第9話 で、『お上手』って、なにが?

 広場カンポしつらえられた、その地域の住民共用の井戸とはべつに、金持ちの屋敷には中庭に専用の井戸がある。

 廃墟のようだとはいえ、いちおう、資産家の屋敷の造りをしているガルシアの居宅にも中庭があり、井戸もあった。

 昼間、シルヴィアも掃除をしていて、何度も世話になった井戸だ。

 そこで埃っぽい身体をなんとかしろと言うのだろう。

 ほかの街と違って威尼斯ヴェネツィアの地下水は海水であるため、地中に水をとおしにくいイストリア産の石を敷き詰め、天水を集めて汲み上げる様式の井戸だが、威尼斯は伊太利亜イタリアでは雨の多い地域だから、これでじゅうぶんこと足りる。

 かなりしっかりと施工してあるのだろう、手入れされていないにも拘わらず、敷石の目地に蔓延はびこる雑草もほとんどなく、井戸の周囲は整然としている。

 十六夜の月はいまだ中天には遠く、月光は、露天の中庭に斜めに降り注いでいた。

 夜の紺青と、金色の月光に彩られた中庭は、昼間と違い、どことなく幻想的だ。

「まずはその薄汚い身なりをなんとかしていただかないと」

 アシエルはそう言いながら、井戸水を汲み上げた。

 薄汚くなったのは……掃除をしていたせいなんだけど。

 予想通りのアシエルの言葉に溜息を吐き、歩くだけで衣装が綿埃と蜘蛛の巣だらけになりそうな屋敷の現状と、今日一日の努力の成果について、主張したい衝動に駆られたものの、無駄な努力だと諦める。

 ……きっと、彼らにとっては意味がないのに違いない。

 その証拠に、彼らはこの惨状のなかでも埃ひとつ付いていない衣装を着て、床に散らばる雑多なものにつまずくこともない。

 でないとこんなに汚いところに住み続けるなんて無理だわね。

 それはそうとして、この寒空で行水は……風邪引きそうなんだけど。

 健康に悪いと抗議してみるべきか、諦めて水を使うか……そう、シルヴィアが考えていると、アシエルが桶の端を指で小突いた。

「どうぞ」と促されて桶に手を入れてみると、桶の水が湯になっている。

「魔法みたい」と、目を瞬かせるシルヴィア。

「魔法なんですよ。僕ら、これでも『人外ひとでなし』ですから」

 悪魔って、神父さまは「近寄るな、耳を傾けるな」としか言わないけど、仲良くなれば便利かも知れない……そんなことを考えながら、シルヴィアは、はたと大切なことに気がついた。

 いまから身体を清潔にするのに異存はないとして……彼らに血を提供するって、どうすればいいんだろう?

 痛いけど、我慢して手首でも傷つければなんとかなると思ってたけど……

 なにか、さっき、身を任せるとかなんとか。

 それなりにちゃんとした家の未婚の娘は、できるかぎり『清らか』であるように、男女の生臭みからは遠ざけられている。

 しかし、既婚者の友人もいるシルヴィアは、そういう言い回しが、男女の関係を婉曲に表現する言葉だということも、知らないわけではない。

「あの……アシエルさん?」

 どう訊いたものか、迷いながら問おうとしたシルヴィアの機先を制するように、アシエルは完爾にっこりとシルヴィアに笑って見せた。

「これからなにが起こるかは、お楽しみです」

 悪戯を企む少年のようなその表情。

「でも、ご安心ください。お約束した限り、ガルシアさまは貴女に牙を立てるようなことはなさいませんし、僕らは貴女の処女にだって手を付けませんよ? 血の味が落ちますから」

 人差し指をくちびるにあて、茶目っ気たっぷりに片目をつむって、アシエルはシルヴィアに請け合った。

「参考までに教えて差し上げると、僕らの牙を受けていただければ、それこそ、魂と引き替えにしたくなるほどの愉悦を提供できますが……ま、それ抜きにしても、悪くないと思いますよ。ガルシアさまはお上手ですからね」

 ……こ、ここは……胸を撫でおろすところ?

 どう反応してよいか、よく分からない。

 安心しろって言うけど……牙を立てることと処女を奪うこと以外はなんでもありだと宣言されたようなもの……よね?

 で、『お上手』って、なにが?

 縋るような目でアシエルを見詰めるが、彼の愛想の良い笑顔はそれ以上の質問を拒絶していた。

 アシエルが中庭を立ち去り、せっかくの湯が冷めないうちにと手早く身を拭ったあと、シルヴィアに待っていたのは……昨夜も休んだ二階の小部屋で、下着姿で放置される処遇だった。

 べつに服を着るなと言われたわけではないのだが、薄汚れた衣装のほかに着替えがなかったのだ。

 下着用のコルセットは三枚買っていたし、シルヴィアは防寒用にドロワーズもおなじ枚数だけ買っていたから、とりあえず下着は着替えられたのだが。

 肝心の衣装がない。

 銀無垢の十字架といえど、そんなにおおきなものではなかったから、衣装一着と下着、掃除道具と多少の食糧とその他若干……そのくらいで精一杯だった。

 アシエルに、着替えを貸して欲しいと願ってみたものの、

「血で汚れるのが分かっていて貸すなんて、願い下げですよ」

 と、にべもなく断られてしまった。

 そのアシエルはといえば、そのままそそくさと外出の用意をして、出て行ってしまっている。

「どこに行くの?」

 と、問うシルヴィアに、にこやかに笑みかけ、「食事に行ってきますよ」と告げたものだ。

「さすがに初めての夜で男ふたりに襲われたくないでしょう?」

 ご同意いただけるものと確信していますが、とでも言いたげな、思わせぶりな囁き。

「シルヴィアさんには是非とも『長持ち』していただきたいですしね。僕は、ガルシアさまに食事を提供する役目からしばらく解放されるってだけで、じゅうぶんです。貴女のおかげですよ」

 そんな口上はどうでもよくって、汚れたらちゃんと自分で洗って返すから、服を貸して……シルヴィアの切実な願いは、足取りも軽く屋敷を出て行くアシエルに黙殺される。

『乙女の恥じらいをなんだと思ってるのよ!』

 心細さを怒りで紛らわしてみようとしても、むなしいばかり。

 他人の前でまともに服を着ていないだけで、こんなに心細くなるとは思わなかったわ。

 人生って、日々があたらしい発見よね。

 暗澹あんたんたる気分をもてあましながら、シルヴィアは溜息を吐いた。

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