第3話 邂逅(1)

 星が瞬いていた。

 その瞬きは、青年に遠い過去の痛みを思い出させる。

 黄昏のとき、最後の残光たゆたう空を映したかのような深い紺青の瞳はどこまでも物憂げで、そして、どこか哀しげだった。

 満ちた月の光が水面に輝く。

 それは、百万の星が水路を埋め尽くしているかのような輝き。

 威尼斯ヴェネツィア

 十二世紀のなかば、アドリア海の女王と讃えられる海の都……交易都市。

 運河にひろがる月の輝きは、その若々しい国の隆盛を謳うかのようだ。

 ジュデッカ島の水路に繋がれたゴンドラの船底に身を横たえ、青年は思う。

 そう……ここでは、星は瞬くものなのだ。

 仏蘭西フランス西班牙スペインの境、いまもバスクの民、ナバラ王の護るピレネーの蒼き峰から見上げる星空。

 あの月の光さえ凍るような澄み渡った空とは違う……

 十月の清涼な夜風が水面を吹き渡る。

 その風はあくまでも優しく、青年を追憶の岸辺へと誘うかのよう。

「あの、この船、貴方の船ですか?」

 凜と降ってきた声に、青年は気怠いもの思いの彼岸から、此岸に引き戻された。

「いや、違う」

 億劫げに船底から身を起こして、青年。

 長い黒髪を煩わしげにかき上げて、声のしたほうを見遣った。

 視線の先には、船縁に手を掛けて岸辺にしゃがみ込んだ、娘がひとり。

 ずっと駆けてきたのだろう、ずいぶんと息が乱れている。

 見開かれた瞳の色は、温かな榛の色。

 蜂蜜色の柔らかな巻き毛が、茶色の粗末な男物の僧服の頭巾から零れている。

 わずかに若葉の気配がする榛と、明るい巻き毛のその色彩は、青年にピレネーの春を思い起こさせた。

 遠い場所、遙かな時の向こう……彼から永遠に失われてしまった……祖国の春。

 もはや決して手にすることのできない幸福の記憶が、名残の春雪のようにひやりと青年の魂に降り積もる。

 あるいは……かつて魂のあった場所、その冥いうつろに。

 青年は、すでにその雪を溶かすだけの熱を、その身に、そのこころに宿していない。

 だから、欲しくなるのだ。

 降り積もるばかりの哀しみを溶かし、諦観と倦怠に凍える躯を慰める……ひとのぬくもり。

 喉が……渇く。

 青年の紺青の瞳に、紅の灯がともる。

 身のうちに呼び覚まされた渇きがともす、熱のない炎。

「ごめんなさい」

 意を決したように、娘は船に飛び乗った。

「かくまって」

 娘はちいさく懇願して、青年に抱きつくように、彼の身を包むゆったりとした黒い外套の内側に、自身の身を納める。

 娘は青年の瞳にともった微かな変化には気づかなかった。

 当然だろう。

 満ちた月が中天に輝くとは言え、それだけの明かりで他者の表情の僅かな変化を見留められるほど、ひとの目は夜の闇に親しくはない。

 時を空けず、水路に迫った建物の影から、男がふたり現れた。

 そろいの麻布の貫頭衣に荒縄の腰紐、そして茶色い頭巾。

 どこかの教会の下男だろうか。

「おい、こちらに女が来なかったか?」

 男のひとりが青年の姿に気づき、問うた。

「背格好に特徴はないが、茶の男物の僧院の衣装を着ている」

 青年の胸で、娘が身を固くした。

 押し殺した吐息。

 微かに震える身体。

「さあ? 気がつかなかったが……こちらも少々、取り込み中だったものでね」

 なだめるように娘を抱き寄せ、震える手に指を絡めて、腕だけを黒い外套から引き出して見せる。

 娘の着る袖口の広い僧服の袖は、青年のもう片方の手で巻き取られ、押さえられていて、黒い外套から引き出された娘の腕は、肩口まで剥き出しだった。

 まるで外套の内側にいる女が、裸身であるかのように。

「そういうわけで、お引き取り願えないかな?」

 絡めた指先、ほっそりとした娘の手首にくちびるを寄せ、挑発的にくちづける。

 手首の内側に透ける静脈を、ゆっくりと舐めあげる舌先。

血の色を思わせる紅いくちびるに浮かぶ微笑。

 その毒気にあたったか、男たちは後退った。

「見かけたら……教えてくれ。女は修道女だ」

 そして男はジュデッカ島では五本の指にはいるおおきな修道院の名を、青年に告げる。

 ジュデッカ島は、昔から、早くに夫を亡くした未亡人や、持参金がないために婚家を見つけられない娘を預かる修道院が多い場所だった。

 男の告げた修道院も、そういう女たちを積極的に預かることで有名な宗派が運営している。

 威尼斯のほかの島々と、広い運河で隔てられ、橋も架かっていないジュデッカ島での交通手段は船に限られている。

 他島と結ぶ橋がない……それはすなわち、船の往来のない夜間、島は完全に孤立するということだ。

 だから、修道院暮らしに不満のある娘たちが夜陰に紛れ、修道士たちの目を盗んで逃げ出したとしても、そこまでだった。

 狭い島を必死に逃げ回っても、夜が明けるころには見つかって、連れ戻されるのが関の山。

 実家にいては荷厄介なばかりの女たちの行き着くところ……女たちの牢獄。

 ジュデッカ島の修道院をそう影で評す者もいる。

「おやすいご用だ。神に仕える牧者への助力と献身は、良き基督教徒の責務だからね」

 立ち去る男たちに向けられた、青年の空々しい笑顔。

 ややあって。

「もう、大丈夫だ」

 男たちの足音すら聞こえなくなったのを確認して、青年は外套のなかにいる娘に声を掛けた。

 だが……返事がない。

「どうした?」

 すこしちからを入れていた腕をほどいて、わずかに身を離す。

 榛色の目を見開き、茫然と座り込んだままの娘を不思議そうに覗き込み、青年はふと、微笑んだ。

「純潔を守る誓いを立てた修道女どのには、すこし刺激が強すぎたかな?」

 そう言って娘の手首を指で撫でる。

 青年の形よく整った爪が柔らかく静脈を辿ってゆき、思いのほか無骨な長い指が、ちからの入っていない娘の手を握る。

 熱く、すべらかな娘の肌。

 とくんと跳ねる心臓の鼓動。

「続きを、して欲しい?」

 耳許で、そう囁く。

 囁きに紛れ込んだ湿った音が、舌舐めずりだと娘は気づいたか。

「君の想像しているようなものではないだろうけれど……これはこれで悪くないよ」

 耳のうしろに触れるくちびる。

「そのままじっとしておいで。大丈夫。痛くない」

 うっとりとした青年の囁き、そっと腰に回された逞しい腕、喉元をくすぐる冷ややかな黒髪の感触……。

 首筋に触れたくちびるの冷たさに、娘はようやく我に返った。

 ちいさく悲鳴を挙げて、身をよじり、青年の腕を振り解いてよろめきながら後退る。

 慌てふためき……足許を確かめもせずに……まるで、そこが地面だとでもいうように。

「危ない!」

 船が揺れた。

 ゴンドラは細い水路を縦横に行き来するための小舟だ。

 すこしのことですぐに安定を失う。

 船の舳先ちかくまで逃れていた娘は、体勢を崩し、足を踏み外した。

 水音

 嵐の海に浮かぶ小舟のように揺れる船を抑えながら、船縁から水面を覗き込む青年。

 ほどなく浮かんできた娘の姿に、ほっと息をつく。

「手を貸す必要は?」

 僧服は泳ぐには不向きな衣装のはずだったが、娘は危なげなく立ち泳ぎをしていた。

 だが、さすがに水をたっぷり含んで重くなった衣装ごと、腕の力だけで岸に身を引き上げることまではできないのだろう。

「……ごめんなさい、お願いします……」

 消え入るような娘の懇願に、青年は微笑みながら手を差し延べた。


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