第49話



 リィルと一人の少年が意思の疎通を行う方法を取り戻す数日前、ルルは飛行機に乗ってその街から立ち去った。目的地は特にない。したいことも何もなかった。だから、その街に来て彼らの様子を観察しようと思ったのは、本当に気紛れ以上の何ものでもない。けれど、特別な目的がないからこそ旅程は楽しいものになったし、予期しない様々な出来事に遭遇することができて、彼女は一人で満足していた。


 キャビンアテンダントがやって来て、飲み物は如何かと尋ねてきたから、彼女は暖かいコーヒーを注文した。飛行機の中でホットコーヒーにありつけるとは思っていなかったから、ルルはそのサプライズに感激してしまった。


「そういえば、ルルさんは、飛行機に乗られるのは初めてでしたね」


 ルルの隣の席に腰かけた男性が、低い声で彼女に話しかける。彼はスタイリッシュなスーツを身に着けて、色の濃いしっかりとしたサングラスをかけていた。あからさまにこんな格好をしている人間はあまりいない。それは彼の趣味で、彼が職務の最中にそんな気取った格好をしていても、ルルはまったく不快に感じなかった。


 こんな格好をしている人間、と断ったのには理由がある。それは、彼は人間ではないからだ。彼はルルが設計したウッドクロックである。


「うん、そうなの……。そもそも、出かける機会が全然なかったから、色々なことが新鮮で……。でも、やっぱり、私には、部屋に閉じ籠もっている方が似合っているかもしれませんね」


「そうですか? 外も、内も、あまり変わらないと思いますが」


「どういう意味?」


「深い意味はありません。思いつきで話しただけです」


「素晴らしいですね」


「貴女にそう言ってもらえるなんて、光栄です」


 ルルは上品な笑顔を彼に向ける。そんな彼女の表情を見て、彼は小さく口元を上げた。

 彼は、人間と同じような見た目をしながら、中身はほとんどメカニカルな機構で作られている。それはルルが意図的にそうしたからだった。彼女には、人間ではない、しかし人間とそっくりな、そんな微妙な立ち位置にいるアシスタントが必要だった。いや、彼はもはやアシスタントとは呼べないかもしれない。それ以上に親密な関係であることは間違いない。親密の度合いを数値で表すことはできないが、たとえるなら、冷蔵庫の表面にくっつくマグネットくらい二人は親密である。だから、立場上はルルの方が上でも、彼は彼女のことを親しみを込めて「ルルさん」と呼んでいた。


「それにしても、予想通りの展開で、面白かったですね」リクライニング機能を使って椅子の背を倒した彼が、天井を見たまま呟いた。「私は、もう少し貴女の予想が外れると思っていましたけど、こうも単純に事が進むと、プログラムというものにちょっとした恐怖を覚えます」


「その恐怖も、プログラムされたものです」ルルは説明する。「貴方は、私に作られたのですから」


「彼があのタイミングで自分を規定し直そうとしたのも、そうプログラムされていたからですか?」


「さあ、どうでしょう……。私には分かりません」


「誤魔化さないで下さいよ」


「彼のことは、彼にしか分かりません」


「貴女は、自分が誰だか分かっていますか?」


「貴方は、どう?」


「さあ、どうでしょう……。仮に私が貴女だったとしても、私には、私が誰かなんて分からないでしょうね」


 彼の答えを聞いて、ルルは嬉しそうに微笑んだ。


 高度は大分高くなっている。もう眼下に先ほどの街は見えなかった。見えなくても、それは確かにそこに存在する。しかし、認識しなければ、存在するかどうか分からない。もしかすると、だからこそ、自分はあの街に行こうと思ったのかもしれないな、とルルは考えた。こんな当たり前のことを考えるのは久し振りで、その思考を辿ったことで、彼女は昔のことを少し思い出した。


 それは、リィルを生み出した日のことだった。彼女は起動した瞬間に自分が人間ではないことを悟って、ルルを驚かせた。その不備は、想定していなかったものだったからだ。テュナやベソゥが有する不備については、設計の段階でルルも存在を把握していた。しかし、リィルのそれは明らかに性質が違っていた。人間が、誕生した瞬間に自分が何者であるのか悟ることがないのと同じように、ウッドクロックも、自分が何者であるかを悟るまでにはそれなりの時間が必要になる。記述されたベーシックに何らかの齟齬があったために、リィルはすぐに自分が何者であるのか悟ってしまったのだ。


 あの少年と出会って、リィルは幸せになっただろうか、とルルは考える。幸せという、形のないものについて考えるのは、彼女にとっては多少抵抗があった。けれど、最近になってそんなことも少しできるようになったから、彼女は自分の変化を不思議に思っていた。

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