第11話 彼女の晩餐
「……仕事があるって言うのは、いいことだわ」
シルヴィアは、朝……というよりは昼前に目を覚ましてからこのかた、昼食を摂ったのを除いてはひたすら掃除をしていた。
身体を動かしていられるのは、なにより素晴らしい。
頭を空っぽにできる。
空っぽにしておかないと……思い出してしまう。
身体の芯に、熾火のように燻る甘美な熱。
途中から、あまりよく覚えていないのが救いでもあり、怖いところでもあり……。
暖かな毛織りの外套に包まれて、心地よい眠りから目を覚ましたシルヴィアが最初に確かめたのは、ちゃんと下着を身につけているかどうかだった。
『ああ、よかった。ちゃんと着てるわ』
昨夜、なにかとんでもないことをされたような気がするのは、気のせいだったのね……と、安心したのもつかの間、次に気がついたのは、コルセットの紐の通し方が逆になっている……ということだ。
シルヴィアはいつも、コルセットの留め紐は表側から始めて、裏から表、裏から表、と紐を交叉させて背中から下へ紐を通し、腰で留めている。
それで慣れているぶん、その通し方でないと自分ひとりではやりにくい。
それが、裏側から始めて、表から裏、という紐の通し方になっていた。
新しいものに着替えようと紐を緩めて……気がついてしまった。
しかも、シルヴィアがぐっすり眠れるように、あまりきつく編み上げていない。
あまり考えたくないが……上半身に何も身につけていないのは寒かろうと、着せてくれたのだろう。
だれが?
……もちろん、ガルシアさんが。
「……お嫁にいけなくなるじゃないの」
そうでなくても
はたきを掛けたばかりの壁に額を押し当て、溜息を吐く。
いけないいけない。
いまここで、また『恥ずかしいこと』を思い出したら、塵だらけの床に突っ伏して動けなくなってしまうわ。
実際のところ、コルセットを脱がされたあとの記憶は、かなり曖昧だった。
怯えるこころを解きほぐすように耳許で囁かれ続ける甘やかな言葉。
君が嫌がるようなことはけっしてしない、と、ゆっくりと寝台に身を横たえるよう、うながされて……
部屋の灯りが消えた。
肩に、喉元に、胸に、脇腹に、シルヴィアの肌のぬくもりを愛おしむような優しい愛撫と、微かな痛み。
そして、傷の痛みを塗り潰すように与えられる情熱的なくちづけに、すこしずつ気が遠くなってゆく……
身体が記憶している彼の指先とくちびるの感触を思い出したとき、恥ずかしさのあまり寝台のうえで半刻、突っ伏したまま動けなくなってしまったことは記憶に新しい。
これで処女は奪われてないんだから、結婚したらもっと凄いことを経験するのね。
先に結婚した姉たちや友人たちが、妻として、母として、シルヴィアには真似できない逞しさと貫禄を身につけていったのも頷けると、妙なところで納得する。
でも、あ、相手はともかく、だれでも経験してることなんだから……そ、そんなに動揺することでもないはずだわ。
……きっと。
た、たぶん……。
顔の色は青くなったり赤くなったり、動悸、息切れ、目眩……
……そうよ、いのちさえあれば、わたしの人生は続いていくの。
なにはともあれ、しばらくここに居候するんだから、住みやすくしなくちゃ。
そう、まずは掃除よ。
気持ちを目先の仕事に向け、身体を動かすことで気を紛らわすのだ。
床に散らばったものを片付ける。
どうみても塵にしか見えないものと、それ以外のものを選り分ける。
シルヴィアのちからでは動かせないような重い長持や棚は、はたきを掛けて、とりあえず置いておく。
塵のなかでは木屑の利用価値が高い。
彼らは
荷物のなかには運搬用の木箱に入れられているものもあった。
その木箱が壊れて床に散乱している。
木材を周辺の土地から買い入れるしかない威尼斯では、煮炊きに使うにせよ暖房に使うにせよ、生活必需品のわりに薪の値段は高めだ。
何年も室内に放置されている木屑だから、乾燥していてよく燃えるだろう。
紙束は、虫食いのものも綺麗なものも、ぜんぶ一カ所にまとめておく。
さらに言えば、内容別にざっくりと分けておきたいところだが、ヴェネト語と
また、羊皮紙なので焚き付けには使えない。
燃やしたところで臭いだけで、ろくに火が付かないのだ。
もし、不要ならば古紙屋に持っていけば高値で引き取ってくれる。
文字が書かれた部分を薄く剥ぎ取れば、新しい紙として再利用できるからだ。
ヘルメス雑貨店でも羊皮紙は取り扱っているから、持って行ってもいいかもしれない。
床を整理したら、そこに足場を作って壁の上のほうからはたきをかけ、雑巾で壁をから拭きする。
最後に、はたき落とされた蜘蛛の巣と埃が積もった床を箒で掃けば、できあがり。
壁紙が古ぼけて色褪せ、ところどころ捲れあがっているのさえ目をつぶれば、それなりに綺麗になっている。
大理石を敷き詰めた床も、いまはまるで艶を失っているが、床に散乱した荷物をすべて片付けたあと、徹底的に埃をはたきだして水拭きし、目の細かい砥石で丹念に磨き上げれば見違えるようになるはずだ。
ただし、いまのところまだ一階の玄関広間ですら手を付けたばかりなので、ぱっと見た感じ、そんなに綺麗になっているように見えないのが難点だった。
とくに今日は、朝が遅かったし、すこし身体が怠くて、昨日ほどてきぱきと進んでいない。
床を整理して壁にはたきを掛けて……を三度ほど繰り返して、ふう、と息を吐けば、すでに夕刻だった。
広間の窓の鎧戸は今日、掃除をするときに開けておいたから、外の明るさでだいたいの時間が分かる。
もうすぐ、陽が落ちる。
夕焼けの紅と、夜の紺青。
ガルシアさんの瞳の色とおなじ。
そう思った瞬間、顔が赤くなってしまう。
い、いくらなんでもこれは意識しすぎよね。
だいたい、むこうは、食事してるだけで……。
「お加減は如何ですか? シルヴィアさん」
背後から掛けられた声に、シルヴィアは跳び上がった。
「あ……アシエルさん……こんばんは。お、お加減って?」
彼らにとってはいまが『朝』だから、「おはようございます」にしようかどうしようか一瞬悩んで、結局、無難なほうを選んでみる。
「こんばんは」
と挨拶を返し、
「なかなか新鮮ですね。挨拶なんて、人間だったころを思い出すな」
と、
「昨日の夜、ガルシアさまにじっくり付き合わされて足腰立たなくなってるんじゃないかと心配していたんですが、お元気そうでなによりです」
途端、ぽん、と、音を立てそうな勢いで顔が真っ赤になるシルヴィア。
『お、思い出させないで……!』
こころのうちで叫びつつ、「な、なんともないわよ?」と、俯いた。
アシエルはそれ以上追求せず、愛想の良い笑顔でシルヴィアのようすを眺めている。
今日の彼の出で立ちは、白いブラウスの襟には薄蒼の飾り布を巻き、濃紺のズボンにはおなじ色のサッシュベルトを合わせて、そのサッシュベルトに風を切る燕を模した銀細工の留め飾りを付けている。
燕の翼の端、細い銀鎖に繋がれて揺れる、
そして、
「僕はいつもこの時間ですが……ガルシアさまが起きてこられるのは、もうすこしあとですよ。ご用がないときは真夜中までおやすみの日もあるくらいで」
シルヴィアが俯きながらも、ちらちらと視線をアシエルのうしろに遣っていたのを見咎めたらしい。
「え? あ、そ、そうなの?」
ほっとした気分が半分。
……なぜか、落胆する気分が半分。
「昨日は早かったですけどね。物音が気になって……って、今日もご精が出ますね」
複雑な表情のシルヴィアの気持ちに気づいてか気づかずか、アシエルが掃除の進み具合を評して言った。
「間借りしてるあいだ、ちょっとでも役に立てればと思って。でも、やっぱり煩いのかしら? 眠れないくらい?」
宿主の安眠の妨げになるとしたら、なにか方法を考えるべきだろう。
荷物整理のときに物音がしないように、床に厚手の布を敷いてみてもいいかもしれない。
「いえ、大丈夫ですよ。なんの物音か分かっていれば、警戒する必要もないわけですし……でも、綺麗になるものですね」
掃除ができている部分はまだすくないが、手が入っているところを眺めながら、感心したようにアシエルが言った。
「ありがとう。もらえる生活費の分だけでも働かなくちゃね。それに掃除は、やれば成果が出るから好きなのよ。あと、もしよかったら、洗濯もするわよ? 絹も毛織りも、お友達の洗濯屋さんに生地を傷めずに汚れを落とす方法を教えてもらったし、実家じゃ洗濯はわたしの役目だったから、それなりに自信はあるんだけど」
シルヴィアの言葉にアシエルは破顔。
「それは素敵だ。是非、お願いしたいな」
「朝までにどこかに出しておいてくれたら、明日、洗っておくわ」
アシエルの笑顔に釣られるように、シルヴィアも笑った。
知らず知らずのうちに警戒心を解きほぐす親しげな雰囲気と、相手のこころも浮き立たせるような明るい表情。
にもかかわらず、青い瞳の印象だけは一番最初に感じたままだと……シルヴィアは不思議に思う。
雲ひとつなく晴れ渡る冬の空、どこかよそよそしく、冷ややかな瞳の色。
「ひとつだけ、謝らせて欲しいんだけど……お昼を食べるとき、食器がなかったから、たまたま昨日、荷物のなかから見つけてたのを使ってしまったの。勝手に使って、ごめんなさい」
シルヴィアはこのまま世間話に流れないうちに、と、かならず謝ろうと思っていたことを告白し、頭を下げた。
台所は昨日のうちに使えるようにしておいたので、シルヴィアは昼に、昨日、ヘルメス雑貨店が持ってきてくれた食材で煮炊きもしてみた。
放置されていた鍋釜は錆取りをして、よく洗えばなんとか使えたが、木製の皿やスプーンは、長年放置されて乾燥し、脆くなっていて焚き付けにしか使えない代物だったから、しかたなく鍵の壊れた長持のなかから見つけた食器を使ったのだ。
油紙に包まれた、銀食器。
深皿、大皿、小皿、さらには銀盆……あわせて百五十枚近くある皿、三十客の銀杯の縁には月と星と太陽、そして天翔る雄山羊が意匠され、ナイフ、フォーク、スプーン、全部で百本はあるそれらすべての柄に、おなじ紋章が彫刻されている。
剣の如き峰、
こんな高価な食器で、蕪と人参を牛の内臓で煮込み、塩で味付けしただけの質素な汁物を食べるのは、生まれて初めての経験だ。
「謝ることなんかありませんよ。食器も使ってもらえて本望じゃないかな。僕ら、食器なんか必要ありませんしね……もう」
シルヴィアの蜂蜜色の髪に絡んだ埃や蜘蛛の巣を摘まみとりながら、アシエルは笑った。
「ご夕食がまだなら、これから一緒にいかがですか? もちろん、僕の、ではなくて貴女の夕食ですし、僕はまあ、貴女の食べる物は食べられませんから、見ているだけなんですけどね」
「ひとりで食べるのは詰まらないから、大歓迎よ、アシエルさん。でも……王さまの食器で食べるには、だいぶ地味なものしか作ってないんだけど……味は悪くないのよ?」
食器の持ち主の閲覧に供するとなると、やはり食材が質素にすぎるような気がして……アシエルに味見してもらうわけでもないのに、なぜか言い訳がましくなるシルヴィアだった。
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