第5話 邂逅(3)

「わたし、半年前に修道院に入ったの。父はかなり頑張ってわたしの嫁ぎ先を探してくれたけど、見つからなくて。だから、父のことは恨んでないの。自分で『持参金なんかなくても構わない』って言ってくれる恋人さえ見つけられてたら、父もつらい思いをせずに済んだはずだし」

 実際、シルヴィアの友人のひとり、粉屋の娘は、十六になるやいなや彼女に首ったけの恋人を見繕い、相場の三分の一にもならない持参金で嫁いでいった。

 いまでは一男一女をもうけ、魚屋の女将さんとして毎日を幸せに忙しく立ち働いている。

「修道院では、必要なものはみんな喜捨で賄われてるの。でも、それじゃ黒麺麭と野菜屑の汁物しか食べられないから……たまにはお肉だってお菓子だって食べたくなるじゃない? だから、みんなで刺繍や透かし編みの飾りを作って、売ったお金でちょっとだけ贅沢なものを買ったり……っていうのも、楽しかった。余生にしては長すぎる気もしたけど、こんな感じで淡々と日々を過ごすのも悪くないかなって思ってたのよ」

 厳格な戒律みずからに課すことで、神への道を歩む……それが本義である修道院では、あるまじき行為である。

 だが、世俗を離れる覚悟もなく、親の経済的な事情で預けられる娘の多い修道院では、多少のことには目をつぶることもあった。

 もちろん、あくまでも修道会の方針に依り、なかには修道士たちとまったくおなじ生活と修行を課す修道院もある。

「……ようすがおかしいな、と思ったのはひとつきまえくらいかしら。月に二回、司祭の資格を持った修道士さんが、何人かでお説教と告解に来てくれるの。その晩の献立は、どこの豪商の晩餐会かってくらい贅沢で……上等の葡萄酒に、牡蠣とか海老とか、子羊の炙り肉とか。変でしょ? 修道士さんって、最終誓願も済んでるから、わたしたちなんかより、ずっと清貧に徹してなきゃいけないのに。もちろん、新入りのわたしなんかは食べさせてもらえないし、修道士さんの応接は院長と、特別に選ばれた修道女の方々しかできないから、晩餐の席に呼ばれることもないの。でも、晩餐の食材を買うお金は、わたしたちの作った刺繍を売ったお金なのよ。だから……なんとなく悔しくて、どんな美味しいものを食べてるのかって……晩餐の部屋を覗いてみたの」

 そこまで語り終えると、不意にシルヴィアは視線を落ちつきなく彷徨わせ、頬を赤くする。

 次の言葉を言いあぐねるのか、下唇を噛む。

「晩餐の席の修道女たちは、まるで娼婦のようだった」

 嘲るように、は、っと虚空に吐息して、アシエルが言った。

 シルヴィアの言い出せずにいた言葉を。

「安心なさい。ガルシアさまも僕も、貴女を信じますよ。どこでもやっている……と言えば、さすがに大工の息子の信徒たちを侮りすぎですが、驚くような話ではありませんから」

 アシエルが扉を離れ、足音もなくシルヴィアのそばに歩み寄った。

「修道院の女院長は、たいてい、生え抜きの修道女です。世間を知らず、もちろん、男も知らない」

 椅子に座るシルヴィアの背後で身を屈め、耳許に囁く。

「ある晩、美しい院長に悪心を抱いた修道士が彼女の寝所を訪れ、処女を奪う。修道士は彼女に痛みと快楽を与えながら、こう囁くんです。『これは神が貴女に与えたもうた、試練と恩寵。これからも、ともにこの試練と恩寵を極め尽くそうではありませんか』とね。院長は……信じますよ。こころのどこかでそれが嘘だと分かっていても、嘘を認めてしまえば、自分は神の花嫁ではなくなってしまう。あとは簡単だ。院長は自分自身を騙すために、修道士に身もこころも捧げ尽くす。自分ひとりで罪を犯すのが怖くて、自分から率先してほかの修道女を唆し、修道士に身体を捧げさせる……」

 シルヴィアは頷いた。

 彼女の見たのは、まさにそういう光景だった。

 王侯貴族のように傲然と葡萄酒を飲み、美食を貪る修道士たち。

 そして修道服を脱ぎ捨て、絹の下着と若い娘の輝くような白い素肌、娼婦のような媚態で修道士たちにかしづく、院長と修道女たち。

「……しばらくは、なにもなかったわ。でも、そのうち、秘密の晩餐の席をだれかが覗き見してたって、噂がひろがったの。きっと、だれかが物陰のわたしの姿を見咎めてたのね。院長はだれが覗き見したのかって、厳しく追及し始めて。今日になって、それがわたしだってばれそうになって……逃げてきたの」

 修道女たちは夜間は部屋の外にすら出られなかったから、昼間、洗濯干し場の修道士服を失敬した。

 日が暮れて、いかにも使いに出るふうを装って、修道院の裏手に回り、高い塀際の木をよじ登って外へ出た。

 あとさきを考えた行動ではなかった。

 だから、すぐに追いつかれて捕まりそうになったのだ。

 ……こどものときに抱いていた夢とは違うけれど、だれかと結婚して、自分のこどもを産んで家計を切り回し、平穏な暮らしをしたかった。

 それがだめなら……神の花嫁になってもいいと、思っていた。

 どうせ、女のわたしでは、いちばんなりたかったものにはなれないのだから。

 でも、あんなのはいや。

 すべてを奪われて、奴隷のように使われて!

「……もう大丈夫ですよ、お嬢さん。安心なさい。追っ手がここまで来ることはありません。なにも怖いことなんてないんです。だから……しばらくここにいてください」

 アシエルの声は、甘やかだった。

 彼の囁きを聞いていると、ひとつきまえ、修道院の離れで木立の影から窓を覗き、口にすることもはばかられるような罪深い光景を見てから、ずっと緊張しどおしだった身体とこころが解れてゆくようだ。

 大丈夫、その言葉が谺のように脳裏に繰り返される。

 ……大丈夫……そう、きっと、だいじょうぶ。

 もう、なにも怖いことなんてない。

「お嬢さんがここに来てくださって、とても嬉しいんです。……ずっとガルシアさまとふたりきりで退屈していましたから。退屈で……おなかが空いて……ほら、指だってこんなに凍えるようです」

 シルヴィアの頬を優しく撫でる指先は、氷のようだ。

 おかしい、と、シルヴィアは思う。

 彼の言葉を聴いていると……とろんと、瞼が重くなる。

「……ね、お嬢さん。くちづけを許していただけませんか? 大丈夫。くちづけするだけです。くちびるが欲しいなんて言いません。首筋に、ちょっとだけ」

 そばに近づかないで欲しいのに、身体が動かない。

 ……これは……たぶん、ふつうじゃない。

 けれども。

 なにかがおかしい、と、警告するこころの声すら、彼の声音は蕩けさせてしまう。

 大丈夫。

 ここにいれば……だいじょうぶ。

「怖いことなんて、なにもないんですよ。首筋に、くちづけるだけ。それ以上は触れないとお約束します。今日の泊まり賃だと思って……ね? ほんとうに……貴女は温かくて美味しそうだ」

 喉元に、ひやりとした指の感触。

 きちんと結んだはずの襟の飾り布が、いつのまにか解かれていた。

 瞼が重くて……目を開けていられない。

 なにも怖いことなんてない。

 ……そう、ね。

 くちづけくらいなら、構わない……かな。

 ……泊めて貰うんだし。

 どうぞ、と、シルヴィアは、我知らず、承諾の言葉を口にしていた。

 声にはならず……くちびるが動いただけであったが。

「アシエル!」

 ガルシアの叱責に、吐息の触れそうなほど近かったアシエルの顔が遠のく。

 ちょっとした冗談ですよ、とばかりに溜息をつくアシエル。

 不服そうに部屋の扉の位置まで戻り、しかしそこに留まらず、「ごゆっくり」と、一言、そのまま、扉を開けて外に出る。

 と、同時にシルヴィアの瞼を重くしていた眠気も嘘のように霧散した。

『……なんなのかしら?』

 良い予感は、しない。

 彼らにはなにか秘密があって……たぶん、関わり合いにはならないほうがいい。

 言いようのない不安に速くなる鼓動。

 本能が警告している。

 ……いますぐにでも、逃げるべきだと。

 無意識に自分の首筋に手をやり、撫でる。

 すこし冷えた指先には、いやに熱く感じられる喉元。

 とくとくと脈打つ心臓の鼓動。

 そう言えば……ゴンドラでガルシアさんも、わたしの首にくちづけようとしていた……。

 でも……わたし……

 ガルシアを見遣れば、彼はアシエルが出て行ったことなど意中にないのか、足を組み、胸の近くで手を組んで、シルヴィアを見詰めていた。

 目が合う。

 どこか哀しげで、寂しげな紺青の瞳。

 そう……出会ってまだ数刻しか経っていないけれど、彼はときどき、どうしてだかそんな顔をする。

 その言動に不安を覚える彼ら。

 妖しく、昏い影。

 でも、と、シルヴィアは思う。

 その寂しげなまなざしは……なぜか、信じたくなる。

 このひとは、悪いひとではないに違いない、と。

「あ……あの」

 おずおずとした声に、ガルシアが「なに?」と、小首を傾げた。

「図々しいとは思うんですが、しばらく……ここに置いていただけないでしょうか?」

 ガルシアの口許が微笑に歪む。

「さきほどアシエルに食べられそうになっていたけれど……それでも、そんなことを言うのかな?」

「食べられ……? え、と、でも、ガルシアさんが止めてくださいましたし」

「……わたしのことをそんなに信用してもらっても困るのだがね」

 微かに肩を震わせ、ガルシアが笑った。

「まあいい、聞こうか。どうしてここに居たいと?」

「……実家には、いまは帰れません。修道会のひとたちが、実家を見張ってると思うんです。わたしが……逃げ帰るとすれば実家しかありませんから」

「君は、正直だね」

 ガルシアがシルヴィアに笑みかける。

 その微笑は……まるで仮面のようだった。

 さきほどまでの、彼の気持ちが垣間見えるような気がする表情ではない。

 なにかを隠すための、かお

「ひとつ、忠告しておいてあげよう」

 ぱちん、と、ガルシアが指を鳴らした。

 途端、部屋に灯されていた三つの燭台の炎が、一斉に消える。

 部屋は闇に閉ざされた。

 ……月の光さえ届かない。

 鎧戸が閉まっているのだろうか。

 鎖に繋がれたわけでもなく、扉に鍵を掛けられたわけでもない。

 ただ、部屋が闇に閉ざされたと言うだけ。

 けれど、シルヴィアは気がついた。

 ……これでは、逃げられない、ということに。

 ふたたび押し寄せる不安。

 さきほどよりも、強く……そして、こころ粟立つ理不尽なほどの後悔。

「わたしたちはね、ひとではないんだ」

 卓子の上のシルヴィアの手が、そっと持ち上げられる。

 シルヴィアの肩に触れる毛織りの外套の感触。

 椅子を立つ気配すらなく……ガルシアは彼女の横に立っている。

「これがわたしの手。ひとかけらのぬくもりもなく、脈すらない」

 シルヴィアの指先が、『なにか』に触れた。

 真冬の夜に野晒しにされたもやい綱を結ぶ鉄杭のように冷たく、そして、青年の言うように、いのちの気配のない『なにか』。

「君がここにいたいと言うなら、もちろん、歓迎するよ。わたしもそのつもりだったからね」

 ……ひとでないなら、なんだって言うんですか……

 問いかけの言葉は、言葉にならない。

 声が、出ない。

「対価は、君の血だ。君はわたしたちが望むときに、望むだけの血を捧げてくれなければいけないよ? それで構わないなら、ここにいるといい。君の望むだけ……そう、永遠にでも」

 青年が笑う。

 低く、穏やかな……どこか自嘲めいた響きのある笑声。

「シルヴィア嬢、わたしたちは……吸血鬼ヴァンピーロ他者ひとからは、そう呼ばれている」

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