第32話
小鳥の囀りがどこからか聞こえてくる。ウッドクロックは可視光線とは別の方法で世界を認識しているらしいけれど、僕が「赤」だと認識したものは、彼女にも「赤」として認識できるから、結果として意思の疎通に齟齬が生じることはない。僕にとって「赤」に見えるものが、彼女にとっては「青」に見えたとしても、それを彼女が口で「赤」だと言えば済む話なので、それほど気にするような言語的な齟齬ではない、といえる。そもそも、人間同士だって、僕の言う「赤」とほかの誰かの言う「赤」は完全に同じものではないので、そういった点を鑑みれば、僕とリィルのコミュニケーションも人間同士のそれと同じだと考えることもできる。そして、音の認識については、僕と彼女との間にそれほどの差異がないことが分かっている。それは、会話が成立していることからも分かるし、ウッドクロックは人間をモデルに作られているから、当たり前といえば当たり前、反対に、あえて(根本的な)言語を揃えない意味はないということからも、そういった結論に辿り着く。
森の中に入る。陽光が減る分体感温度もかなり低くなった。
「寒い」リィルが呟く。
「やっぱり」
「何がやっぱりなの?」
「いや、特に深い意味はない」
動物の気配は感じられるものの、その姿を直接視認することはできない。では、どうして、気配を感じられるのだろう、と僕は不思議に思う。それは動物に限った話ではなく、人間相手でも同じことがいえる。人間が背後に立っていたら間違いなく気配を感じるし、さらには、リィルが僕の背後に立っていても、人間のそれと同様の気配を感じる。だから、それは、生き物であるか否か、ということとは関係がないのかもしれない。それが生き物らしいものであれば、なんでも気配を察知する対象になりえる。
森の中に作られた散歩道を一周回って、僕たちはもといた地点に戻ってきた。そのまま森を抜け、公園を出て、家に着くとだいたい一時間が経過していた。
僕はリビングで朝ご飯を食べる。その間、リィルは本を読んでいることが多い。僕は紙の本はあまり読まない質なので、それに伴って彼女も電子書籍をよく読むようになった。紙の本も買わないわけではないが、管理が大変だし、何より置き場所に困るから、本としての価値があるものしか僕の家には置かれていない。
そうやって、特別なことが起きることもなく日常は消費されていく。しかし、それは、「消費」なのだから、使い切ってしまえば次にはもう日常はやって来ない。
それが、もしかすると、今日かもしれなかった。
僕は、自分でも知らない内に、毎日、日常と呼べるものを、消費していたのである。
それには、きっと、リィルも気づいていない。
だから、彼女は、今日も、いつも通りに読書をしていたし、僕も、いつも通りに席に着いて朝食をとり始めた。
「そんなに、毎日情報を取り込んでいて、疲れない?」僕はフレンチトーストをナイフで切りながらリィルに尋ねた。
「うん、そんなに疲れない」リィルは顔を上げないで答える。
「今は、どんな本を読んでいるの?」
「人間が書いた本」
「そんなの当たり前じゃないか」僕は笑った。「あ、でも、君も何か書いてみたらいいんじゃないかな? 人間ということにしておくとか、僕が書いたことにしておくとか、方法は色々ありそうだよ」
「うーん、でも、私の頭って、あまり発想するのには向いていないみたいだから……」
それはたしかにそうかもしれない。どうしてなのかはまったく分からないが、リィルの情報処理能力は人間のそれとあまり変わらないのである。というよりも、人間の平均値を少し下回るくらいだといった方が正しい。僕も全然頭の回転は速い方ではないけれど、少なくとも、彼女以上には多くの発想をする方だという自覚はあった。
しかし、リィルも、まったく秀でた部分がないわけではない。僕が思うに、彼女は他人の感情を汲み取る能力に長けている。彼女の根本的な思考基盤にそういった種類のプログラムが存在しているのかもしれないが、後天的なものである可能性もあるし、どうしてそういう能力に長けているのか、言い換えれば、どうしてそういう部分だけ秀でているのか、僕にはさっぱり分からなかった。でも、それは悪いことではないし、むしろ素晴らしいことだと思うから、僕は彼女のそういった点を非常に尊敬している。僕は人間なのに、全然他人の感情を汲み取ることができない。けれど、それは、彼女がウッドクロックであることを強調したいわけではない。
ウッドクロックである彼女は、いったい、僕のことをどう思っているのだろう?
どう、というのは非常に抽象的な問いだが、抽象的なものは指針を示すときに役に立つ傾向がある。
だから、一度、そんな抽象的な質問を彼女にしてみるのも良いかもしれない。
まあ、僕にそんな度胸があればの話だけれど……。
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