第35話



 リィルが意識を失ってから一時間が経過しても、僕は今自分にできることを何も思いつかなかった。普段から頭の回らない馬鹿な人間だから、緊急時にだけ優れた知性を発揮できるわけがない、と言われても何も反論はできない。けれど、いざこういう事態に直面してみると、自分の無能さが想像以上にひけらかされるようで、僕はもどかしくてどうしようもなかった。自分で「僕は馬鹿な人間なんです」と言うのと、他人から「お前は馬鹿な人間だ」と言われるのとでは、受けるダメージがまったく違うという話である。


 時刻は午後一時。まだ人間が活動している時間帯だから、誰かに助けを求めることもできなくはない。しかし、物理的に助けを求めることができても、僕にはそれができない理由がある。まず、リィルはウッドクロックだから、人間を専門とする救助機関に連絡したら、すぐに彼女が人間ではないことがばれてしまう。それだけはなんとしても避けなければならない。そして、もしそういった事態になった場合に、今度はベソゥに関する一連の内容が外部に露呈してしまう可能性が高い。彼は自分がウッドクロックであることを認識していないから、リィルが人間ではないことがばれてしまったら、間違いなくベソゥの方にも危険が及ぶことになる。


 だから、今の僕に誰かの手を借りるという選択肢はない。


 今までリィルに何もかも頼ってきたから、そのつけが回ってきた、と考えれば帳尻が合うかもしれない。けれど、そんなふうに、プラスマイナスゼロになるからそれで良い、という話ではないし、現状がマイナスに傾いているのなら、今すぐにそれをプラスに変えるために行動するべきである。


 と、こんなふうに考えている間にも、時間は刻々と過ぎていく。


 僕は、どうしたら良いだろう?


 思わず、リィル、教えてくれ、と言いたくなってしまう。


 しかし、今はそれができない。


 彼女の腹部に耳を当ててみると、どうやら、呼吸まで途絶えているわけではないらしい、ということが分かった。人間と同じ位置に肺があるわけではないから、正確なことは言えないけれど、空気が通るような周期的な音が聞こえることから、おそらく、それが、呼吸器が働いている証拠だと考えられる。そうなると、彼女全体を根本的に支えるウッドクロックが、呼吸器としての機能を維持しつつ、ほかの機能に支障を来した、と考えるべきだろう。


 おそらく、それは、ウッドクロックの中の記憶媒体としての機能に違いない。


 記憶……。


 何かがトリガーになって、彼女はこんな症状を引き起こしたのだろうか?


 それなら、何か解決方法があるはずである。


 しかし、何も思いつかない。


 どうしようもなくて、僕が小さく溜息を吐いたとき、リィルに変化があった。


 彼女が、ソファから勢いよく起き上がる。


 座ったまま、僕の方を見て、一度小さく瞬きをした。


 僕は驚いて彼女を直視する。


 目が合った。


 けれど……。


 その目が、今は、青く、光を放っていた。


「……リィル?」


 僕の声に反応して、彼女は僅かに首を傾ける。


「おはようございます、ご主人」そして、リィルは、簡潔に挨拶の言葉を紡いだ。「状態は、如何ですか?」


 四肢。挙動。発音。


 僕は、もう一度、リィルを見つめる。


 しかし、そこにいるのは、彼女ではなかった。


 青色の光。


「君は誰?」僕は質問する。


「私と、貴方は、同じです」彼女は答えた。

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