第44話

 僕がぼんやりと考えていると、リィルが僕の肩を叩いてきた。


「うん? 何?」僕は尋ねる。


 リィルは、なんだかもじもじとした様子で、視線がなかなか定まらない。


「何? あ、えっと、何か言いたいことがあるんだね?」


 リィルは頷く。


「えっと……、なんだろう。あ、僕に、ご飯を食べたら、と言っているの?」


 僕の問いに対して、リィルはふるふると首を振る。


「じゃあ、テレビでも観て楽しんだら、ということかな?」


 リィルは怪訝そうな顔をして、さらに激しく首を振った。たしかに、この状況で、彼女がそんなことを言うはずがない。


「うーん、あとは、なんだろう……。構ってほしい、というわけでもなさそうだし……。うん……。あ、そうか、分かった」僕は言った。「お風呂に入りたいんだね?」


 リィルは勢い良くソファから立ち上がり、リビングから出ていこうとする。


「いや、僕が悪かったよ」僕は笑いながら彼女を引き止める。


 僕が肩に触れようとした途端、リィルは後ろを振り返って、激しく言葉を吐き出した。

「zbh, まmらあjんんっgrxへらんゔぁあqんんえん!」


 僕は驚いて、一歩後ろに下がる。


「あんtんvんvqんvっflばっvhなあqんんえん,fhxbfvxへんv,jんgんfゔぁbっvgんvxbgbjbfんっfvgrlb!」


 ……。


 僕は沈黙して、口を開けたままリィルの顔を見つめる。何か感情が篭ったことを言われたのは分かったが、言葉を理解できないので、意味を正しく把握することができなかった。僕には、どうしても、意味のないただの音に聞こえてしまう。もちろん、そこに意味の存在を感じることはできる。けれど、僕の側にその意味を受容できる型が存在しないから、彼女が話す言葉から内容を推察することは不可能だった。


「……ごめん」僕は謝る。


 少し間を空けてから、リィルはにっこりと笑った。


 僕もリィルも落ち着きを取り戻す。


「少し、外に出ない?」僕は提案した。「家にいても、意思の疎通ができないなら、何もできない。少し散歩でもして、気分を落ち着けよう」


 僕も色々と整理したいことがあった。まだ、ルルに教えてもらったことが、完全には理解できていない。彼女と話し終えてから、一度眠ってしまったから、身体の調子が狂ってしまって、今はお腹も空いていなかった。運動をすれば、多少は食欲も湧いてくるかもしれない。


 そう、食欲……。


 僕はウッドクロックだけれど、人間と同じように食事をする。それだけではない。皮膚を損傷すれば血も流れるし、感動すれば涙も零れる。もはや、普通の人間と何も変わらない。


 でも……。


 だからといって、リィルと僕が対等な存在ではない、とは言いたくなかった。むしろ、彼女は、限りなく僕に似ている。そして、事実として僕と彼女は同じ生き物なのである。

 そう考えると、少しだけ胸の内が明るくなるような気がした。


 そうだ。


 自分が人間であろうと、そうでなかろうと、そんなことはどうでも良い。


 瑣末なことだ。


 もっと気にしなくてはいけないことがある。


「さあ、行こう」僕はリィルの手を取って、彼女と玄関に向かった。「二足歩行すれば、誰でも人間だよ」





 僕とリィルは、歩いて丘の上にある公園に向かった。そこは僕と彼女が十三年前に初めて出会った場所で、そして、十三年振りに再開した場所でもある。街の片隅にあるこの公園には今は誰の姿もなかった。時間帯も関係しているかもしれないけれど、そもそも、こんな場所に公園があることを知っている人は少ない。僕も、ときどき散歩をするから、たまたまこの丘の上まで辿り着いたというだけで、誰かから聞いてこの公園の存在を知ったわけではなかった。


 それが当たり前であるかのように、僕たちは並んでベンチに腰をかける。リィルは遠くの方を見たまま固まってしまって、僕の方を見ようとはしなかった。といっても、お互いに顔を見合わせても会話はできないのだから、必然的にそうするしかない。吹き抜ける風が心地良かった。今日は空は晴れている。青空というほどではなかったけれど、雲が一つもなくて、涼しい水色がずっと向こうまで続いていた。


 上から見渡してみると、この街が如何に隔離されているかが分かる。北に海、南に山があるから、隔離、というのは何の比喩でもない。そして、この街は、トラブルメーカーが統治するブルースカイによって監視されている。その装置はベソゥが管理しているもので、僕は、彼はどうしているだろう、と少しだけベソゥのことが心配になった。ベソゥは一度自殺をしようとしているから、これからも、同じ論理的帰結に至る可能性がある。そうなったら本当に困るけれど、彼が自殺という結論に辿り着いたことは、記憶として存在しないことになっているから、それほど気に病む必要はないかもしれない。ただ、心配といえば心配だったし、最近会っていなかったから、時間を作って彼に会いに行こう、と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る