第10話 彼の晩餐(1)
「残念だな。君はもっと思い切りが良いと思っていたのだがね」
落胆を隠しきれないという
小部屋の寝台の上で、ヘルメス雑貨店が昼間に持ってきてくれた寝台用の真白い敷き布にくるまってシルヴィアはガルシアを迎え入れた。
明日以降、彼女に待っているのは自身の幸せな家庭などというものでは断じてなく、相手もまた、生涯の伴侶とかいった
もっとも、シルヴィアは花嫁になったことはおろか、身持ちもかたく、男と同衾したこともなかったから、友人の惚気話を聞いたうえでの想像でしかなかったが。
「しかたがないわよ! ……待ってるあいだ、寒かったんだから」
そんなに長いあいだ待たされたわけではないが、下着姿、火の気のない部屋でじっとしているとさすがに寒い。
「それは申し訳ない。わたしはどうもそういうことに疎くてね。ひとを辞めてずいぶん経つし、この
信用すると言っても、ある程度、警戒していることは必要だと身構えてはいるつもりだったが、穏やかに微笑まれて、つい、やっぱり悪いひとには見えないのよね、などと反射的に思ってしまう自分に幻滅する。
「今夜、休むときにはわたしの外套を貸してあげよう。わたしにはあまり意味がないが、季節に合わせて毛織りの厚手のものも揃えているから、上掛けの代わりにすると温かいよ。それから、明日の夜は暖炉のある部屋に案内する。それでいいかな?」
「え? ええ……ありがとう」
「どういたしまして」
紺青の瞳が、綺麗だと……シルヴィアは不覚にもときめいてしまった。
彫りの深い顔立ちに切れ長の瞳、そして艶のある長い黒髪。
均整の取れた
不自然なほど肌に血の気がないことを
彼を、『男』として見るのは間違っているのは分かっているが、意識しないでいられるほど、シルヴィアは世慣れていない。
シルヴィアのとなりに腰を下ろし、愛おしいといったばかりの仕草で手を取られ、腕を優しく撫でさすられていると、安心する。
どう考えても、安心できるような状況ではないのだが。
そういう触れかたが、いわゆる、男女の関係の手管なのだとは、経験のないシルヴィアには分からない。
気持ちの置き所に戸惑いつつ、されるがままにしていると、腕に、ちくりと痛みが走った。
腕の内側、手首のすこしうえに、ガルシアが爪を立てている。
水晶のように薄く尖った、刃物のような爪。
浮き上がった血の雫に、ガルシアはくちびるを押し当てた。
紺青の瞳が紅く濁る。
そして
「灯りを消そうか?」
ガルシアがそう言った。
「……控えめに言っても、ちょっと怖いだろうから」
くちびるの端に長く伸びた
まっすぐにシルヴィアを見つめる、紅い瞳。
「見えないほうが、怖いような気がするんですけど……たぶん」
シルヴィアのその応えに、ガルシアはふと微笑んだ。
すこし寂しそうな、なにかを諦めているような……そんな微笑。
どうしてそんな表情をするのか、シルヴィアには分からない。
でも、なんとなく……その表情は反則だと思う。
こ、怖いな、って思うのは仕方がないじゃない。
それを……そんな傷ついたような顔されても。
「では、灯りはつけたままで」
腰に腕を回され、うしろから抱きすくめられたうえで身を覆っていた敷き布を剥がされたとき、シルヴィアは自分の言ったことを後悔した。
怖いとか怖くないとかいう問題ではなく……自分がなにをされているのか、自分で確認できるというのがこれほど恥ずかしいことだとは思わなかった。
感じていた肌寒さなど、あっという間に吹き飛んでしまう。
視られているのが自分の下着姿だと思うと、顔から火が出るようだ。
だいたいにおいて、下着用のコルセットなど、胸を強調する役にしか立たない代物なのだ。
肩掛けすら羽織らないままで、うえから覗かれようものなら、胸の丸みと谷間がしっかり見えてしまう。
そのさまは街路で客待ちする娼婦のようだと考え……シルヴィアはさらに居たたまれない気持ちになった。
「なるべく、痛いことはしないつもりだけれど、すこしは我慢して欲しいところだね」
シルヴィアの柔らかい肌を味わうように、右の首筋から肩を舐めあげながらガルシアが囁いた。
べつにシルヴィアの返答を求めているわけではない。
うっとりとしたその口調は、すでに軽く彼女の血の味と香り、肌のぬくもりに酔っているようだった。
「……そ、それは良いんですけど、し、食事だけ、は、はやく済ますっていうのは……駄目……ですか?」
自分が約束したのは血であって、この、どこかしら舐められているという状況は理不尽なような気がする。
声がうわずっているのが、たまらなく恥ずかしい。
「食事を愉しまずに必要だけで片付けてしまおうとするのは、人生のおおいなる損失だと言ったのは君たちだよ」
禁欲的な修道会の教義を暗に揶揄した言葉を引用しながら、ガルシアはシルヴィアの首筋を柔らかく噛んだ。
もちろん、牙は立てないように。
シルヴィアはその感触に、背筋がそそけ立つ。
怖いのではなく、むろん、そんなに痛いわけでもない。
居たたまれない気持ちと、身体の芯を熱くする感覚。
「……わたしは……楽しくないんですけど」
抗議の言葉が囁きにしかならない。
「美食の快楽が与えられるのは、食べるがわであって、犠牲の子羊に与えられるのは……べつのものだ」
速くなる心臓の鼓動を確かめるように喉元を愛撫する皓い指。
「ただし、べつのものではあっても、これもまた一種の快楽だということを、いまから君に教えてあげよう」
蜂蜜色の髪に指を滑らせ、絹糸のような感触を指先で味わいながら、ガルシアは笑った。
「白い肌に紅い血が透けて……ほんとうに、綺麗だよ」
シルヴィアの緊張を解きほぐすように、もはや言葉もなく震えている彼女の腕に自分の腕を重ねて揉みしだき、優しく脇腹を撫でる。
男を知らない彼女の身体を、奏でるような、その指先。
吐息が、熱い。
シルヴィアは次第に押さえられなくなっていく身体の熱に浮かされながら、くちびるを噛みしめた。
自分の身体が他者に蹂躙される……胸締め付けられる怖れと不安。
自分の知らない感覚を与えられるままに貪りたいと願う……身体の芯を熱くする渇望。
いますぐに解放して、こころがそう叫んでいる気がするのに、身体が思うように動かない。
不意に、ひやりとした爪が肩口に触れる。
剃刀で引っ掻くような痛みと、その跡を温かく流れ落ちる血の感触。
情熱的なくちづけ。
容赦なく傷口を啜りあげ、一滴余さず舐め取ろうとする舌先。
「熱く、濃く、甘い……君のいのちの味だ。これを自分からわたしたちに捧げてくれる君は……ほんとうに気前がいい」
シルヴィアは、うまくちからの入らなくなった熱っぽい左腕を掴まれて、腕ごと抱き締められた。
痛いほどに……強く。
手に入れたものは手放さない……そう言いたげに。
「牙を立てた傷以外なら、舐めておけば跡は残らないと約束するよ。ほら……ね」
爪で軽くシルヴィアの指先に傷を付け、ひとしずく、紅い血の浮いた指先を、彼女の耳許で
「君は決して傷つかない。その身体も、もちろん、魂も」
傷は綺麗に消えていた。
だが、それを彼女が確かめる余裕があったかどうか。
熱に浮かされたような身体。
自分がいま、怖いのか悲しいのか嬉しいのかすらよく分からない。
潤んだ瞳から、涙が零れる。
「済まないが、血が足らなくなって気が遠くなりそうなら、はやめに言って欲しい。でないと……『食事』に夢中になりすぎて、君を殺してしまいそうだ」
シルヴィアの頬に零れた涙を、指先で丹念に拭いながら、ぞっとしないことを彼女に囁いて、ガルシアは腕のちからを緩めて身を離し、爪で彼女の背に傷をつけた。
流れ落ちる血を舐め取りながら、背筋を這う舌の感触に仰け反るシルヴィアの切ない吐息を愉しみつつ、ガルシアはコルセットの留め紐の結び目を咥えてそっと解く。
「やめ……て」
熱く、潤んだ制止の言葉が、シルヴィアの最後の抵抗だった。
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