第16話 いまだ見ぬ世界(2)

「すご……い」

 元首宮殿パラッツォ・ドゥカーレの鐘楼の三角屋根の天辺で、シルヴィアは、そこから見えるすべてのものに魂を奪われていた。

 満天の星。

 輝く月と、その月明かりに煌めく海原。

 港に停泊する商船団の篝火が、祝祭の炎のように港を赤く染めている。

 しんと凍えるような十二月の風の冷たさも、気にならない。

 元首宮殿は海沿いにあり、その鐘楼はアドリア海と威尼斯ヴェネツィアを一望できる絶好の場所にある。

 加えて、鐘楼は威尼斯の建造物の中でも有数の高さを誇っていた。

 鐘楼からの眺めでも遠くを見晴るかすにはじゅうぶんだが、空を見上げ、手に届きそうな星の輝きを一身に浴びることができるのは、天井のない鐘楼の屋根の上ならではだろう。

 ただし、三角屋根はひとの足では到底、足場を確保できないような急斜面。

 そこに立つことができるのは、ひとでないものの特権だった。

 シルヴィアはアシエルに抱きかかえられてその光景を目にしていたが、目に映るものすべてに見蕩れるあまり、抱えられているのを忘れて、月明かりにぼんやりと浮かび上がる豆粒のような街の細部をよく見ようと身を乗り出し、危ない、と、アシエルを慌てさせてしまった。

「でも、安心しました」

 四方を見渡すのに忙しいシルヴィアに、なにを思ったかアシエルが声を掛けた。

「その衣装を身につけた貴女は、いつものシルヴィアさんとは、まるで別人みたいにお淑やかに見えたんですけど……中身は変わってないんですね」

 褒められているのか貶されているのか、なかなか悩ましい言いように、シルヴィアは「なによ」と、頬を膨らませる。

「こんな素敵な眺め、もう二度と見られないかも知れないのよ? 夢中になったって、仕方ないじゃない」

「お気に召していただけたようで、光栄ですね。でも、二度と見られない、なんてことはありませんよ? 基督聖誕祭ナターレの前後はご勘弁願いたいですが……いつもよりたくさん鳴らされている教会の鐘の音がじつに不愉快なのでね。新年が明けたら、またご案内します。……そうそう、今度は、ガルシアさまも一緒に。我が王ミ・レイも、貴女の着飾った姿をご覧になりたいはずですしね」

 シルヴィアの着ている綾織りの衣装は真紅の生地で、葡萄唐草の刺繍が施されている。

 腰に締めた飾り帯にはたくさんの真珠が縫い付けられ、衣装の上に羽織っている外套は、白貂しろてんの襟の付いた、銀鼠色の栗鼠の毛皮だった。

 屋敷を出るときに被っていた面布ヴェールは、手に持っている。

 被ったままだと景色がよく見えないし、風に飛ばされてしまうからだ。

「まったく、ガルシアさまもいらっしゃればいいのに。おひとりで運河を逍遙なさるなんて、なにが楽しいんだか。おまけに危ないし……」

「危ないって?」

 ふと、アシエルの独り言が気になって、シルヴィアは問うてみる。

 ガルシアたちは人間と違って夜目は利くし、以前、ゴンドラに乗せて貰ったときもまるで危なげない操船だったから、なにが危ないのか分からない。

「……僕たち、泳げないんですよ」

 よほどその事実が不本意なのだろう、一段、声を低くして、「吸血鬼ヴァンピーロが流れ水に弱いってだれが決めたんだか」と、ぶちぶち文句を言っている。

「流れ水に巻き込まれると身体が動かなくなるんです。だから、なにかの弾みに運河に落ちたら、自力ではどうにもならないし、僕だって飛び込むわけにもいかないんで、危ないから止めてくださいってなんども申し上げてるんですが……まあ、おかげでシルヴィアさんに会えたんですから、いいこともたまにはあるんでしょうけど」

 いちおう、わたしのことは「いいこと」の部類に入れてもらえてるのね、とシルヴィアは胸を撫で下ろした。

 たしかにガルシアの『食事』については、いまのところ全面的に彼女が請け負っているから、いろいろと手間が省けていいのかもしれない。

「泳げなくっても、恥ずかしいことじゃないわ。威尼斯の男のひとだって、すくないけど泳げないひともいるのよ。それでも船には乗れないこともないし、商人で大成功したひともいるし」

 と、慰めてみる。

 それでも、人間にできて自分にできない、というのが我慢ならないのか、アシエルは不服そうに深く息を吐いた。

「あ、人間だったときは泳げたんですよ。いいですか? そこをお間違いになったら、咬みつきますからね。僕の国には海はありませんでしたが、ひとつ、綺麗な湖があって、夏はそこで泳ぐのが楽しみだったし、夏祭りの競技会じゃ、いつだって僕はいちばんだったんですから」

 真剣な表情で脅してくるアシエルに、咬みつかれてはかなわないと、シルヴィアは頷く。

「そうね、アシエルさんは身体を動かすのはなんでも得意そうよね。立ち居振る舞いも、いつも踊ってるみたいにきびきびしてて綺麗だし」

 シルヴィアの言いようが気に入ったのか、分かればよろしい、とばかりに満足げにアシエルは頷いた。

「……アドリア海を出て、東へ行けば希臘ギリシャ。ビザンツ帝国の向こうに土耳古トルコがあります。土耳古の向こうには広大な草原と……砂漠が広がっていて、その遙か向こうに絹の国がある」

 アシエルは鐘楼から東を指さして、そう言った。

「南に行けば、埃及エジプト。いま港に停泊している威尼斯の商船団も、埃及の小麦の買い付けから戻ってきたところだと思いますよ。この定期便ができて以来、威尼斯は伊太利亜イタリアが飢饉の年も、飢えで国民を死なせたことがないと、聴いています」

 南の方角に目を向けて、アシエル。

 むろん、見えるはずもなかったが、シルヴィアは月光に煌めく海原の向こうにあるはずの一面の小麦の大地に、目を凝らした。

「世界って、広いのね」

 シルヴィアが呟いた。

 ふと、漏らした吐息のような呟き。

 世界は、広い。

 いまここで、四方を見渡せば、その広さを体感できる。

 でも、ふつうに生活していると、そのことを、ときどき、忘れそうになる。

 忘れていたほうが……幸せでいられるから。

 威尼斯は狭い街だ。

 その街で、女は生まれて死んでゆく。

 商人として、官僚として、船乗りとして……世界へ旅立ってゆく男の背を見送りながら、ほとんどの女は一歩も街を出ることなく一生を終える。

「一緒に、行きましょうか?」

 アシエルが言った。

「僕らはもともと、威尼斯へは立ち寄っただけで、埃及に行くつもりでしたから。キプロス島の葡萄畑に立ち寄って、埃及の暦山港アレキサンドリアの図書館跡を見物したあと、羅馬ローマ帝国のカエサルがクレオパトラと楽しんだって噂のナイル河下りでもしてみようかってね。ま、そう言いながら二十五年も威尼斯に居座ってるんですけど……シルヴィアさんが行きたいと言えば、ガルシアさまも重い腰を上げるんじゃないかな。埃及でも、ビザンツでも、土耳古でも……どこへでも」

「素敵ね。……でも、きっと、わたしは足手まといね」

 シルヴィアは遠いまなざしを彼方に向けた。

 まるで夢のような話だ。

 ……もし、それがほんとうに叶うなら。

「たしかに体力なんかはね」

 アシエルが同意した。

 海路は威尼斯の定期航路開拓の成果もあって多少は安全だと言えたが、それでも旅はいのちがけだ。

 旅慣れた屈強な船乗りですら、ときに嵐で、ときに伝染病で、あるいは他国の内紛の巻き添えで、いのちを落とす。

 ましてや体力に劣り、旅慣れぬ女性は、数倍の危険が伴うと考えていい。

「でも、シルヴィアさんは僕たちにないものをお持ちですよ。僕たちはたくさんのものを喪くして、それで……動けなくなってしまったんです」

 なにを喪くしてしまったのか……アシエルは語らなかった。

 財産があり、永遠の時間があり、ひとにはできないさまざまなことができる彼らが、失ったもの。

 むろん、シルヴィアには分からない。

 けれど、シルヴィアを見詰めるアシエルのまなざしには、通ってくるものがある。

 分からないなりに……通じる、なにか。

「一緒に、行きましょう。僕は、貴女が見る世界が見たいな。ガルシアさまもきっとそうですよ」

 アシエルさんなら……ガルシアさんとアシエルさんなら……きっと、連れて行ってくれる。

 幼いころ、夢に描いていた場所へ。

 けれども……。

 シルヴィアは、不意に締め付けられるような不安を感じた。

 ここではないどこか……気持ちが浮き立つような夢の風景を思い描きながら、一歩も前へ踏み出せない。

 商人になって、出て行きたかったはずの『外の世界』。

 でも。

 ……これは……そう。

 怖い、という気持ち。

 そう、か……男のひとたちは、みんなこんな気持ちと戦って、旅立ってるのね。

 女は『外』に出られない、ということは、べつの視点から見れば、出なくていいということだった。

 『外の世界』にあるすべての未知のもの、目を背けたくなる現実、危険から守られている。

 いま、シルヴィアも、いつのまにかそこに安住していた自分に気がついてしまった。

 絶対安全な場所から、「男のひとが羨ましい」と思ってきた自分が……愚かしい。

「北への旅は……船旅よりは難しいかな。できないわけじゃないですけどね」

 喜色を陰らせ、押し黙るシルヴィアの気持ちを察したか、アシエルは夜の向こうに目を遣って、話を続ける。

「神聖羅馬帝国と、仏蘭西フランス。フランドルは神聖羅馬帝国の一部ですが、自治権を得た街の集まりです。威尼斯とおなじように富み栄えていますが、北の海に面したちいさな都市のあつまりですよ。その海を越えた先には英国イギリスがある」

 夜の闇に沈んだ遠い国々。

 否、遠くはないのだ。

 長く続いた戦乱。

 いまは小康状態にあったが、戦乱はおおくの国で国土の荒廃をもたらしていた。

 そしてその結果、陸路は、ほんの数日の旅ですら、地元の騎士に大枚を払って随行してもらい、盗賊から身を守らねばならないような危険なものになってしまっている。

 地中海にしても、五世紀に西羅馬帝国が崩壊した後、十世紀の終わりに威尼斯艦隊が交易に使う海路の安全を確保するまで、ほとんど五百年ものあいだ、アドリア海を出たあとはどこに行くにしても命がけの、土耳古の海賊の横行する『西欧にとって無法の海』だったのだ。

「僕がまだ人間だったころ、ガルシアさまとはよくフランドルに行く方法を話し合いましたよ」

 寝静まったように暗い陸地に目を向けたシルヴィアに、アシエルが言った。

「僕らの国は黄金輝石と紅玉ルビノ……それと、羊毛の染色に使う明礬みょうばんをたくさん産出していたんですよ。でも、いくら知恵を絞っても、フランドルと安定した商路を確保するのは無理だったな。僕らは山奥の田舎者で、船を持っていませんでしたし、二百年前はフランドルもいまほど栄えていたわけじゃないので、彼らの確保する海路も、そんなに安定してませんでしたから。おまけに仏蘭西も西班牙スペインも……当時は西班牙じゃなくて、レオン王国とかカスティリャ伯領とかいろいろあったんですが、国情が不安定でね。ったく、宝石やら明礬やら、鉱山から掘り出したものを売って食糧を買わなきゃ僕らの国は成り立たないのに、まわりの国はみんな、贅沢品を買ってる余裕なんかない国ばっかりで」

 みんな回教徒イスラムとの戦争に夢中でね、と、溜息交じりに呟くアシエルの口調には……うんざりでしたよ、と言う言葉とは裏腹に、懐かしい響きが漂っている。

「ガルシアさまは、いつも食糧の増産と不足分の確保に頭を悩ませていました。僕らの国は高い山地にあって土地も痩せていたし、寒くて麦も豆も思うように育ちませんでしたから。レコンキスタ以前、ガルシアさまのおじいさまの代までは回教徒の支配下にあったんですが、そのころのほうがよっぽど裕福でしたよ。宝石も明礬も、回教徒の国がいくらでも買ってくれて、そのお金でたくさん食糧が買えましたからね」

 西班牙が行っているレコンキスタ、法王猊下の招集する聖地奪還を目指す十字軍。

 信仰のために戦争をする……それは、「神がそれを望んでおられるデウス ロ ヴォルト」と羅馬法王も認める名誉ある戦いだった。

 けれど、自国の民を餓えさせないための労苦、たとえ異教徒に対して剣を取ることはなかったとしても、それもまた、名誉ある戦いだと……シルヴィアは思う。

 シルヴィアだけではない。

 威尼斯人なら、分かっている。

 威尼斯は希臘正教のビザンツ帝国や回教徒と交易しなければ生きていけない。

 回教徒たちと国交を断絶して十字軍として戦え、と責め立てる法王をなだすかし、禁令が出てもちゃんと裏道を確保して商人の利益を守ってくれる威尼斯政府には感謝しないといけないよ、シルヴィアの父はいつもそう言っていた。

「禁令は、守っている。でも、商売は続けられる。このふたつを満たすことは大切なことだ。法王さまに破門されたら、天国の門は閉ざされてしまうんだからね」

 と、威尼斯の守護聖人マルコを熱心に拝む父を、シルヴィアは『ばれなきゃいいってことなのかしら?』と、なんとも言えない気持ちで見ていたものだが……ほんとうのところは分かっているのだ。

 威尼斯人なら、老若男女、みなが「そのことの価値」を分かっている。

 だから、遁辞とんじろうし、ときに詐術さじゅつまがいのことをしてでも法王の十字軍出兵要請をかわし続け、破門を盾にビザンツ帝国の商館を通じての土耳古との交易を禁止されても、すぐさま埃及の商人たちと交渉して権益を確保する威尼斯元首と共和国元老院議員たちのことを、威尼斯人たちは「基督教徒として不道徳だ」などと責めたりしない。

 彼らもまた戦っているのだと、知っているから。

 海賊に襲われることもなく、土耳古の皇帝に虐殺されることもなく、法王に破門される心配もなく、本国が戦争に巻き込まれることもなく、穀物が不作の年でも、市場に行けばそこそこの価格で麺麭ぱんが買える。

 自国の民が、ただ、今日の商売のことを考えていられる……そういう毎日の『価値』。

 それは……途轍とてつもなくとうといこと。

 たくさんのひとが知恵を絞り、必死の努力で築きあげてきた『平凡な日常』。

『はじめに威尼斯人、次に基督教者』

 いついかなるときでも商売を優先させる威尼斯人を揶揄やゆし、軽蔑する響きのあるこの言葉に、当の威尼斯人たちは誇りすら抱いているのだ。

 自分のなかの基督教者としての良心に目をつぶらせても、まわりの国々に後ろ指さされても、その価値を信仰より優先させることの意味を知っているから。

 そして、実際には元首たちがどんなことをしているかは知らなくても、それを守ることがどんなに大変な戦いなのかは、知っているのだ。

 なぜなら、ここ、威尼斯に生まれて生きていれば、欧羅巴ヨーロッパのどこよりも平穏に暮らすことができるのだから。

 資源など塩と魚しかなく、国土も狭く、人口もすくない威尼斯にとって、それこそが為政者たちの努力の成果であり、勝利の果実でなくてなんであろう。

「ガルシアさん……いい王さまだったのね」

 シルヴィアはこころからそう思う。

 まわりの国々が、ひとも物も、ありったけをレコンキスタに注ぎ込んで戦争をしているさなか、民のために食糧を確保することを必死に考えているのは、凄いことだ。

「僕だって頑張ってましたよ」

 くちびるを尖らして、アシエルはガルシアのことしか褒めないシルヴィアに抗議した。

「もちろん、そうね」

 子どもっぽく拗ねてみせるアシエルに、シルヴィアは笑って頷く。

「西に、僕たちの国がありました」

ふと、まるで仮面を脱ぎ捨てたように、アシエルはおどけた表情を拭い去り、淡々とした面持ちでシルヴィアを見詰めて言った。

「西班牙と、仏蘭西に挟まれたピレネーのふところに。……いまはもう、なにもありませんけどね。町も、畑も、鉱山も、民も……僕たちも」

 彼女を抱き留める腕に、力が籠もる。

 青い瞳は、まるで氷のようだった。

 蒼き山に抱かれた峡谷……そこにある永遠に溶けることのない氷河のような、青。

「寒いみたいですね。鼻の頭が赤いですよ」

 アシエルにどう声を掛けるべきか……戸惑っているあいだに、アシエルはまた、次の仮面を被って見せた。

 ……シルヴィアに向けられた、完爾にっこりとした笑み。

 すこしぬるんだ、青い瞳。

「これ以上身体を冷やしてお風邪を召されたら大変です。またガルシアさまに怒られてしまう」

「降りましょう」そう言うアシエルを、シルヴィアは「もうすこしだけ」と引き留めた。

 遙かな空の向こう……蒼い山並みがどこかに見えはしないかと、目を凝らす。

 ガルシアさんが治めていた国があった……その場所が。

「こんなこと……訊いちゃいけないのかも知れないけど……」

 蒼い、月光。

 凍えた星々。

 シルヴィアには、一瞬だけ、その蒼さが山肌に見えた。

 雪に埋もれた蒼い山脈。

 その岩肌を駆ける、一頭の雄山羊。

「ガルシアさんとアシエルさんは……どうして、ひとを辞めたの?」

 くつくつと、アシエルが肩を震わせた。

 シルヴィアの見詰める方角を眺めながら、笑っている。

 ……そう……すこしばかり、嬉しげに。

「な……なによ」

 どうしてアシエルが笑うのか、シルヴィアには見当もつかない。

 ほんとうのところ、こんな質問をしたらアシエルが気分を害するのではないかと、ちょっと怖かったのだが。

 それがどんな理由にせよ、いい思い出であるはずもないのだから。

「失礼」

 妙に気取ったしかめ面をして、アシエルがおかしなところで笑った詫びを言った。

「他国との外交における関係の進展の足がかりは、相手に興味を持たせることから、ですからね。いえ、良い兆候だな、と」

 ここにガルシアはいないというのに「このぶんだと、あともう一押しですよ、ガルシアさま」などと呟き、なぜか感慨深げに頷くアシエルを、気味悪く眺めるシルヴィア。

「ああ、ご質問については、僕のほうは簡単です」

 たとえいっときでも質問するのを躊躇った自分が馬鹿だったと思ってしまうほど、あっさりとした口調でアシエルは答えた。

「僕は、ガルシアさまに選んでいただいたからです。我が王の永遠の臣下たるにふさわしいと認めていただいた……これ以上に大切なことなんか、僕にはありませんから」

 さほど信心深いとは言えないシルヴィアといえど、もうちょっと悩むべきじゃないかと……ひとごとながら心配してしまうような理由に、シルヴィアは目を瞬かせる。

「……『ともにこう』、ガルシアさまがそう仰ってくださったときは、ほんとうに嬉しかったな。ずっとガルシアさまのおそばでお仕えできるんだと思えば、ひとを辞めることなんか、たいした問題じゃありませんでしたね」

 聞いているとなぜか胸焼けがして胃がもたれてくる回答は、じつにアシエルさんらしいと、呆れながらも、二百年以上その気持ちのままでいられる彼を、ただ純粋に凄いと思う。

「ガルシアさまがどうしてひとをお辞めになったのかは……是非、本人にお尋ねになってください。きっと、教えてくださいますよ……シルヴィアさんにはね」

 そう言いながら片目を瞑って見せるアシエルは、よいしょ、とばかりにシルヴィアを抱えなおした。

「下へ降りるまで、おしゃべりは止めてください。舌を噛んでも知りませんからね」

 一声、声を掛けるなり、アシエルは鐘楼の三角屋根を滑り降りた。

 三角屋根の縁(ふち)で、くるりと舞踏のステップを踏むように身を翻し、足掛かりなどない鐘楼の石壁に降り立つ。

 もちろん、石壁は地面とは垂直だ。

 シルヴィアの視界に星空が広がった。

 衣装の裾が、地から吹き上げる風に煽られる。

「絶対、落としませんからご安心を。でも、下は見ない方がいいですよ?」

 そう言われると見たくなるのが人情で、シルヴィアは首をひねってアシエルの肩越しに、そろりと下を覗き見た。

 黒々とした夜が、そこにはあった。

 吸い込まれてしまいそうなその闇から、シルヴィアは魅入られたように目を離せなくなる。

 目眩がして……シルヴィアはアシエルの首にしがみついた。

「……まったく、ひとの忠告を素直に聴くって美徳の持ち合わせはないんですか? ま、シルヴィアさんらしいですけどね」

 しっかりと抱えられている背と膝裏に感じる、アシエルの腕の感触がちから強い。

「行きますよ? ちょっと我慢してくださいね」

 アシエルはそう言って、軽やかな足取りで、後ろ向きに壁をくだってゆく。

 垂直の壁に足を付けてくだっているのは、シルヴィアを抱えているためだろう。

 おそらくアシエルひとりなら、鐘楼の天辺から飛び降りても平気なはずだ。

 引っかかりがなければ高いところからは落ちるしかない……そんな自然の決まりごとをはなから無視できるアシエルと違い、シルヴィアはアシエルの支えがなければ落ちてしまうし、いくらアシエルが緩衝材の代わりをしてくれても、過度の衝撃が加われば骨を折るか内臓を傷めてしまうだろう。

「ガルシアさまにお訊ねになるときは……そうですね、一階のいちばん北側の部屋の壁に立てかけてある絵の前なんか、お勧めですよ?」

 忠告は嬉しいけど、お願いだから地面に辿り着いてからにして……鐘楼を降る、その垂直落下よりは多少はましなだけの勢いに、シルヴィアはしゃべるどころか、目に涙さえ浮かべて、アシエルの首にしっかりと両腕を巻き付けてしがみつくしかなかった。

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