にシルヴィアはヘルメス雑貨店に立ち寄った。

 威尼斯ヴェネツィア有数の商店街、天国の道(カッレ・デル・パラディーソ)も、さすがに夜、遅い時間もあってか、ひと通りもすくなく、灯りのともっている店もまばらだ。

 ヘルメス雑貨店の灯りは消えていない。

 ただ、閉店時間ではあるらしく、店の扉には「閉店中」の札が架かっている。

 早朝から店におり、日が暮れてからだいぶん経ったあとも店の仕事をしているヘルメス雑貨店の店主は、いつ家に帰っているのかと思うが、事業主とはそういうものかもしれない。

 父親の事業を継ぐことに積極的でなかったシルヴィアの兄も、継いでからは朝早くから夜遅くまで、父親とともに店に詰めて、忙しく使用人たちの差配や取引先との商談を行っている。

 シルヴィアはいつものように雑貨店の扉を叩いた。

「ヘルメス君、ちょっといいかしら?」

 なかでごそごそと音がして、鍵が開けられる。

「ひさしぶりじゃの、バルトリの嬢ちゃん。元気にしておったか」

 開けた扉の隙間から、ひょっこり顔出す年若い少年。

 あいかわらずの年齢に似合わぬ物言いを聴くと、シルヴィアはほっとする。

「しかし、嬢ちゃん。今度はまた、どこの貴族の令嬢かと思うような、めかしこみようじゃの」

「でしょう? 我ながら似合わないと思うんだけど……いちおう、変装みたいなものかしらね」

 言いながら、さきほどまで被っていた面布ヴェールを被ってみせる。

「似合うか似合わんかと訊かれたら、よう似合っておると思うがの。……で、今日はどうしたかの」

「古い絵に積もった埃を掃除したいんだけど、どうしたらいいのかと思って訊きに来たのよ」

「ああ、それなら柔らかい山羊の毛でできた刷毛で拭っていくのがいちばんじゃな。うちにも在庫がある。時間があるなら選んでおゆき」

 ヘルメス少年が扉を広く押し開け、シルヴィアを手招いた。

 ……シルヴィアの背後、すこし離れた位置に立つアシエルのほうを見ようともせずに。

「もう閉店だったんじゃない? いいの」

 シルヴィアは、ヘルメス少年のその不自然な視線に気づかなかった。

「儂も今日一日の店の帳簿をつけ終わるのに、いましばらくかかるでの。『嬢ちゃんなら』構わんよ」

 シルヴィアが背後のアシエルを振り返る。

「僕はここでお待ちしていますよ」

 アシエルは完爾にっこりと微笑んで「いってらっしゃい」とばかりに、ひらひらと手を振ってみせた。

 ややあって、ヘルメス雑貨店の玄関扉がふたたび開かれる。

 しかし、扉から姿を現したのはシルヴィアではなく、ヘルメス少年だった。

「……アシエル・サヴァラじゃの?」

「お初にお目にかかります、ヘルメス王」

 片肩に羽織った外套を翻し、胸に手を当てて宮廷貴族風の優雅なお辞儀をしてみせるアシエル。

「……どうやら貴方は本物のようですね。僕たちのことをよくご存じだ」

 吸血鬼ヴァンピーロはその家の家人に招かれることがない限り、他者の家に入ることができない。

 アシエルの言う、僕たちのことをよく知っている……とは、このことを言っている。

 月光を映したかのように蒼白い肌。

 典雅に微笑むくちびるの端に覗くしろい牙と……青い瞳に宿る、仄暗い敵意。

「シルヴィアさんを返していただけませんか? 彼女は、我が王のものです。……血肉はもとより、いずれはその魂も」

「早とちりじゃの」

 ヘルメス少年は、ちいさく溜息を吐いた。

「嬢ちゃんなら勝手に、ぬしについて行くじゃろう。……儂(わし)が止めてもな。いまは店のなかで掃除道具を選んどるだけじゃ」

 幼い外見にはまるで似つかわしくない厳しい表情で、少年は、十二月の凍えた月明かりを浴びて路上に佇むアシエルを見詰めている。

「それはよかった。武器も持たずに貴方の『領域』で貴方と一戦交えるのは、僕ひとりじゃが悪いと思っていたので。敵対せずに済むのは正直、嬉しいですね」

 親しげな笑顔でアシエルは言った。

 けれど、まなざしに宿る敵意は衰えていない。

 月明かりよりも、ひやりとした輝きを宿す青い瞳。

 しかし、奇妙な発言ではあった。

 体格的にも、ひとを越えた能力を持っている点からも、どこで、どのように戦ったとしてもアシエルの有利は揺るがないように見える。

 しかし、アシエルは認めたのだ。

 この場所で戦っては、ヘルメス少年に勝つことはできないことを。

「さすがは蒼き峰のあるじの薫陶をうけておるだけのことはあるの。良く見極めた、と褒めておこう」

 ヘルメス少年は否定しない。

 その幼い外見のどこに、よわい二百年を越える吸血鬼に打ち勝つちからがあるのか……余人には窺い知れぬ会話であった。

「残念ながら、僕なんか我が王の足許にも及びません。胸を張って王より優れていると言えそうなのは踊りの足裁きくらいで」

 我ながら臣下としてあるまじき不甲斐なさですよ、と肩を竦め、お手上げだとばかりに両手を広げて溜息を吐く。

 その深い吐息は、十二月の凍える大気にも白くならない。

 ひとのぬくもりの失われた、吐息。

「……ま、そうは言っても相手の力量のほどを測ることくらいは、なんとか。でなきゃ、僕の仕事は勤まりませんから。サヴァラ家は『王のできないことをする』家系なのでね」

「……双月刀の使い手、蒼き峰の主の紅き守護者、サヴァラ家の無慈悲なる刃、武闘と舞踏を司りし天空の鷹……アシエル」

 なんの感慨も浮かべずに淡々と並べられるアシエルの『ふたつ名』にして『まがつ名』。

 民を護り、導き、つねに正しき道を示さねばならぬ王に代わって、その手を血に染める……アリスタ王家を護る昏き家系……サヴァラ家。

 その最後のひとりである、アシエル・サヴァラ。

「僕のこともご存じだとは……嬉しいな」

 アシエルは破顔。

「でも、最近はそれも休業中かな。以前は片時だって手放さなかった愛刀も、ここしばらく持ち歩いてませんからね。こんなに暇なのは初めてですよ。人外ひとでなしになったいま当然として、人間だったころも……僕らの国も、ちいさいなりに貴族同士のいざこざは絶えませんでしたからね」

 レコンキスタには積極的には参加せず、国力を温存して民を餓えさせぬことに主眼を置いたガルシア・アリスタ。

 回教徒イスラムに支配されていた国としての『汚名』を返上し、レコンキスタに参加して積極的に基督教国家に取り入ろうとした主戦派。

 現状の苦境は基督教国家にあるとして、回教徒国家の勢力巻き返しを裏で支援しようとした懐古派。

 国が揺れるには、じゅうぶんすぎる。

 そして国が割れれば、他国の干渉を受け……結果、民が困窮することになるのだ。

 だが、国の主導権は、揺らぐことなく国が滅びる最後の日までガルシア・アリスタにあった。

 アシエル・サヴァラは……その影の功労者のひとり。

 ガルシア・アリスタに絶対の忠誠を誓い、王に敵対する者を排除してきた、紅の爪を持つ鷹。

「ここしばらく『麺麭ぱんと葡萄酒を賞味する会』の処分対象名簿の序列が低くなる程度には、行儀良くしてますし、生まれて初めて、貴族の子弟っぽい生活を満喫してますよ」

「無駄な殺しをせず、勢力を拡大せず、教会権力を挑発せず、か」

「イベリアじゃ、それなりに派手なこともしていたおかげで『人間を獲る漁夫の会』の武闘派の方々とは親しくお付き合いせざるをえませんでしたが……ま、それも飽きてきたところでしたからね」

「いまの言葉、聞けばおまえさんに返り討ちにされた悪魔祓祭師レゾルチスタどもが泣いて悔しがろうて。腕利きを五名、じゃったかの」

「それはイベリアでの数ですね。ピレネーを越えて仏蘭西フランスで二名、神聖羅馬帝国で三名、英国で一名。さすがに面倒くさくなったので、しばらく欧羅巴ヨーロッパを出ようかと我が王と話をして、威尼斯経由で埃及エジプトに行くつもりでしたが……あとはヘルメス王もご存じの通りですよ」

 まるで口説いた乙女の数でも数えるように、指を折るアシエル。

「その点は儂も似たようなものじゃの。ここ以外に、教会の動向と政変を気にせず研究に勤しめる国を、儂は知らん」

 威尼斯は西欧では例外的に教会権力の弱い国だ。

 それは法王や枢機卿を親族に持つ貴族には議会の発言権を与えない、という姿勢に象徴されるように、威尼斯共和国政府が積極的に教会勢力を排除していることが主因であろうが、ほかにも土地の占有が認められない、という威尼斯特有の事情もあるだろうか。

 海水による土台の腐食、盛り土の浸食や、河川からの堆積物。

 すべての土地を海に大量の木材を打ち込むことで生みだした威尼斯では、つねに整備を要する狭い国土と、その隙間を縫うように存在する水路と運河を効率的に管理し、最大限有効活用するために、政府以外の者が土地を占有することを認めていなかった。

 土地の寄進をうけ、その土地から生み出される富で俗世の勢力を拡大してきた面のある教会にとっては、やりにくい国情だと言える。

 そして、政変の起きない国としても知られている。

 その結果、ひとが集まったのだ。

 猶太ユダヤをはじめとする異教徒、教会の教義と対立する可能性のある研究に勤しむ錬金術師アルキミスタ、基督教以前の希臘ギリシャの遺産に学ぼうとする医師……そして、教会権力と対立せざるを得ない、ひとでない者もまた。

「で、ご用の向きはなんです?」

 優雅に腕を組み、アシエルは完爾と笑った。

「まさか世間話をしに出ていらしたわけではないでしょう?」

「……ぬしらが、嬢ちゃんをどうするつもりか、確かめようと思っただけじゃ。ぬしらの屋敷に身を寄せてひと月とすこし。いまのところ嬢ちゃんは意思を奪われもせず、ぬしらと上手く付き合っておるように見えたのでの」

「それについては、最初にお伝えしたとおりです」

 アシエルが目を細める。

「彼女は、すでに我が王のものですよ。近いうちに、我が王は血族をひとり増やされることになるでしょう。まだ彼女には秘密ですけど、花嫁衣装だって作らせてるところですしね。できる限り彼女の意志を尊重するお積もりのようですが……最終的に彼女に拒絶する選択肢はありません」

「なるほど。嬢ちゃんは……上手くやり過ぎた、と、言うことじゃな」

「ときどき中途半端な奇蹟を起こして純朴な人間を有り難がらせてるだけの造物主とやらが、すべてのひとの魂を召し上げる。でも、人間なんかこの世に星の数ほどいるんですから、彼女の魂のひとつくらい、僕らが貰ったっていいでしょう?」

 アシエルはすらりと長い人差し指をくちびるに当て、微笑んだ。

「彼女……素敵ですよね。万事に一生懸命だし、聡くて行動的なのにちゃんと抑えるところは抑えられるし、なにより僕たちみたいなのにも優しいし。一度見てきましたが、彼女の実家はなんの変哲もない商家だったんで、あのご気性はだれの影響かと思っていたんですけど……きっと、ヘルメス王、貴方のおかげですね」

 にこやかな微笑みを絶やすことなく、立ち居振る舞いも軽薄な貴族の子弟そのもののアシエル。

 しかし……と言うべきか、当然のことながらと言うべきか、ヘルメス少年……いにしえのアトランティス王は、アシエルのその見せかけに惑わされることはなかった。

「嬢ちゃんが望むのならば、儂は反対はせん。嬢ちゃんは……ここではいささか生きにくい。その救いをぬしらに求めるのならば、それも仕方がなかろうて。じゃが、嬢ちゃんの意志を曲げてでも、と言うなら、儂にも考えがある。アリスタ王にはそう、伝えておいてくれんかの」

 ヘルメス少年のその言葉に誘われたか、アシエルのかおに浮かぶ凄惨な陰。

 それは、おおくの政敵を、教会の差し向ける刺客を、迷いなく屠ってきた者の貌であった。

 あるじの意向と対立する者を排除するためには、どんな手段をも厭わない。

 そう……たとえ自身の実力の及ぶところではなかったとしても、敵に剣の切っ先を向けることを躊躇わない。

「ヘルメス君、これの支払いは……どうしようかしら?」

 不意にヘルメス雑貨店の扉が開き、シルヴィアが顔を覗かせた。

 腕には持ちきれないほどの掃除道具……絵画の埃を払うための刷毛や新しい雑巾、床磨きのための磨き粉、洗濯に使う石鹸粉を抱えながら、鼻の頭を赤くして、鼻を啜っている。

「なんじゃい、風邪でも引いたかの? 薬は……在庫を切らしておるから、明後日に届けるが」

「大丈夫よ、ヘルメス君。これはさっきまで寒いところにいたから、そのせいね」

「……それならいいんじゃが。今夜は温かくして早く休むがよかろうて。風邪も拗らせると面倒じゃからの。生姜湯なぞ飲んでおくと薬代わりになるぞ」

 父親……というよりは母親のような心配をするヘルメス少年に、「生姜湯ね」と頷いて、シルヴィアはもういちど、抱えた商品を数え上げた。

「支払いはいつもの通り、週末払いでかまわんよ。金曜に食材と一緒に請求書を持っていかせるから、そのときに使いの者に払ってくれんか」

「分かったわ」

 と、頷き、シルヴィアはつぎにアシエルを見た。

 ちょっとたくさんになるけれど、購入してもいいかしら……目がそう訴えている。

「シルヴィアさんが必要だと思われるものは、なんでも揃えてください。でも、その衣装で抱えてるのが掃除道具って……なかなか斬新ですよね。うん、きっとガルシアさまもご覧になりたいと思うな」

「なによ、アシエルさんのための石鹸粉だって忘れず買い足すのよ」

 アシエルの茶化したような物言いに不服を申し立てるシルヴィア。

 シルヴィアに愛想良く微笑みながら、彼女の持つ荷物を代わりに持とうと引き取るアシエルの表情には、さきに過ぎった凄惨な陰は拭い去られていた。

 ……跡形もなく。

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