第15話 いまだ見ぬ世界(1)

 ちょっと、疲れてるのかしら?

 シルヴィアは夕食をつつきながら、溜息を吐いた。

 すこし目眩がするせいで、掃除にもあまり身が入らなかったし、胃に違和感があって夕食が進まない。

 今日は朝も昼も、あまり食べられなかった。

 もっとも掃除のほうは毎日の努力の成果で、目立ったところはほぼ終わっている。

 あとは、あの大量の荷物を、捨てるものと置いておくものに選り分けて、捨てるものを処分し、置いておくものをあるべき場所へ仕舞い込めば、仕上げに取りかかることができる。

『選り分けは、ふたりに頼まないといけないけど……手伝ってくれるかしら?』

 見違えるように綺麗になったと言いながら、自身はいっこうに手を出してこないふたりを動かすのは大変そうだと思いつつ……ここが頑張りどころだと、シルヴィアは覚悟を決めた。

『が、ガルシアさんは……手伝ってくれないなら……服を脱がすのは禁止だって言えば……なんとかなりそうな気がするわね』

 裏を返せば手伝うなら、毎回、食事のついでに身ぐるみ剥がされるのにも同意する……ということになるわけで、なんというか、既成事実の追認、なし崩しになってしまっている気がしてならないが……仕方がない。

 荷物が片付いたら、玄関の大理石を磨いて、屋敷全体の壁紙を貼り替える。

 全面に漆喰を塗って、ところどころ、壁掛けや絵画を飾ってもいいかもしれない。

 床はともかく、壁についてはひとりではできないから、人足にんそくを雇ってもらうことを考えないといけないのだが。

 短期の内装工事とは言え、滅多な者はこの屋敷に入れられないが、ヘルメス雑貨店のあるじに頼めば、信用のおける者を紹介してくれるだろう。

 各部屋の内装はともかく、見えるところだけでもやっておけば、急な来客があっても慌てずに済む。

 このありさま……最近、来訪の多い仕立屋や家具屋が何度、目を丸くしたことか。

 あれはたぶん、この屋敷の惨状を見て、支払いはちゃんとしてくれるのだろうかと不安になったに違いないのだ。

 そういう来客があるたびに、

「最近、越してきたばかりで、まだちゃんと片付けが済んでないんです」

 と、苦笑気味に言い訳するのは、シルヴィアの役割だった。

 越してきたばかりにしては荷物がやけに黴臭いのだが、支払いはいつでも即金で済ましているから、仕立屋も家具屋も、「なにかおかしい」ような気がしながらも納得しているようだった。

 ……ああ、そうそう、絵画の埃も落としておかなきゃね。

 なにが描いてあるのか、色褪せたり顔料が変色したりして識別できなくなった絵も多いが、屋敷にはたくさんの絵画が保存……というよりは放置されていた。

 絵画の修復は、さすがにシルヴィアの手には負えないが、埃くらいは落としておきたい。

 埃を拭うとき、ひび割れに引っかけて、顔料を落としてしまわないためにはどうすれば良いのか……今度、ヘルメス君に聞いておこう。

「顔色が悪いですよ、シルヴィアさん」

 いろいろと今後のことに思いを馳せていると、いつのまにか食卓の向かい側に腰掛け、アシエルが頬杖をついていた。

 柘榴の花を意匠した透かし編みが襟と袖口に縫い付けられた白のブラウスに、漆黒の外套を片肩に羽織り、鼠の姿を模した柘榴石グラナートを鈎爪に捕らえた金の鷹の留め飾りを黒一色の外套のアクセントにしている。

「正直なところ、ガルシアさまはちょっと、がっつきすぎだと思うな。いくらお気に召されたからってシルヴィアさんはひとりしかいないんですから、もうちょっと加減なさらないと」

 ねえ、そう思いませんか? とばかりに片目を瞑ってみせるアシエル。

 そう言うアシエルは、あの一件以来、シルヴィアの血を決して求めなかった。

「僕はそとで食べてくるんで、お構いなく」

 と、微笑みながら、シルヴィアを怯えさせないようにという配慮からだろうか、控えめに距離を置いて接している。

「わたしなら大丈夫よ。たしかに今日はちょっと目眩がするけど、明日には良くなってるわよ」

「これですからね」

 と、アシエルは呆れたように肩を竦めた。

「ほんと、シルヴィアさんはガルシアさまに甘いんですから。いけませんよ? ガルシアさまは、あれで甘やかすと調子に乗られるところがおありですからね」

「その言葉は、そっくりそのまま返してあげるわ」

 訳知り顔に忠告するアシエルに、シルヴィアは苦笑しながら溜息を吐いた。

 ……ガルシアさんのこととなると砂糖菓子みたいに甘くなる張本人がよく言うわよ。

「ああ、そうそう。今朝、部屋の外に出てた洗濯物は洗ったけど、陰干ししてるから、乾くのは明日ね。あと、銀糸の刺繍の外套は、洗えないから気をつけて。いちおう汚れてるところは染み抜きだけしておいたけど」

「いつもすみませんね」

 完爾にっこりと満面の笑みで謝意を表す彼の外套に、どうして血の染みが付いていたのか……それは聞かぬが花だろう。

『相手のだれかさん……酷い目に遭ってなきゃいいけど』

 そう……ガルシアもアシエルも、吸血鬼なのだ。

 ひとの血を求めずには……ひとを傷つけずには、いられない。

 シルヴィアがうずらのパイや羊肉の煮込みに舌鼓を打ち、日々の糧としているように、彼らにとっては、ひとの血が糧なのだ。

 それを、人間の立場で『おぞましい』と感じ、『やめて欲しい』と願う……それは、きっと傲慢なこと。

『しかしてマリアはすべてこれらのことを心に留めて思いまわせり、よ』

 自身には理解できないことについて、その善悪や吉凶を軽々しく決めつけずに、まずはすべてを受け入れなさい。

 ルカ福音書にある、聖母マリアが基督誕生に際して、自分には理解できないさまざまな不思議を見聞きしたときに行ったこと。

 シルヴィアが好きな言葉だった。

 教会で聴く神父のお説教にも、あまり身の入らなかったシルヴィアが覚えている、数すくない聖書の言葉。

「で、今日はまた、どこかへお出かけ?」

 気がかりなどなにもないとばかりに一段、声の調子を上げてシルヴィアは訊いた。

 いつでもどこでも、身嗜みには気を遣っているらしいアシエルといえど、外套を着込むのは外出するときだけだ。

 どこか見透かしたような表情で、アシエルは微笑む。

 見透かして……その、なにも問わない気遣いに感謝するような、すこし柔らかい光を宿した青い瞳。

「ええ、たまにはシルヴィアさんも外の空気を吸われたらいかがかと思いましてね。こちらに来てから、全然、外出なさってないでしょう?」

 実のところ、この屋敷に居候してから二ヶ月足らずのあいだ、シルヴィアは外出したことがなかった。

 食料品や生活必需品は、ヘルメス雑貨店の使用人が数日に一度、配達に来てくれるし、追加で欲しいものがあればそのときに言えば、翌日には届けてくれるからだ。

「え……と、わたしは……変に出歩いて知り合いに会ったら、ちょっと……」

 シルヴィアが逃げ出したことを、修道院が彼女の家族に隠し通していたとしても、逃げたこと自体はすでに家族に知らせていたとしても、どちらにしても彼女が街中をのこのこ歩いているのはまずい。

 また、商人である父親の知人はかなり広範囲にわたるため、不用意に出歩くと、思いも寄らないところで行き会ってしまう可能性が高かった。

 もっとも、シルヴィアにとっては、外出しないことはそんなに苦痛というわけでもない。

 軟禁状態だった修道院暮らしの頃は当然のことながら、実家暮らしでも未婚の娘の自由にできることはすくない。

 自分の自由になるお金などないに等しいし、貴族の女性ほど厳しくはないにしろ、教会へ礼拝に行く以外で、ひとりで出歩くことは不謹慎なこととされていたからだ。

「大丈夫ですよ、シルヴィアさん」

 アシエルが笑う。

「上に行って、お好きな外出着を着てください。もちろん、いま着ているような普段着じゃなくて、ガルシアさまが貴女のためにと選んだ衣装を、ですよ? それで面布ヴェールを被れば……ね。結果のほどはご自身の目でお確かめあれ」

 気乗りしないようすのシルヴィアの肩を抱いて立たせ、台所から追い立てるアシエル。

 食卓を、足音どころか気配すら感じさせずに回り込んできて、そばに近寄るところまでは相変わらずだが、背後に立とうとせず、シルヴィアの視界に入ることを意識してか真横から腕を伸ばして肩を抱くのは、やはり彼女を怖がらせまいと気を遣っているのだろう。

 例の件なら気にすることないのに、そう思うが、現実問題としては、急に背後に回られて声を掛けられたりすると心臓に悪いので、この気遣いは有り難くうけておくことにしている。

「今夜は、ガルシアさまはひとりでお出かけになるようですから、残念ながらお供は僕だけですけどね。是非、暖かい服装をしてきてください。ちょっと変わったところへお連れしますよ。シルヴィアさんには、きっと気に入ってもらえると思うな」

 変わったところ。

 いままで行ったことのない、どこか。

 見たことのない、なにか。

 感じたことのない、気持ち。

 ひととは違う『ひと』が連れて行ってくれる……ここではない、地平。

 それは……素敵だと思う。

 そう……商人の娘だから、基督教徒だから、なにより女性だから……そういう理由で成りたい自分、見たいもの、行きたい場所……いろんなものを諦めてきたシルヴィアにとって、その言葉は魅惑の響きを帯びていた。

 諦めて、それでも『生きている限り、わたしの人生は続いていくの』と、自身の哀しさを切り捨ててきたシルヴィアにとっては。

 ひとではない彼らに、ひとを傷つけずにはいられない彼らに、惹かれずにはいられないほど。

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