第34話

 僕はフレンチトーストを食べ終わる。


「あのさ、ちょっと、ここにコーヒーを注ぎ足してきてくれないかな」ホットコーヒーをすべて飲み干してしまったので、僕はリィルにコップを差し出して要請する。「いっぱい入れなくていいからさ、半分くらいで、お願い」


「自分で入れてきたら?」そう言いながらも、リィルは立ち上がって僕のカップを受け取ってくれた。


「いや、そうなんだけど、君に入れてもらった方が、美味しさが増すだろう?」


「それ、冗談?」


「うん、そうだけど」


「最低」


 リィルは笑顔のままリビングから立ち去る。リビングと廊下を繋ぐドアの隣にもう一つドアがあって、その先にキッチンがある。リィルはキッチンの中に入り、一度静かにドアを閉めた。


 僕は、なんだか、最近、リィルに甘えているようである。


 そう……。


 そんな気がしてならない。


 再会したばかりの頃は、お互いにそれなりに遠慮というものがあったと思う。それは僕たちの再会がある程度のブランクを置いて発生したものであり、事実上、初対面とそう変わらない出会いだったからだ。けれど、想像以上に僕たちの仲はスムーズかつシームレスに深まっていったから、それに乗じて礼儀というものを多少失ってしまったのではないか、と考えている。はっきりいって、あまりよくない傾向だといえる。彼女がどう思っているのかは分からないけれど、少なくとも、僕としては、このままこんな関係を持続させて良いとは思っていなかった。


 もしかすると、そう感じるのは、僕が臆病者だからかもしれない。少しでも他者との関係が変わってしまったり、自分が無礼な態度をとってしまうと、言葉では表せないような恐怖に襲われるのである。こういう経験は一度や二度ではないから、慣れているといえば慣れている。だから、その慣れに従って、今回も、リィルとの関係がもとの状態に戻るのを望んでいるのかもしれない、と分析することができた。


 でも……。


 そうだ……。


 きっと、リィルは、そんなことはまったく望んでいない。


 彼女は、自分にとって気に食わないことがあれば、僕に直接それを伝えようとするだろう。


 そうに違いない。


 だから、僕一人で判断してはいけない。


 おそらく、僕が間違っている可能性の方が遥かに高い。


 さっきだって、リィルは、文句を言いつつも、笑いながら、僕のカップを受け取ってくれたのだ。


 なんという優しさ。


 僕は、そんな彼女の優しさに感謝しなくてはならない。


 リィルはとても優しい。


 そもそも、僕みたいな駄目な人間と婚約を交わしてくれるなんて、もう、その時点で、優しさの塊みたいなものではないか。


 彼女が帰ってきたら、少しは感謝の気持ちを伝えてみよう。


 僕は、臆病者だけれど、それくらいのことはできる。


 それなら、できることをやるしかない。


 それ以外の選択肢は存在しない。


 感謝、感謝……。


 一言言葉にするだけでも、違うだろう。


 そんなことを考えていると、キッチンの方から何かが割れるような音がして、僕の意識は一気に現実へと引き戻された。


 今の音はなんだろう?


 いや、考えるまでもない。この家には僕とリィルしかいないのだから、僕が何かを割ったのではないのなら、それはリィルが引き起こしたもの以外にありえない。


 嫌な予感を抱きながらも、僕は椅子から立ち上がって、キッチンへと足を向けた。


 でも、臆病者の僕は、自身の内側に沸き起こった予感に不安を抱いて、すでに震え始めていた。


 キッチンのドアを開ける。


 少し暗い。


 すぐにリィルの姿を見つける。


 彼女に声をかけようと思ったときには、僕はリィルの傍に駆け寄っていた。


「リィル、どうしたの?」


 リィルは、背後にある食器棚に自分の背中を預けるようにして座っている。座っている、という表現はおそらく間違っていて、正確には、足を投げ出している、といった方が彼女の状態を適切に表すように思える。


 床にカップの破片が散らばっている。幸い、彼女は怪我をしていなかった。


「リィル?」


 僕は、当然、驚いたけれど、どうしてか、その分、冷静に行動しようとする自分がいて、大きな声を出したりはしなかった。


 リィルを自分の腕の中に抱き抱え、彼女の肩を何度か前後に揺らす。


 しかし、反応はない。


「どうしたの? リィル?」


 僕が何度声をかけても、彼女は一度も言葉を返してくれなかった。


 僕は、彼女の目を、そっと覗き込む。


 目?


 そうだ……。 


 僕は、そのとき、初めて、彼女の目が開いたままになっているのに気がついた。


 やはり、これは並大抵のことではない。


 キッチンのドアを大きく開いて、彼女を抱えたままリビングへと戻る。


 窓の外に広がるのは、鼠色の雲。


 それまで晴れ渡っていた春の空は、色彩を失い、すでに骸と化していた。


 僕はリィルをソファの上に寝かせる。


「リィル? リィル?」


 彼女の瞳と、僕の瞳は、ついに一度も合わなかった。

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