第8章 遺志よ意思

第36話

 僕の前にリィルの青色の瞳が浮かんでいた。


 彼女がソファから上体を起こすのと同時に、この家のシャッターがすべて自動的に下ろされた。それから、家の中に滞留する無線通信がすべてシャットアウトされる。僕は完全に隔離された状態になり、声も出せず、目の前に座る異型をただ見つめることしかできなかった。


「……リィル?」


 僕は小さな声で彼女に問いかける。


 しかし、そこにいる彼女は、リィルではなかった。


 外見は確かに彼女と同じである。けれど、身に纏う雰囲気がまったく違っている。その違いを言葉で説明することはできないけれど、生まれ変わりのような、あるいは、似ていながらも性格や趣向が異なる双子のような、そんな見知らぬ「誰か」がソファに座っている。僕は、怖くなったけれど、それでも、呼吸と心拍はいつも通り落ち着いていた。そう……。まるで、その一定のリズムを保つのが当然であるかのように……。


「私は、リィルではありません」


 やがて、リィルの身体を持つ「誰か」が、僕の呼びかけに応答した。


「君は、誰?」僕は尋ねる。


「誰、という質問にはお答えできませんが、リィルの母親だ、とでも申し上げておきましょう」彼女は言った。「貴方は、現在、今まで自分と暮らしてきた少女が豹変して、大変驚いていると思います。ですが、そんな必要はありません。ええ、たしかに、少なからず驚かせてしまったことは確かです。ですから、その必要があれば謝ります。貴方は、私の謝罪を望みますか?」


「……いえ、望みません」僕は答えた。「えっと、どういうことなのか、僕には、さっぱり……」


「私は、トラブルメーカーの創始者です」


 それを聞いて、僕は彼女をじっと見つめる。


「貴方は、すでに、その名前を知っていますね?」


「……どういうことですか?」


「この音声データは、特定の条件が揃った場合に起動するようになっています。彼女、リィルと呼ばれる個体に搭載されたウッドクロックが、もともと設定されていた『ある時』を刻んだとき、私が彼女のもとに現出するようにできているのです。ですから、彼女の人格を形成するデータが上書きされたわけではありませんので、ご安心下さい。貴方が愛したリィルは、消えてなくならない、ということです」


 僕は彼女をテーブルへと案内し、二人で向かい合って椅子に座った。僕は、落ち着きを取り戻すためにコーヒーを淹れる。コーヒーにはカフェインが含まれているから、どちらかというと、覚醒作用が齎されることになるけれど、それなりに覚醒していないと、彼女の話も上手く理解できないだろうし、それを飲めば気分的に落ち着くだろうから、まあ、良いだろう、と思ってそれを用意した(良い、というのには、具体的な意味はない)。


 僕が席に戻ると、彼女は椅子に座ったまま、真っ直ぐ前を向いていた。


「お待たせしました」椅子を引いて、僕は言った。「えっと、あの……、まだ、よく、理解できていないのですが……」


「ええ、無理もないと思います」


「貴女のことは、どのように呼べばいいですか?」


「そうですね。私に名前はありませんが、ルル、というのが私を識別する記号です。ですから、必要があれば、そのようにお呼び下さい」


「分かりました、ルル」


「貴方の名前はなんですか?」


「え、僕ですか?」僕は首を傾げる。「……僕にも、名前はありません」


「では、リィルは、いつも、どのように貴方を呼んでいるのですか?」


「リィルは、僕の名前は呼びません」


「それは、どうして?」


「家に二人しかいなくて、名前を呼ぶ必要がないからです」


 僕がそう答えると、ルルは満足そうな顔で一度頷いた。


「何か、訊きたいことがあるようですね」


 僕が黙っていると、ルルの方から話しかけてくる。


「ええ……。……その前に、貴女は、どうして、僕の前に現れたのですか?」


「貴方の疑問に答えるためです」


「それは、どういう意味ですか?」


「貴方と、リィルが、どのような過程を経て、どのような疑問に辿り着くのか、それらはすべて予想されていました。そして、その通りに、今回それらの予想が的中した、ということです」


「でも、それは、貴女が現れた本当の目的ではないのではありませんか?」


 僕がそう尋ねると、ルルは、リィルとはまったく異なる、上品な笑みを浮かべた。


「ええ、その通りです」


「親子だと、やっぱり、似ているということかな」


「何か言いましたか?」


「いえ、何も」


「私が貴方の前に現れた真の目的については、後々お話させて頂こうと思います」


「ええ……」


 僕はコーヒーを飲む。


「貴方が私に尋ねたいことは、主に次の三つですね?」


 ルルがそう言うと、彼女の瞳が宿す青い光が強くなって、目の前の空間に立体映像が投影された。


 そこには、



①トラブルメーカーとベソゥ、及びブルースカイに関すること


②色の三原色に関すること


③自覚と無自覚に起因する、ウッドクロックのタイプに関すること



 の三つが記載されていた。


 僕はその内容を確認し、彼女の質問に答える。


「ええ、その通りです」僕は頷いた。「それを、僕に教えるために、貴女はここにやって来たのですか?」


「それと、先ほど貴方が尋ねた、真の目的を果たすために、です」


「リィルが、僕の所にやって来た理由についても、教えて頂けませんか?」


 僕がそう要求すると、ルルは何の躊躇も見せずに頷いた。


「ええ、もちろんです」

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