第4話 邂逅(2)

 青年に助け出されたあと、娘……こと、シルヴィア・バルトリは青年の漕ぐ船で、ジュデッカ運河を渡り大運河カナル・グランデを北上して威尼斯ヴェネツィア本島の北部にある青年の居宅に案内された。

威尼斯の運河や水路は複雑に入り組んでいて、船の進めない浅瀬も至る所にある。

 そういった浅瀬には、すべて目印の杭が打たれ、船の運航に支障がないように政庁によって管理されていたが、目印は夜間には見えなくなる。

 それゆえ、日の沈んだあとには、ゴンドラを含むすべての船の運航は禁止されているのだ。

 だが、青年は危なげなく船を居宅の近くまで漕ぎ着けた。

 大運河ほどの広い運河ならば、満月の夜であることもあってあまり危険は感じなかったが、そこから一筋、脇に逸れた水路となると、もう駄目だ。

 水路すれすれに迫る建物の影に隠れている杭を、シルヴィアは何度も見落とした。

 物陰から突然現れ、船縁に迫る標識の杭にひやりとしたものだが……青年は、すべて見えているかのように、決して杭に船を当てることはなかった。

 そして、おそらくは勝手に借りていた詫びのつもりなのだろう、櫂の下にデュカート銀貨を一枚置いて、適当な岸で船を乗り捨てる。

 マッダレーナ通りを一筋奥に入った人通りの少ない小路で、

「ずぶ濡れのままでは風邪を引く。もうすぐわたしの家だから、着替えくらい用意しよう」

 と、シルヴィアは青年に言葉を掛けられた。

 身を慎むべき年頃の娘が男に誘われて深夜、居宅を訪れるなど……さすがに躊躇いはしたもののほかに仕様もない。

 我ながら蛮勇だと思いつつ、青年の道徳観念を信じることにする。

 もしもただで済まなかったら……そのときはそのときだ。

 とりあえず、逃げる努力はすべきだと思う。

 それが駄目なら……

 そうね。

 ……いのちさえ無事なら、わたしの人生は続いていくんだし。

 若い娘にしては妙にさばけた脳天気さで、シルヴィアはそれ以上、心配することをやめた。

 青年について入り組んだ小路をしばらく歩き、水路からはかなり隔たった奥まった場所にある古びた煉瓦造りの居宅の門をくぐる。

 二階の小部屋に通されて、ほどなく階下で見繕ってきたと覚しい青年が用意した着替えに袖を通した。

 男物の純白のブラウスに膝下で絞る黒のズボン。

 ズボンの裾、両脇を飾るたっぷりとした飾り布と、一見するだけでも高級品だと分かる銀の留め金。

 絹のサッシュベルトは今年流行の深紅に染め抜かれ、首に巻く飾り布は威尼斯の技術の粋を集めた最高級品の透かし編み飾りがふんだんに使われている。

 家人に女性がいないのだろう、下着の用意はなく、シルヴィアも下着の替えなど持っていなかったから、ブラウスもズボンも素肌に直接身につけているのが妙に恥ずかしい。

 もっとも、この時代、上半身は下着としてコルセットを着用するものだが、下半身については、月のものの時以外はふつうは身につけないのが一般的だ。

 だが、シルヴィアはひとよりも多少、寒がりだったから、秋口から春先にかけては、いつもドロワーズを愛用している。

 いつも履いているものを身につけていないと、なんとなく『欠けている』気がして、居心地が悪い。

 けれど、男物なのでぶかぶかなことに目をつぶれば、サッシュベルトをきつく締めてブラウスの袖をまくっていれば、それなりに格好はついた。

 これで腰から爪先まである白い絹の靴下を履き、先の細くなった靴を履いて、裏地に美しい刺繍を施した短い外套を片肩に羽織り、羽根飾りの付いた帽子でも被れば、年若く遊び好きで、すこしばかり軽薄な貴族の子弟のできあがりだった。

 おそらく、シルヴィアを助けた青年の衣装ではない。

 青年の歳の頃は二十歳を過ぎ、二十五を越えないあたり。

 威尼斯の地位の高い男たちが装うような、黒の長衣トーガに艶光りする黒の鞣し革の飾り帯、そして裾の長い黒の外套といった出で立ちで、雄山羊と覚しい美しく繊細な金細工の施されたバックル、宵闇の空に煌めく太陽の輝きを閉じ込めたような、燭台の炎を映して金色に輝くルチルの入った紺青の色合いの宝石の耳飾りだけが、黒ずくめ衣装のなかで、唯一、落ち着いた華やかさを演出していた。

 ちなみに、ピアスやイヤリングは、もともとは地中海南部、回教徒イスラムの装飾品である。

 それを威尼斯の女性たちが自身の身を飾る装飾品として取り入れ、欧羅巴ヨーロッパ世界に広めるのだが……十二世紀当時は、まだ物珍しい、異国風の装身具だ。

 でも、と、シルヴィアは思う。

 青年の身なりの完璧さに比べて、この家は……いったい、どうしたことだろうか。

……廃墟みたい。

 それが、青年の居宅に対してシルヴィアの抱いた第一印象だった。

 もちろん、口には出さない。

 辛うじて玄関の扉は軋まなかったものの、玄関を一歩入ると床は埃だらけで内装は朽ちて色褪せていた。

 いくつか灯された燭台の蠟燭は古びていて、おそらくは灯心が黴びているのだろう、炎は赤く、いかにも弱々しげだったし、うっすらと埃の積もった階段の手すりには蜘蛛の巣が張り、各部屋の扉のなかには、蝶番が緩んではずれかけているものもある。

 そしてなにより目を引くのは、あちこちに積み上げられた家具とも身の回りの品とも、はたまた、ただの塵ともつかぬ荷物の山だった。

 ひとの通れるくらいの通路は確保されていたが、それでも、ところどころで山が崩れ落ちて散乱している。

 足許に注意していなければ、足を取られて転びそうだ。

 いま、シルヴィアのいる部屋にしても、まともな家具は椅子が二脚と卓子テーブルだけ。

 その椅子にしても、ともかくも座ることができると言うだけで、どこかが緩んでいるのだろう、シルヴィアが身じろぎするたびに軋み、ぐらつくのだ。

 青年の座る椅子のほうはまだましなようで、軋むようすはなく静かなものだったが。

 あと使えそうなものといったら、いつから敷き布を替えていないのか想像したくない寝台だけで、ほかは鍵が壊れているらしく半開きになった長持が部屋の隅を埋め尽くし、色褪せて絵柄の分からなくなった絵画、なんだかよく分からない紙束が無造作に積み上げられている。

 ……この家に住んでて、どうして衣装に埃ひとつ付いてないのか、それが不思議なんだけど。

 薄暗いためによく分からないが、椅子も卓子も埃だらけなのだろう、さきほどから、鼻がむずむずしてしかたがない。

 青年は「なんの用意もなくて」と、お茶すら出さない不作法を詫びたが、かりに温かいお茶が用意されたとして……飲む勇気が持てるかどうか、シルヴィアには自信がなかった。

 ……夜が明けて、だれもいなくなって近所のひとに、「この建物は十年も前からだれも住んでいないよ」って言われたって驚かないわ。

 そう思いながら青年を見れば、すらりと高い体躯がまとう物腰は、重さがないかのように優美で、彫りの深い顔立ち、骨張った長い指は長く陽に当たっていないかのように蒼白い。

 ……ますます、幽霊みたい。

 いよいよ「夜が明けたら廃墟にひとり倒れていました」って展開になりそうね……と、昔、兄の部屋で読んだ「伊太利亜イタリア伝わる怖い話・傑作選」にあった話を思い出す。

 まだシルヴィアの実家の家業が傾いていなかったころには、歴史書など、ちょっとした読み物の高価な写本が何冊も家にあったのだ。

 いまはもう、売り払って一冊も残ってはいなかったが。

 ただし、あの話は旅人が寂れた港町で美女に出会うんだけど……と、つらつらと思い出すまま、うわの空でいると、青年と目が合った。

「どうかしましたか? なにか気になることでも?」

 柔らかく、穏やかで、どこか寂しげな微笑。

 ……いえもう、なにからなにまで気になるところでいっぱいなんですけど。

 と、こころのうちで呟きつつ、けれどさすがに言わないだけの分別は持ち合わせている。

「今日は、助けてくださってありがとう。わたしは、シルヴィア……威尼斯商人の娘です」

 シルヴィアは椅子を立って、多少なりとも教養のある娘はみなそうするように、身を屈めて頭を下げた。

「わたしはガルシア・アリスタ。ここの生まれではなく、威尼斯の市民権も持たない異邦人だ」

 そう言われて聴けば、青年の完璧な文法のヴェネト語には、微かに異国の訛りが感じられる。

 どこの国かまでは分からなかったが……青年の名前からして、西班牙あたりだろうか。

「綺麗なヴェネト語をお話しになるんですね。ここは長いんですか?」

「威尼斯は……異邦人に優しい、いい街だからね。従弟とふたりで埃及エジプト歴山港アレキサンドリアに行くつもりでここに立ち寄って、そのまま旅立つことを忘れてしまった。そう……長い時、あちこちを旅しているけれど、ここが一番長いのではないかな」

 埃及や土耳古トルコの回教徒たち、猶太ユダヤの民、ビザンツ帝国の希臘ギリシア正教徒……法王を頂点とする基督教カトリックを国教とする国々では、どこでも歓迎されなかったが、ここ、威尼斯は例外だ。

「はじめに威尼斯人、次に基督教徒」

 だれが言い始めたのか……威尼斯人を言い表すとき、この言葉がよく引用される。

 威尼斯の民もまた、敬虔な基督教徒には違いないが、教義が商売の邪魔になりそうな時には、基督教徒としての自分自身にはひとまず耳目を塞いで貰い、まずは威尼斯人として商売を優先させる……そういう意味だ。

 だからここ威尼斯には古くから猶太人居住区があり、希臘正教を信仰するビザンツ帝国を宗主国とし、威尼斯本島には、たとえ土耳古と戦争状態になった時でさえ、その敷地内にいる限りは身柄の安全の保証された土耳古人の商館もある。

 すべて、そうしたほうが商売がしやすい……そういう理由で。

 数次のレコンキスタを戦い、いまだ回教徒勢力のイベリア半島追い出しに躍起になっている西班牙などでは、考えられない鷹揚さだった。

 ほかにも、教会の政治介入を厳しく制限している威尼斯では、ほかの国では当たり前のように行われている魔女裁判ですら、ほとんど行われたためしがない。

 それもまた、教会の政治への口出しは商売の邪魔になる……そういう理由で。

 他国では確実に発禁処分になる異教の書物、基督教以前の希臘時代の医学書、基督教の教義に抵触する可能性のある錬金術師アルキミスタたちの研究書……そういったものも、いちおうの検閲はあるものの、たいていは出版が許されていたから、おおくの国から自由と知識を求めて優秀な錬金術師や医師が威尼斯に集っていた。

 その研究の成果は、黒死病ペスト麻剌利亜マラリアの防疫、ムラノ島で作られる硝子ガラス細工の美しい色彩、木造の船体の補強に使われる丈夫で錆びにくいあたらしい合金の技術……そういったところに取り入れられ、威尼斯の文化や国益に貢献している。

「それはさておき、そろそろ君のことを聞かせてくれないかな。修道院から逃げてきたことは分かっているけれど……親に反対された恋人でも?」

 恋人……その言葉に、シルヴィアの頬が染まる。

 その言葉はシルヴィアにとって、初心で夢見がちな憧れと、そんなのがいたら苦労しないわよ……とでも表現すべき蓮っ葉な諦観に塗れていた。

「そ……そんなんじゃないんです。修道院に入ったのも、父の事業が上手くいかなくなって、持参金が用意できないからで……それこそ、こ、恋人もいなかったんで、『神の花嫁』でもいいかな……って思ってたくらいで」

「ずいぶん若く見えるけれど」

「……今年で、二十一です」

「そう……十八くらいかと思っていた」

 シルヴィアは、いわゆる『美人』ではなかったが、愛嬌のある顔立ちをしている。

 榛色の瞳も、蜂蜜色の豊かな巻き毛も、人懐こい人柄に似合っていて、彼女の表情や仕草を、はっとするほど可愛らしく見せるのに一役買っていた。

 ただ、その可愛らしさは、交易の旅に出る夫の留守を守る堅実な妻……そういう印象とは、ほど遠いのだろう。

 おなじく持参金に乏しいシルヴィアの三人の姉たちが、父の知人である商人の息子の妻に、と求められて嫁いでゆくなか、シルヴィアだけが残り、婚期を逃してしまった。

 この時代、めぼしい持参金がない娘が二十歳を越えて初婚を逃してしまうと、もはや『神の花嫁』になるほかない……そう言われている。

「……それで……ここからは、信じられないような話なんで……と、とりあえず黙って聞いて欲しいんですけど……」

「僕は信じますよ。貴女みたいな可愛いお嬢さんの話なら、なんだって」

 言い淀んだシルヴィアに掛けられた言葉。

 眼前の青年の声ではない。

 ガルシアは外見よりもずっと落ち着いた、低く沈毅ちんきな声音をしている。

 迷える魂をするりと絡め取る、耳に心地よい柔らかな声。

 翻って、いま、聞こえてきた声は華やかな、という表現が一番似合う声音だった。

 沈んだ雰囲気を打ち壊し、進むべき道を見失ったこころに手を差し延べて、甘やかに誘惑する惑乱の声。

 ガルシアの背後、いつ入ってきたのか……小部屋の扉に身を凭せかけて、にこやかに微笑み腕を組む青年がひとり。

 歳の頃は十八から二十歳……といったところか。

 いま、シルヴィアが借りている衣装とよく似た衣装を身に纏い、銀の刺繍入りの黒の外套を肩に羽織り、緋色の羽根飾りの付いた帽子を小粋に被っている。

 一分いちぶの隙もない、当世風の軽薄な貴族の子弟、といった出で立ちだった。

 そして、おそらくはガルシアと対になる、血の雫のような紅玉ルビノの耳飾り。

「アシエル……いつ戻った?」

「ついさきほどですよ、ミ・レイ」

 ミ・レイ……西班牙語で『我が王』と呼びかけて、青年は帽子を手に取り、胸に当てて大仰に礼を執った。

 首のうしろで束ねられた黒髪は、ガルシアとは違う、ゆるい巻き毛。

 くっきりとした目鼻立ち。

 瞳の色は、空の青。

 その彩をたとえるなら、天に手が届くが如き高き峰から見上げる澄んだ空の色。

 明るく、曇りなく……しかしどこか冷たく、よそよそしい青だ。

 さきほどガルシアが言っていた、一緒に旅をしていた従弟、というのが彼なのだろう。

「余計なことはするな」

「もちろんですよ、我がミ・レイ。僕はいつだってガルシアさまのお邪魔をするつもりはありません。いまだって、聞き慣れない声がすると思ったんで、ようすを見に来ただけです」

 アシエルと呼ばれた青年は、完爾につこりとガルシアに笑み掛けた。

「……なかなか、美味しそうなお嬢さんだ。肉付きもよくて、抱きごこちもわるくなさそうだし。もう、味見くらいはお済みなんでしょう?」

 頭の先から爪先まで、品定めするように眺められて、シルヴィアは頬を染めた。

 単純に恥ずかしかったのと……おそらくは娼婦かなにかと誤解されている……そのことに対する苛立ちで。

「アシエル……!」

 シルヴィアの気持ちを代弁したものか、怒りを押し殺したガルシアの呼びかけに、アシエルは肩を竦めた。

 しかし、部屋を出て行くつもりはないようだった。

 相変わらず扉に身を凭せかけ、悪戯っぽい笑顔をシルヴィアに向ける。

「続きをどうぞ、お嬢さん」

 アシエルに促されて、シルヴィアは、はたと我に返った。

 苛立つ気持ちを堪えて、深呼吸する。

 ひとのことを値踏みするような視線や、商売女と勘違いしているような物言いなど、聞き捨てならない言動は、仕方がない。

 真夜中、男性の家にのこのことついてくるような女性は……どう考えてもまっとうな乙女ではないのだから。

 アシエルがシルヴィアのことを、人類史上最初の職業に従事する女のひとりだと見なしても、当然だと思う。

 ここはちゃんと経緯を説明して、誤解を解いておかなくては。

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