第33話

 暫くの間、僕は黙ってフレンチトーストを食べ続ける。リィルはソファに座ったまま読書を続けていた。タッチパネル式のディスプレイを備えた端末を使って、彼女は雑多な情報を頭の中へと保存していく。ウッドクロックには、人間と同じように、それほど重要ではない情報を自然と喪失していく性質があるらしい。人間でいうところの「忘れた」という状態がそれに当たる。忘れるといっても、コンピューターみたいに完全に情報がゼロになるわけではないから、ちょっとしたキーによって、忘れていた情報が一時的に蘇ることもある。どうやら、リィルは、そういった一種の「閃き」のために読書をしているみたいだった。それは僕が読書をするのと同じ動機だから、行為として特に不自然な点はない。


 ただ、ウッドクロックという、少なからずメカニカルな機構を備えた人工生命体が、どうしてここまで人間と同じような行動をするのだろう、というところが、僕は非常に気になって仕方がなかった。彼女に出会ってからというもの、僕はずっとそのことについて考え続けている。人間ではないのに、人間の真似をするな、と言っているのではない。ウッドクロックを開発した人物が、どうしてここまで人間を模倣するのに拘ったのか、その点がいまいち僕には理解できないのである。どうせ新たな生命体を作るのなら、既存の生命体を超えるものを作らないとはっきりいって意味がない。そんなふうにある種の「制限」を設ける理由といえば、人間が持つ能力を超えないように保険をかける、といった酷く陳腐な理由しか思いつかない。それは僕に思考力が足りないからかもしれないけれど、それにしても、なんだか違和感があるな、と僕はずっと思っていた。


 ただ一つ、リィルは、外見はかなり秀でている。


 つまり、意図的に内面の能力が落とされているのだ。


 彼女を作った人物は、いったい、どんな目的を持って、彼女にこういった個性を与えることにしたのだろう?


 考えても分からないから、僕はフレンチトーストをホットコーヒーで流し込む。


 けれど、そんなふうに急速に糖分を補給しても、分からない問題は分からない問題として残存するだけだった。


「そういえばさ」不意に、読書を一旦停止して、ソファに座るリィルが呟いた。「君は、あれから、彼の所に行ってないけど、心配じゃないの?」


「彼?」僕は彼女の言葉をすぐに理解する。「ああ、ベソゥのこと?」


「何か、変なこととか起きていないかな」


「彼に? うーん、どうかな……。ああ見えても、ベソゥは、なかなか器が大きいというか、まあ、色々と柔軟に対応できるからね。僕なんかが心配しても、あまり意味がない、というか」


「そうかな? 私には、なんていうのか、こう……。……うん、誰かに、助けを求めているように見えたけど……」


「彼の幼さに騙されたんじゃないの?」僕は笑う。


「そうかな……」


「まあ、あまり気にする必要はないよ。もし何かあったら、まず僕に連絡が来る。なんか、自分で言うのは変かもしれないけど、彼には、親しい人間が、僕くらいしかいないんだ」

「彼のことについて、何か考えていたんじゃないの?」


 リィルの視線がいつも以上に真剣だったから、僕は少しだけ自分の態度を改めた。彼女は僕に説明を求めているのである。それにすぐに気づかなかったことが、僕にしては珍しく、ちょっとだけ残念に思えてならなかった。


「うん、そう」僕は曖昧に頷く。「何か、は、考えているよね、普通は」


「何を思いついたの?」


「いや、別に何も思いついていない」僕は言った。「ただ、彼があの施設にいるのには、何か意味があるんじゃないかな、と思ってさ」


「意味?」


「うん……。ブルースカイを管理する、というのも、きっと建前上の理由にすぎない。というよりも、彼が意図してそうしているんじゃなくて、むしろその反対、彼は、誰かの意図によって、そうさせられているんじゃないかな、と僕は考えている」


「具体的には?」


「だから、直接的に言えば、トラブルメーカーが関わっている、ということ」


 トラブルメーカーというのは、ベソゥにブルースカイシステムの管理を委託した企業のことだ。ベソゥは彼にとって有益な条件を持ち出され、その結果施設ごとブルースカイを管理するようになった。


「大したことはなくても、トラブルメーカーがあれだけの情報を彼に公開するのは、やっぱりどう考えてもおかしい。彼を騙すならまだ分かるけど、あの情報は、どう考えても、まったくの嘘だとは思えない。街が、海と、山と、そして、最後の空によって管理されているなんて、確認すればすぐに真実だと分かるし、わざわざそれを彼に伝えるのは、そうすることで、情報に信憑性を持たせようとしている、ということだと思う。あるいは、彼にそう信じ込ませておいて、本当はそうではない、要するに、彼を操作する、というのが目的という可能性もあるけど、でも、そうすると、今度は、与えられた情報の質がどうにも低いように思えてしまう」


「うーん、そうかな……。私には、あまり、よく、分からないけど」


「僕も分からないよ」


「でも、何か引っかかるんでしょう?」


「まあ、そうだけど」


「じゃあ、やっぱり、何かある、ということだよね」


「え、どうして?」


「だって、君がそう言うから」


「君さ、今、誰と会話しているの?」


「どういう意味?」


「いや、撤回しよう」僕は言った。「とりあえず、僕の言葉をすぐに鵜呑みにしないでね」


 リィルは怪訝そうな顔をしたが、数秒後には素直に頷いてくれた。

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